雑賀孫市(まごーん)の中の人ブログ

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収集品をネット展示してみる~陸軍士官学校卒業写真帖シリーズ第二弾・学校本部編~

2015年04月13日 23時02分34秒 | 収集品
こんばーん、まごーんよ。
今日は前回に引き続き第二弾。
今回は学校本部編です。9名のウチ、確認できた7名を上げます。
近藤義孝歩兵中佐(のち陸軍歩兵大佐)。陸士24。最終軍職は名古屋師管区歩兵第2補充隊長。
赤鹿理歩兵中佐(のち陸軍中将)。陸士22。このあとは陸士学生隊長に就任します。最終軍職は第122師団長として戦後はシベリアに抑留されてます。
伊佐一男歩兵大佐(のち中将)。陸士23・陸大33。歩兵第3旅団長。西部防衛参謀長などを歴任しました。
高級副官・見城五八郎歩兵中佐(のち少将)。陸士24。第12歩兵団長や独立混成第33旅団長、第81旅団長を歴任しました。
赤真昌二郎歩兵大尉(のち歩兵大佐)。陸士33。最終軍職は前橋陸軍予備士官学校歩兵生徒隊長。
副官・松村重夫歩兵大尉(のち歩兵大佐)。陸士31。歩兵第90連隊長を務めました。
副官・乗兼悦郎歩兵大尉(のち歩兵大佐)陸士33・陸大専科5。
最終軍職は教育総監部庶務課長です。

以上、学校本部編でした。次回は戦術学部から紹介します。

収集品をネット展示してみる~陸軍士官学校卒業写真帖シリーズ第一弾・学校幹部~

2015年04月12日 15時25分47秒 | 収集品
こんにちわー、まごーんやで。
今回からしばらく、同じものからの紹介です。
陸軍士官学校の卒業写真帖です。今回から数回に分けて、ここに載ってる陸軍軍人を紹介します。一応、簡単な経歴は書きますが詳細を知りたかったら検索するなりしてください。だいたいサクラタロウDBさんとこで出るから。
本日は第一弾。陸士校長および、幹事、学生隊長。副官、前副官、第一学生隊長、前第一学生隊長、第二学生隊長、第三学生隊長、前第三学生隊長の10名を紹介。一部の人は恐らく日本初公開でしょう。あと今度から転載防止のため、当ブログの名前が写真と一緒に出るのでご了承くだしあ。サイトに載せたい人とかは必ず連絡及び載せる際にこのブログからの引用を記載。また載せるブログを教えていただければ、ほぼ許可いたしますので。なんやったらTwitterからでも良いし、Twitterにしかいないけど。
それでは紹介していきます。
まずは陸士校長。
末松茂治中将(階級は最終)です。末松中将は陸士14・陸大23。中将進級とともに校長となり、その後は第14師団長。予備役となります。日華事変勃発に伴い、召集され、第114師団長として、南京攻略戦などに参戦しました。
次は幹事。
酒井鎬次少将(のち中将)です。陸士18・陸大24優等。フランス駐在武官、平和条約実地委員や国際連盟陸軍代表随員を務めた国際派。陸士幹事のあとは第24旅団長。そして日本初の機甲部隊である独立混成第一旅団長となりました。
次は生徒部長。
村井俊雄歩兵大佐(のち中将)です。陸士20。
生徒部長のあとは戦車第4大隊長。独立混成第16旅団長になり日華事変へ出征しました。
次は前副官。
浅野憲一郎輜重少佐(のち輜重大佐)です。陸士29・陸大専科5。
最終軍職は第41軍参謀副長兼第8師団参謀長を務めました。輜重兵科としては珍しく要職です。
次は副官。
甲斐隆之助輜重少佐(のち輜重大佐)です。陸士29。第50野戦輸送司令官を務め、最後は第10方面軍司令部附。
次は前第一生徒隊長。
堀静一少佐(のち少将)です。陸士29・陸大専科5。第109師団参謀長。しかし栗林忠道と対立し更迭され混成第2旅団司令部附として硫黄島に於いて戦死しました。同師団参謀だった堀江芳孝氏曰く
「鉄道畑の人で陸大専科出身であった。他人の話をよく聞いて小さな手帳にメモをとる習慣を持つ、きわめて温厚に見える堀大佐が、なぜ長いひげを伸ばしていたのかわからない。また、かなり親しいように見えていた兵団長との仲が、どうして悪くなったのか私にはわからない。8月、私が硫黄島に行ったときはすでに二人の仲はどうにもならないところまできていた。
両方とも他に求められない長所を持ちながら、どんな家庭でも、どんな司令部でも米軍でも同じことではあるが、特に離島においては、昼の夜も一緒に生活するため深刻になるわけである。12月30日付けで混成第2旅団司令部付となった。誠に気の毒な人である。戦闘にあたっては3月9日朝、混成旅団の万歳攻撃で戦死したとも、5月ころまで洞窟内に生きていたともいわれている。私個人から見ると、親しい、親切な、控えめな上官であり先輩であった。悲劇の人であった。」(こちらのサイトに掲載されているのから引用)
次は第一生徒隊長。
寺尾務歩兵少佐(のち歩兵大佐)
陸士30・陸大専科3。第81師団参謀長や第19師団参謀長を務めました。
次は第二生徒隊長。
山本勇歩兵大尉(のち歩兵大佐)
陸士不明。最後は歩兵第258連隊長。
次は第三生徒隊長。
宮脇幸助歩兵少佐(のち少将)
陸士28。仙台予備士官学校長を務めました。
最後は前第三生徒隊長。
平桜政吉歩兵少佐(のち少将)です。
陸士27。歩兵出身でありながら、水戸飛行学校生徒隊長や仙台飛行学校生徒隊長を務めております。最後は独立混成第117旅団長を務めました。功三級金鵄勲章叙勲。

とりあえず第一弾は以上です。次回は学校本部将校を紹介します。

収集品をネット展示してみる~寺内寿一中将の名刺(内田重成海軍司法局長宛)~

2015年04月07日 19時37分41秒 | 収集品
こんばんは、まごーんよ。
今日は陸軍で名門中の名門。皇族以外の親子元帥。
寺内寿一(最終階級・元帥陸軍大将)その人です。(新人物往来社『日本陸海軍名将名参謀総覧』1995年166頁より)
で、紹介するのは、寺内寿一の中将時代の名刺です。
内田重成宛の封筒に入っております。
内田重成は民間出身で海軍司法局長(のち改称により初代海軍法務局長)を務めた人物です。wikiには軍人として海軍中将と紹介されておりますが、全くの誤記ですので注意して下さい。(閲覧日2015年4月7日)
ただ、海軍司法局長(大正5年に海軍法務局長に改称)はのちに、海軍法務中将が就くポストになります。
内田重成な司法局長を務めたのは大正2年からで当時の地位は海軍主理。海軍司法局から海軍法務局に改称されたのと同時に海軍法務官となり転官しました。

さて、内田氏のことはこれくらいにして、寺内寿一のことについて。
寺内寿一と内田重成はともに山口の生まれであり、紹介してる名刺には内田宛に「遠路はるばる来訪ありがとう。」という旨のことが書かれており、寺内の交流関係の一端を知れる貴重な資料です。

消印は寺内が台湾軍司令官の辞令を貰ってから数日後で、恐らくは内地から離れる前に送った挨拶の中の一つでしょう。
その前に内田が来訪してるようですから、内田氏には何かしら伝えていたのかもしれません。
寺内寿一と海軍のなさそうな関係も、意外と探せばあるのかもしれませんね。