雑賀孫市(まごーん)の中の人ブログ

まごーん(中の人)が独りでぼちぼち呟く。

大阪⇔高山日帰り旅行

2021年12月31日 00時31分00秒 | 旅行
こんばんは。今年最後を飾る記事です。今回は、大阪から飛騨高山に行きました。ワイドビュー愛称が廃止されるとのことで乗り納めしました。
↑大阪駅の「ワイドビューひだ」の案内

↑やってきた大阪発の「ひだ25号」。私が乗るのは4号車なのです。が、来た列車は3両編成で、私が乗る予定の4号車が無い!

どうやら、28日の米原の大雪で増結4号車が大阪に持って来られず3両で運行したとのこと。


その結果、私を含め4号車に乗る予定の人たちは1号車自由席へ案内されました。今回は全席満員で1両分足りないのですから溢れていました。私はデッキでは寒いので1号車に滑り込みました。

また指定席券購入者は特急券の払い戻しを行うとのことで、後日ちゃんと返金されました。
昼に高山駅になんとか着いたので「半兵衛」で高山ラーメンを食べました。


高山陣屋は閉館中でした。

高山城から見た市内の景色です。


高山市内を散策して、行きたかった高山昭和館へ。館内に昭和の雰囲気を再現しており、建物、文物等展示、体験ができる施設となっています。


カラーテレビの看板と食堂。なぜか食堂の2階は怪しい影が…?昔の蕎麦屋か?


最後は国分寺で三重塔を見学。江戸時代の新しいものですが、美しいです。

年末最後の旅行でした。来年もあちこちいけるようになれると良いものです。

それでは皆様良いお年を

眉間寺

2021年06月30日 23時04分00秒 | 旅行
6月は眉間寺跡へ行ってました。
眉間寺は、佐保山に在したお寺で、江戸時代に廃寺となりました。
現在は聖武天皇陵域となっています。


↑旧参道



眉間寺の遺物と思われるものが整理されて置いてありました。







あとこれはこの前手に入れた、眉間寺が出していた藩札(寺社銀札)。

今月は至極簡単に。それでは


生駒陣屋跡(稲荷社)

2021年05月30日 20時26分00秒 | 旅行
たまたま天気が良かったので、生駒陣屋跡に行ってきました。

陣屋は、現在の東生駒駅北に在し、5000石の旗本・松平信重(1632-1714)の代官所として機能していました。

生駒陣屋の写真(https://www.city.ikoma.lg.jp/html/dm/story/story_06.html) 「生駒デジタルミュージアム」より 昭和10年代後半までは、ほぼ完全な形で残っていたようです。

読売新聞大阪本社が纏めた『国境物語』では、1940〜50年代までは陣屋の塀が残っていた証言が記されています。




陣屋跡には東生駒駅から歩いて3分くらいで着きます。ちょっと丘です。





辻町第二公園にある、生駒陣屋(矢野代官所)の石碑と稲荷社です。

稲荷社は陣屋の鎮守として元々あったものと推測されます。陣屋がなくなったあとも跡地に残っている例がよく見られますので、これが唯一の生駒陣屋の遺構になります。

陣屋自体は写真を見る限り平地に建っているので、建物は麓にあったのでしょう。


参考文献
生駒市誌編纂委員会編『生駒市誌 通史編』1971年
読売新聞大阪本社編『国境物語』1975年、149〜155頁



鳥羽城と鳥羽藩主・稲垣長剛の位記

2021年04月30日 20時20分00秒 | 旅行
4月も終わりますが、ブログのほうは完全に忘れかけておりました。







今月は、写真の近鉄特急で鳥羽城へ行きましたので、その写真と第5代鳥羽藩主稲垣長剛の位階状でも出します。



これは近鉄鳥羽駅にある鳥羽城想像図です。

鳥羽城自体が近鉄鳥羽線沿いにあります。


城山公園になっている場所からはよく近鉄電車が見えます。



こちらが本丸跡、かつては小学校の校庭となっていて何もありません。三層の天守閣があったようです。



本丸西側の石垣は綺麗に残っています。




本丸跡には旧鳥羽小学校(登録有形文化財)があります。


こちらは三の丸の石垣。




三の丸跡に、鳥羽城のパンフレットがあります。裏面に歴代藩主が書いてあり、そこに稲垣長剛(藩主:1819〜42)の名前が見えます。



こちらが私の所蔵している、稲垣長剛の位記(写真は一部)です。
巻物で、全部広げると160センチくらいあります。写真に写っている文章のあとに、「二品中務卿韻仁親王 宣」からつらつらと正二位、従三位の公卿たちの名前書いてあって、「制書如右請奉 制附外施謹言」としめられます。

あとは天皇御璽が、文政の年号にかかるように二箇所押されています。

鳥羽藩稲垣家の史料は明治大学だったかに分散してあったと思います。

これを手に入れた頃に読んだ児玉幸多ほか編『物語藩史』(新人物往来社、1966年)で鳥羽藩を読みましたが、そこそこ活動してた気がします。
それでは今月はこの辺で、みなさま体調お気をつけて。

なお、鳥羽市教育委員会編『三重県史跡 九鬼水軍の海城 鳥羽城跡』鳥羽市観光協会、パンフレットを参考に書きました。





荒木貞夫の戦後

2021年03月31日 21時52分00秒 | 旅行

 奈良県南部の十津川村。ここの中心部に大きな石碑が建っています。「荒木貞夫終焉之地」と佐藤栄作首相(当時)の筆で書かれたそれは、陸軍大将の最後を記した石碑という点で珍しいものです。そして、十津川における荒木の存在感が伺いしれる史料です。

 前回(下記リンク)、

荒木貞夫の軍刀目当てに来村してから2年経ちましたが、今回は、その荒木の最期の部屋に泊まりました。ですから、十津川を終点とする戦後の荒木貞夫について徒然書きます。

 なお、荒木にとっての「戦後」は、巣鴨プリズンから出所して日本社会へ復帰する、1955618日とします。


荒木貞夫について

 荒木貞夫は1877(明治10)年、旧一橋家家臣・荒木貞之介の長男として東京に生まれました。

 陸軍士官学校(9)を卒業後、日露戦争に従軍し、その後は陸軍大学校を経て、ロシア駐在武官、参謀本部初代ロシア班長などロシア畑の道を歴任しました。最後は陸軍大将となりました。

 1936年、二・二六事件後の粛軍のため現役を退いた。その後は第一次近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣で文部大臣を務め、米内光政内閣で内閣参議を務めました。


荒木貞夫に対する先行研究など

 そんな昭和戦前期における重要人物たる荒木貞夫を主題とした研究は近年、博物館教育に着目した後々田氏の論文など盛んになってきたものの、多いとは言えません*。「荒木貞夫関係文書」という荒木の旧蔵していた文書がありますが「一次史料を全面に用いた研究はない」(伊藤隆ほか編『近現代日本人物史料情報辞典』吉川弘文館、2004年、18)と指摘されているようにこちらもさして注目されるものがないのが現状です。


*富田武「荒木貞夫のソ連観とソ連の対日政策」『成蹊法学』67号、15-65頁、成蹊大学、2008年や、後々田寿徳「荒木貞夫にみる日中戦争期の博物館像(一)」『東北芸術工科大学紀要』13、2006年など


荒木貞夫の「戦後」

 荒木は1955614日、病気を理由に連合国側の許可によって、仮出所が承認されました。18日に夫人の迎えを伴って出所しています。

 すでに巣鴨時代から雑誌に寄稿するなど言論活動を再開していた荒木ですが、出所して2ヶ月後には「巣鴨から出て日本を見る」『政経指針』を発表し、そのなかで、「かれらに希望がないからだ…前途に希望がなければ、建設の意欲が湧かないのはあたりまえである」と、日本が低迷している理由として現在の若者に希望がないという主張をします。

 そこから3ヶ月後の11月にはラジオ「マイクの広場」に出演、「戦争に対してゴタゴタ言うな」発言が反発を呼ぶなど、話題に事欠かない人物でした。

 その後も近藤日出造や、女優中村メイコとの対談など誌上を賑わせる傍ら、1965年には自衛隊に対する講演や、『昭和経済史への証言』の取材インタビューに応じるなど、陸海軍最長老として活動していました。

 その翌年に彼は十津川村の招きで同村に赴くこととなったのです。


なぜ十津川村へ

 荒木は19661031日、十津川出身の国会議員前田正男(荒木貞夫陸軍大臣の秘書官だった前田正実の養子、実祖父は十津川郷士で陸軍中将男爵の前田隆礼)の案内で来村しました。

 荒木が十津川村に来た理由を、碑文はこう記しています。

 「将軍は予て、天誅組の処刑が君側の奸策に因ること二二六事件と酷似せるを聴き、かくの如き事が繰り返えされては、我国体を危くするを憂え、一度現地に就き、事跡を調査したき念願を持って居られた。」

 どうやら荒木は天誅組の処刑と二・二六事件が「酷似せるを聴き」、関心を持っていた為来村したようです。

 では、天誅組の処刑とはなんでしょうか。二・二六事件と、似ているのでしょうか。


天誅組

 天誅組とは、江戸時代末期に、中山忠光を中心とした幕府を倒して尊皇攘夷を行うための集団でした。1863年に、五条の代官所を急襲して代官を斬首し、新政府を宣言しましたが、最後は幕府により鎮圧され組は壊滅、ほとんどが討死や捕縛ののち処刑されました。この一連の出来事を天誅組の変と言います。

 戦前にはかなりの著作が出ていましたが、戦後はローカルでしか研究がされていませんでした。  一方、単行本では近年に舟久保藍『実録天誅組の変』が出され、それで最新の詳しい流れを追うことができます。



6 二・二六事件

 二・二六事件は、1936226日に日本陸軍の青年将校に率いられた歩兵第三連隊約1300名が、当時の総理大臣岡田啓介以下閣僚のほか政府首脳を殺害し、新たな内閣成立を企図した軍事クーデターです。

 高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍大将ら政府・宮中・陸軍中枢の人たちが殺害されましたが、結局政権交代は成功ならずに部隊は帰順しました。率いた青年将校のほとんどは非公開の一審裁判で処刑されました。荒木はこの事件で青年将校に一貫して寄り添った行動をしていました(筒井清忠『二・二六事件と青年将校』吉川弘文館、2014年)。


荒木はなにを聴いた?

 以上が二つの事件()の簡単なあらましですが、荒木はこの二つから何が似ていると聴いたのでしょうか。

 国立国会図書館憲政資料室に所蔵される「荒木貞夫関係文書」に「十津川郷士調査資料書抜」というのがありますが、中身は南朝に関する人物の略歴と十津川郷士に対する文書を筆写したものです。ここからは荒木が積極的に十津川郷士に関心を持っていたとは言いきれません。

 武田泰淳の言葉を借りれば、荒木は戦前に「さかんにしゃべりまくり、書きまくっているから彼の文章をしらべる資料に不自由はしない」(『政治家の文章』59)し、戦後はもちろんですが、その中でも十津川郷士や、天誅組について触れたものは管見の限り見つかりませんでした。

 となると、本当に最晩年に「聴いた」のでしょうか。可能性としては前述のように、荒木に近く、十津川にも近い前田正実-正男がありますが、史料的に確認が取れないので推測でしかありません。


訪村そして死去

 荒木貞夫は1031日に十津川村に来村し、村役場にて時局講演を行いました。何を語ったのか史料がなく確認できませんが、天誅組に関わってたのは推測できます。

 その後に荒木は、史料調査やフィールドワークをしたのち、宿泊先の「十津川荘」にて宴会のあと、温泉にて倒れました。「日本の未来像は、維新の五箇条の御誓文を主とし、つまらぬ事を付け加えずに、これを達成すること」とする遺言を残して亡くなったのでした。90歳でした。



筆者が泊まった荒木貞夫最期の部屋(筆者撮影)。


略年譜

1954.9 「巣鴨からもの申す」『丸』

1955.6.14 仮釈放認め

1955.6.18 仮出所

1955.8   「巣鴨から出て日本を見る」『政経指針』

1955.11 「スガモ断腸の記」文藝春秋

1956.4 ラジオ文化放送「マイクの広場」

1959.7/pp48-53日出造見参 やァこんにちは」『週刊読売』読売新聞社

1958.3 「風雪十三年-陸海両軍の最長老」『丸』

1958.12 「対談 老将軍と女優」『週刊明星』1(23)集英社 24-26

1959.7 「軍隊としての信念と誇りをもて」『丸』

1960.12「テロ事件の抜本策」『新民』

1961.1 「わが師団と太平洋戦争」『丸』

1961.10 「山鹿素行の日本学」『新民』

1962.8 「日本の今昔と世界の将来」『新民』

1965 「戦は総て計り事なり」『現代防衛論集』

1965『昭和経済史への証言』取材

1966.10.31 十津川来村

1966.11.2 十津川荘にて死去

1966.11.9 「荒木貞夫氏に銀杯」毎日新聞13面。財団法人奉仕会顧問

1975 風雲三十年史発表

1987 荒木将軍の実像発表


なお十津川歴史資料館に展示してた荒木の軍刀は、現在はしまわれてしまい、見学不可能です(2021年3月現在)。

訂正(4/10) 3荒木貞夫の「戦後」の「戦争に対してゴタゴタ言うな」「戦争中にあったことを、いつまでもグズグズ言うのは間違いだ…」(『読売新聞』1956年12月29日朝刊8頁)。