雑賀孫市(まごーん)の中の人ブログ

まごーん(中の人)が独りでぼちぼち呟く。

片倉衷と片倉衷を前から抱きしめながら禿頭を叩いた人

2015年08月31日 18時13分43秒 | 歴史
皆さん、片倉衷という人物を知っていますでしょうか?
片倉衷は陸軍少将。仙台出身で父は陸軍大佐。先祖は伊達家重臣片倉氏だといわれてる。

彼は永田事件、二二六事件など歴史的場面に遭遇しており、板垣征四郎、石原莞爾とともに三羽烏の一角を担う人物であった。
今回は片倉の緬甸時代に絡んで話します。が、起承転結はなってない。
緬甸、それは牟田口、花谷、辻、さらには大村純之など豪華メンバーがいた。

緬甸方面軍高級参謀時代の片倉衷(中央)

さて、片倉は第15軍参謀に補され、九七式重爆に乗ってラングーン北のミンガラドン飛行場に降り立った。
それを見た記者は「けいけいとした眼光、鉢の大きく開いた巾着頭、はちきれるばかりがっしりした体躯、参謀飾緒を波打たせながら両肩を左右に大きくゆする精悍な一人の大佐」とし「剛毅と果断実行、俊敏な頭脳」と感想を述べている。
ちなみにこの時の部下は竹下正彦中佐。
さて、彼はなんと上官に着任報告をせず、そのまま作戦室へ入り、これには幕僚たちは大慌てだったようです。
暫くして、片倉は方面軍高級参謀となり、少将へ昇進してます。
緬甸には桜井徳太郎が赴任していました。片倉は桜井のことを「トクタ」といい、仲が良かったようです。
桜井徳太郎が方面軍へ「出た出た」「行く行く」の作戦成功の電報を送り、もらった片倉は「うーん、これはトクタだよ。トクタのやりそうなことだよ」と機嫌が良かったとのこと。

片倉は「軍司令官に対し作戦の責めに任ずるのは俺だ」の口癖のもと、どんな真夜中にも作戦上重要な電報には目を通し、直ちに必要な処置をした。もちろん、気に入らないとビリビリ破り、バカヤローとな、トンマメと参謀を叱ってたりした。

そんな方面軍参謀部内で権力を誇ってた片倉でもかなわない人物がいた。

牟田口閣下は強かった…!

牟田口は「幕僚のくせに」と怒鳴りちらして、着任したばかりの河辺正三と密談したい旨を断った片倉を無視して会談をはじめた。
「牟田口はビルマの古ダヌキだ。」
と言ったわけだが、河辺が心配である。
片倉が言ったのかわからないが、「おそらく印度進行作戦に関する話しが出るでしょうが、そのことでしたら直ちに片倉を、および下さい」と耳打ちし、河辺は片倉を呼んだ。良かったね片倉。

片倉は宣伝に対しても熱心であった。
「高級参謀殿は武田信玄の肖像みたいだね」とは電報班の木下光直陸軍少尉の話である。
木下少尉は「馬鹿者めっ。貴様はそれでも陸大を出たのか。そんな奴は参謀の資格がない。縄をはずせ」と片倉にやられる参謀たちをみて片倉が英雄に見えたという。

岡田中尉(東大)は「参謀は頼りにならんと思っていたら高級参謀は異常に宣伝に熱心だ。作戦も軍政宣伝もあそこで一手に調合されるとあらば、筋が通るが、前のように参謀部へ行けば、皮肉や嫌味ばかり並べる参謀じゃどうもならんからねぇ」という宣伝班の噂から片倉に興味を持った。

これで最後にするが、岡田中尉はその後、片倉に招待され、酒の席で一緒になった。
お酒大好きな中尉は、酔いがまわると
「いいオヤジだ。これならやれるぞ」
と言い、片倉の胡座の上へ前からまたがり、首に左手をまきつかせて、右の掌で大きく開いた毛のうすい頭を、ピシャリピシャリと叩き撫でまくった。


この件のその後はわからないが岡田中尉はその後も片倉とともに緬甸で任についてるので不問になったのであろう。

4期離れた先輩にも御構い無しに癇癪垂れる豪放磊落な片倉にこの様なことをしたのは岡田中尉だけであろう。

さて、何が何だか、駄文になった。

これで終わり。

参考・引用文献
田村吉雄編『秘録 大東亜戦史 ビルマ篇』富士書苑、1953年より

海防艦1号の写真

2014年06月13日 07時09分52秒 | 歴史
まずはこのサイトを見てほしい
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/7073/atwar/p-war19.html
こちらのサイトには海防艦1号のことがのっており、海防艦1号の沈没の際の写真の模写が掲載されている。
この沈没の写真をちょうど所持してたので載せることにします。

なお、実際には乗組員は米艦載機の機銃掃射により全員が戦死しています。

祝!真田幸村の大河ドラマ!

2014年05月12日 18時34分53秒 | 歴史
ども!まごーんよ。今日は2016年の大河ドラマが決まりまったなーー!
真田幸村!まぁ信繁!
主な舞台は冬の陣で立て籠もった真田丸ですなぁ。因みに私のご先祖も真田幸村とともに真田丸に立て籠もったという言い伝えがあります。前の小宮山氏とは別の。というか、真田丸に一緒に行った先祖の子孫(女性)と、この小宮山氏の子孫が結婚して、うちに繋がるんよ。共に海野所縁の家やったから結ばれたのかもしれへんわ。

さて!真田氏と同じ祖先をもつ一族の末裔として2016年の大河ドラマ「真田丸」!楽しみにしてるやでー!(`・ω・´)

大阪で真田鉄砲隊見て来ました

2014年05月03日 19時42分56秒 | 歴史
ども、まごーんです。
今日は真田鉄砲隊が大阪へ来るので行って来ました(おっかけじゃないよ!)。
行く途中で真田丸に寄って来ました。

真田丸は現在、真田山公園と三光神社になってます。(写真は三光神社)
ここは明治に陸軍墓地になりました。
地元の方と話してみると、土葬だそうですが「こんな狭いのに土葬なんて本当かねぇ」と言われてました。
その地元の方は元々台湾で生まれ引き揚げて来たようです。
「奥のほうにはこんなちっとぽけ(兵隊)の墓より立派な皇族並みの方だけの墓がある」とのこと。
写真は撮りませんでしたが、兵隊の墓は長年の風雨でボロボロになり、判読が難しく、奥にあった、実際は将校、将校相当官の墓は確かに立派なものでした。
写真は将官のが一基あったのでそれだけ。

↑説明板
さて、真田丸を後にしていよいよ大坂へ

大阪本願寺も見てきたで

陸軍の第四師団司令部
そして真田鉄砲隊…!今回は信州真田鉄砲隊と大阪城真田鉄砲隊との連合です。
ちなみに大阪城真田鉄砲隊には…

なんと雑賀鉢をかぶった雑賀衆の武士が!もー、自分のことのように嬉しかったです!

そして見せたかったのは此方。手持ち大筒。個人的には十匁筒?って思いました(そこらへんはまだ浅はかな知識なので…ご指摘お願いします)。
信奈に出てくる孫市はおそらくこれの2~3倍のものでしょうなぁ。
さて、真田鉄砲隊は相変わらずカッコよかったです。実際にあの火縄銃の轟音を聞かれるのを本当にオススメします。
明日は真田昌幸が没した、紀州九度山へ行くようです。私は流石に行けませんが…。
興味ある方、是非紀州九度山へ真田昌幸慰霊祭へ!

ご先祖様の城へいってきたで

2014年04月28日 14時19分08秒 | 歴史
ども、まごーんよ。今日はご先祖様のお城へ行ってきました。
まえに「先祖の同僚の墓参りしてきた」でいいました先祖です。
私の先祖の1人は小宮山氏といい、信濃国佐久郡小宮山村(小宮山郷)を発祥とする一族でした。その始祖は藤原氏とも源氏とも言われてますが、これは甲斐へ渡った小宮山友晴の一族(私は勝手に甲斐小宮山氏と言ってます)の由来書に記してあることです。
私の先祖は信濃小宮山氏(これも甲斐の一族と区別するために勝手に言ってるだけで、元々同族です)で、祖父や親戚から聞いた話では、小宮山村で段々分家が増えてきたので本家が小宮山村を離れることとなり、北へと移動して今に至るそうです。その移動した本家はのちに海野家臣となり、海野家より滋野姓を賜り、滋野姓小宮山氏として頭角を徐々に表し、ついには上田代官にまで務めたようです。この頃には小宮山氏は”幸”のつく名前が当時の書状にでてきており、海野家一族になったことが伺えます(海野家は幸の通字が多い)。
そして、その先祖が1480年ごろに築城したのが小宮山城で、現在は砥石・米山城として県指定史跡になってます。
その後は村上義清によって攻められ、小宮山氏は没落し帰農し庄屋となって現在に至ります。かつては古文書なども沢山蔵にあったようですが、戦後になって散逸したようです。今は蔵には何も残ってません。ですが、「地元ではかなり古い家」と地元の方もおっしゃていました。
まぁ、旧家の肩書きだけ残ったんですわ。

さて、米山城の登り口です(指入ってますが勘弁)。碑には米山城と書いてありますが、パンフレットにはちゃんと小宮山氏が築いた城と載っています。

↑パンフレット
さて、いざ小宮山城へ!と登ったのは良いけれど、キツイです。一端の登山装備した方がええです。滑るし、危ない。
行きは25分かかるので、水筒を忘れないように。
そして登ると…
このように桜がまだ咲いてて、綺麗でした。眺めも良かったです。
ちなみに、小宮山城の近くにはかつて小宮山氏の居館がありました。今は果樹園になっているので入れませんが道から見渡せます。

小宮山氏居館跡(通称・長島ノ館)
村上義清が米山城を手に入れた後は金剛寺に城代屋敷を築いたので、こちらの館は廃棄されました。
明日はこの後に行った白鳥神社と海野宿のことを書きます。