今月は選挙がありましたが、今から80年前にも国政選挙がありました。1942年4月の第21回衆議院議員総選挙です。
いわゆる「翼賛選挙」とも呼ばれる、昭和戦時下唯一の選挙でした。
この選挙において、すでに投票を呼びかけるはずの政党は大政翼賛会にはいり、国は翼賛会を推進するため、翼賛政治体制協議会(以下「翼協」)という団体を発足させました。
これは大政翼賛会が治安警察法第3条によって政治活動ができない「公事結社」とされたためで、翼協は政治結社でした。
そのトップについたのが阿部信行です*。この時点で、予備役ながら陸軍大将、かつ元総理大臣で貴族院議員の肩書きを持っていましたが、政治経験は濱口雄幸内閣時代の国務大臣、首相、汪兆銘政権承認の駐華大使の合わせてもわずか一年ちょっとのみというものです。
阿部をトップに上げたのは、大麻唯雄、前田米蔵、永井柳太郎、後藤文夫ら翼協幹部(旧民政党)でした。
ゴードン・M・パーカー『大政翼賛会』(山川出版社)によれば、「首相時代以来、政党指導者に尊敬の念を持っていた」阿部をトップに認めさせることで、既存政党勢力の維持を図ったとしています(245頁)。
で、今回は翼協総裁になった阿部が述べたものを纏めた『大東亜戦下の総選挙』を紹介します。
これはもともと3月22日の『讀賣新聞』に掲載された記事を冊子とした非売品です。
「熱読以つて、本運動の指針とされんことを望む次第である」と冊子にした目的がはしがきに書かれています。
まず翼協創立について述べています。
要点を言えば、それは政府が戦時下に「相応しき帝国議会の出現を希望し」て、「私共に研究工夫を要請」されたので、作ったとしています。
次に「改選を必要とする理由」では、「議会はこの急激なる変化の中に五年を経ている。」平時でも四年で改選し、定期的に議会の内容を入れ替えてるのだから、いまの代議士もこの間進歩しているだろうがこの間に出てきた議会以外の有能な士も無視できない、としています。
「先づ選挙観を一新せよ」では、選挙によって対立が起こるという指摘があるが、ならばこそ改選しなくてはならないと述べています。それはもとより「選挙は争ひでない」、「自らを選出せよと、強要請求し、嘆願すべき性質のものではなからう」と主張していました。
「新たなる議会の役割」では、官民一つになって、現職新人の有能な士とが一緒になり新しい議会を強いものにしていこうと述べてます。
「推薦は選挙民目標の焦点」では、翼協の推薦は、新しい有能の士が誰かわからず、バラバラに投票することのないように、指針として推薦という方式をせざるを得ないとしています。
そのうえで「如何なる人を推薦すべきか」では、「この推薦が候補者の利害本位でなくて選挙民のためである以上は、左様な[筆者注:当選不確実者を推薦するという]無責任な推薦は出来ぬと思ふ。同時にいたづらに当選確実らしい人を、その人柄如何をかまはず推薦して、安易な当選第一主義を毛頭考へてをらぬのである。」と説明しています。
以上が大体の冊子の内容なのですが、戦時下のことですから抽象的な表現が多く(有権者への調査でも同様の意見がみられます『翼賛選挙4』)、少なくとも、阿部がこの中で言いたかったことは改選をする理由を除けば、曖昧だと思われます、特に推薦人に関しては結局どの様な人物を推薦するのか明言できていません。これが説明できてないということは選挙にいく国民への「目標」も設定できていないわけです。
さて結局、翼賛選挙では都市部有権者は投票するなら現職か、官憲の指導があればそれに入れ、地方は地元有力者の意向を尊重していたようです。
それでも翼協推薦の当選は約80%と、「一応成功」(古川隆久)と言うことが指摘されています。
翼協は、そのあと翼賛政治会に改組され、阿部はそのまま総裁として横滑りしますが、そこでの話はまたいつか、今回はこの辺でおわりとします。
主な参考文献
古川隆久『戦時議会』(吉川弘文館、2001年)。
ほか
吉見義明ほか『資料日本現代史4 翼賛選挙1』
同上『資料日本現代史5 翼賛選挙2』大月書店、1981年。
*阿部が翼協のトップについた具体的な選考理由は不明。