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国内外でボランティア活動に従事するほか、法務省特別矯正監、元外務省日本ベトナム特別大使、厚生労働省健康行政特別参与、警察庁特別防犯対策監などの肩書を持ち、公的な活動を続ける文化功労者で歌手・俳優の杉良太郎氏。テレビなどでご存じの方も多いと思うが、そのボランティア活動は、文化交流から災害支援まで非常に幅広い。中でも、長年にわたって続けているのがベトナムでの教育支援だ。なぜ、ベトナムなのか。そして、なぜこれだけ長い間支援を続けられてきたのか。話を聞いた。
印刷「教育」こそ、人にとっていちばん大切なことだ
杉良太郎氏は現在までに中国で小学校、バングラデシュに50カ所の学校を建て、そしてベトナムでは152人の親がいない子どもたちを里子として引き受けているほか、日本語学校を2つ設立するなど教育支援をはじめとした福祉活動をしている。中でもベトナムとは、積極的に日本との親善交流に努めてきた。そんな杉氏が最初にベトナムを訪れたのは1989年、45歳の時だ。日本は、いわゆるバブルといわれていた時代である。
日本が好景気に沸く中、ベトナムで始めたボランティア活動は、以来、30年以上続いている。芸能界の成功者でボランティア活動をしている人は多いが、これほど長期間にわたって一貫した姿勢を保ち続けている人は非常に少ないだろう。
杉氏がボランティア活動に投じた私財は数十億円。なぜ教育支援をはじめとした福祉活動を続けるのか。中でも、なぜ子どもたちの教育支援にこだわり続けるのだろうか。杉氏は次のように語る。
「ユネスコ本部から親善大使兼識字特使(1991年~1996年)の委嘱を受けていた時期は、主に開発途上国の子どもたちの識字率を高めるために、アジアを中心とした国々で“寺子屋運動”を実践してきました。そこで私がとくにこだわってきたのが、読み書きができない子どもたちへの支援です。読み書きができないため、実際ひどい扱いを受ける子どもたちもいる。さらには学費を出せないために、十分な教育を受けることができない。そんな子どもたちへの支援です。私は彼らの苦悩と付き合ってきましたが、そこで教育は人にとっていちばん大事なことだと実感したのです」
1990年「バックラ子供の村」にて、子どもたちと
戦後の日本と重なって見えた、当時のベトナム
杉氏が子ども時代を過ごしたのは戦後の貧しい時。学校の昼食時に各自の弁当をちょっと見れば、裕福な家庭か、貧しい家庭かわかった。それを子どもたちも暗黙の了解としていた。とにかく貧しく、そんな時代の日本と似ていたのが、当時のベトナムだった。
「私が最初にベトナムに行ったとき、まるで戦後の貧しい日本を見るようでした。しかも当時、驚いたのは子どもたちの声がとても小さかったことでした。振り返ってみれば、私が小学校の頃は、日本においても、今の日本の子どもたちのように大きな声で話す子どもは少なかったように思います。同様にベトナムの子どもたちも、大きな声で話していなかったのです。ベトナムでは小さい声で話すほうが品がよいと思われていたこともあると思いますが、体から発散されるエネルギーのようなものをベトナムの子どもたちからは感じられなかった。当時のベトナムでは地位の高い人でさえ声が小さく、トップから子どもたちまで、皆、声が小さかったのです」
杉氏は、海外を訪れたときには、必ず、日本人墓地と児童養護施設や福祉施設などを訪問するそうだ。ベトナムでも児童養護施設を訪れ、家庭環境に恵まれないからという理由で教育を受ける機会が失われるのは良くないと思い、支援を続けているという。でも単にお金を渡すだけの支援ではよくないと、杉氏は言う。
「子どもたちに自活する能力をつけてほしいと考え、市場に鶏を買いに行き、鶏小屋を作って寄贈しました。鶏を育て、半分は食べ、半分は卵を産ませてその卵を売る。その売り上げで子豚を買う。子豚を育てて食べたり売ったりし、そのお金で今度はミシンを買う。ミシンを使って自分たちの服を作ったり、売ることで収入を得る。こうして自活できるように支援していくことで、子どもたちは動物を愛し、育て、働いていくことの喜びやお金の尊さを知ります。そうやって人間として育まれ、成長していく。私のしていることは、お金だけではなく、心を乗せた支援活動だと思っています」
2012年、里子たちと共に撮影。子どもたちは、さまざまな世界で活躍しているそうだ
ベトナムは、長い間戦争を強いられてきた
今、杉氏が設立した日本語学校の卒業生は多方面で活躍している。現在の駐日ベトナム大使、公使も卒業生だ。ベトナム政府の中枢にも卒業生がいる。
「私はこれまでいろんな国を回って現地を見てきました。その中で、なぜベトナムだったのかとよく聞かれるのですが、1989年、慈善公演を行うため初めてベトナムを訪れた時、ベトナムはまるで終戦直後の日本そっくりで、重なって見えた。そのような中で、ベトナムの人々と触れ合い、自然と『今のベトナムに何が必要か』を考えるようになり、1つずつ実践してきて、今に至ります。
ベトナムは長年、戦争を強いられて、政治も経済も文化も停滞していた。その戦争が終わって、私が訪越した当時、お会いしたド・ムオイ首相(後の書記長)は私に『日本は戦後、とても早く立ち直った。日本のようになりたい』とおっしゃった。当時のベトナムは高度成長を果たした日本を尊敬していたのです。私は日頃から思っていた『国づくりは人づくり。政治と経済だけでは国民はついてこない。文化の力でお互いを理解し、尊重し、交流をすることが重要です』とお答えし、ベトナム政府のトップと国の復興を手助けする固い約束をしました。そして、日本語学校を作ることにしたのです。図書館を備え、日本語の読み書きだけではなく、日本の文化も紹介し、理解をしてもらうところから始めました。訪越当初から、『将来、日本は必ずベトナムに助けられる時代が来る』そう思っていましたが、近年では、日本とベトナムは戦略的パートナーシップを結ぶところまできました」
杉氏はベトナムからバングラデシュやモンゴル、北朝鮮、マレーシア、シンガポールなどにも活動範囲を広げ、ユネスコ親善大使兼識字特使としての役割を積極的に果たしてきた。各国での教育についても杉氏は、読み書きは手段であって、それ以前に教育は“人間”を育てることこそ、大事にしなければならないという。そして、そのバロメーターはやはり“声”にあるという。
「役者でも新人の頃はなかなか声が出ません。新人歌手もそうです。動きも鈍い。それは自分に自信がないからです。自分の話す言葉が自分で聞こえるようになってくれば一人前。それだけ自信がついたということなのです。その意味で、途上国の子どもたちにも自信をつけさせなければならない。それには教育が必要です。人間というものは不思議なもので、声の大きさに自信が表れるのです。国もそうです。ベトナムの大人も子どもたちも、今ではしっかりした声で話すようになり、歩く速度も速くなりました。私は毎年、15カ国・地域が参加するアジア国際子ども映画祭を開催していますが、子どもたちの声を聞けば、その国が今どれだけ力をつけているかが、わかります」
そんな杉氏は、現在の日本の教育の現状についてどのように思っているのだろうか。
「一流大学に入るための勉強はしているかもしれませんが、社会的な勉強が足りないと感じています。もっと言えばハートが足りない。人間性を高めるための教育とは何か。そこを考えるべきだと思います。現在のコロナ禍によって、人と人との交流が分断され、人間性を高める教育がますます失われつつあるように見えます。それでは子どもがかわいそうです」
杉氏は教育について、胎児教育から始まり、人格が形成される幼児教育までをとくに重視している。そして、学校教育、社会教育へと続き、一人前の人間に育つまでは、親をはじめ、学校や自治体など周辺社会の果たすべき役割が大きいという。
「子どもたちにいかに社会への対応性を身に付けさせるのか。時には精神や肉体を強くするスパルタ的な教育が必要な場合があるかもしれない。厳しさは今の世の中では嫌われていますが、それがかえってよいときもありうる。愛情をもった叱り方もあるのです。その意味で、親を見れば、子どもがわかる。子どもを見れば、親がわかる。子どもを育てるということは非常に大変なことなのです」
杉氏はとくに意識していないようだが、言葉の端々に感じるのは子どもたちに対する愛情だ。それは自身の幼少時代の苦労を途上国の子どもたちの苦悩に重ねることで生まれてくるのかもしれない。そして、その強い愛情こそが長年のボランティア活動を続ける源泉となってきたように見える。そんな杉氏は、最後に教育関係者に次のようなアドバイスをくれた。
「教師は、子どもたちが社会に出るうえで最初の責任を果たす重要な仕事に就いています。子どもはどこへ進んでいけばいいのか必ず迷うもの。そんな岐路に子どもが立ったときに、右か左か、極端な道を選ばせるのではなく、真ん中にも道があるよ、と提案できるようにする。そうした自信を持たせる教育、接し方を子どもたちにしてあげてほしいと思っています」
杉良太郎(すぎ・りょうたろう)
1944年8月14日生まれ。65年デビュー。翌年、現・東京12チャンネル(現・テレビ東京)開局記念番組「燃えよ剣」で俳優デビュー。67年、NHK「文五捕物絵図」の主演で脚光を浴び、その後、「右門捕物帖」「遠山の金さん」など1400本以上の作品に主演。舞台活動にも邁進し、文部科学大臣表彰など数々の大臣表彰を受賞するほか、2009年紫綬褒章を受ける。デビュー前より刑務所や老人ホームの慰問をはじめ、福祉活動を行う。献身的に続け、08年芸能人初の緑綬褒章を受ける。また、長年にわたり海外で文化交流活動も行い、13年に内閣総理大臣より感謝状を贈呈される。長年にわたる国内外での文化交流が評価され16年度文化功労者に選ばれた。日本とベトナム社会主義共和国、両国の特別大使を務め、両国の交流発展に尽力し、ベトナムより友誼勲章(外国人に贈る最高位の勲章)を2度受章。ベトナムのために貢献したことが認められ、労働勲章も贈られている。
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昨年、『日経エンタテインメント!』(日経BP社)の「好きな芸人・嫌いな芸人2018」ランキングで異変が起こった。「好きな芸人」部門で、調査開始以来、不動の首位を保ってきた明石家さんまが敗れて、新たにサンドウィッチマンが1位に輝いたのだ。さんまを上回る次世代の好感度No.1芸人の誕生は、大きな話題になった。
しかし、今年はさらに驚くべきことが起きた。『日経エンタテインメント!』2019年8月号で発表された「好きな芸人・嫌いな芸人2019」で、さんまが初めて「嫌いな芸人」で1位になってしまったのだ。もちろん「嫌い」と思うほど感情が動くのは、それだけ認知されている証拠でもある。いわば、嫌いな芸人として名前が挙がるのは人気者の宿命でもあるのだ。
それでも、あのさんまが1位になるというのは衝撃的だ。40年以上にわたって幅広い世代に愛され続けてきたさんまに、いま逆風が吹いている。そんな空前の事態が起こったのはなぜなのか、改めて考えてみたい。
なぜ好感度が下がっているのか
記事の中でさんまを嫌いだと思う理由として挙げられているのは、「価値観の押し付けは目に余る」(57歳男性)、「なんでも自分の話にしてしまい、MCとして機能していない」(57歳女性)といった意見である。さんまを根強く支持していたはずの熟年世代からも、このような批判が出てくるようになっているのだ。ここで挙がった「価値観の押し付け」「何でも自分の話にする」という2つの問題について順番に検討していこう。
まず、1つ目の問題について。確かにここ数年、さんまのテレビやラジオでの発言が世間の非難を浴びるケースが増えている。「いい彼氏ができたら仕事を辞めるのが女の幸せ」といった旧来の価値観の押し付けに思えるような発言や、「カトパン(加藤綾子)を抱きたい」というセクハラまがいの発言、さらには剛力彩芽などの若い女性タレントを本気で狙っていると公言したりするところが、バッシングの対象になっている。
つい最近も、8月20日放送の『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)で、性別非公表のものまねタレントのりんごちゃんに対して「りんごちゃんなんかは男やろ?」と詰め寄った。空気を察してヒロミがすかさず「りんごちゃんはね、そういうのないの、性別がないの」とフォローを入れると、さんまはそれでも納得せず「おっさんやないか、アホ、お前」と声を荒げた。
りんごちゃん自身は言及するつもりはないようだが…(画像:りんごちゃんのInstagramより)
りんごちゃん自身は場を収めようと「人それぞれの捉え方でいいんです」と答えていたが、ネットではLGBTに関してあからさまに無理解であるように見えるさんまに対する批判が相次いでいた。
セクハラやパワハラに対する世の中の意識が変わり、それに伴ってテレビの世界でも、露骨にセクハラ・パワハラ的な言動を見せるタレントは少なくなっている。そんな時代に、さんまだけが旧態依然とした価値観にとらわれ、世の中の空気にそぐわない発言を連発している。それに違和感を抱く人が年々増えているのだろう。
「教養がない」という弱点
2つ目の「何でも自分の話にする」ということに関しては、ビートたけしによるさんま評が参考になるだろう。たけしはさんまを「しゃべりの天才」と評価していて、反射神経と言葉の選択のセンスに関しては右に出る者はいないと絶賛している。だが、そんなさんまにも欠点があるという。それは「教養がない」ということだ。
バラエティ番組の中で、素人でも誰でもどんな相手だろうときちんと面白くする。けれど、相手が科学者や専門家の場合、結局自分の得意なゾーンに引き込んでいくことはできるし、そこで笑いは取れる。でも、相手の土俵には立たないというか、アカデミックな話はほとんどできない。男と女が好いた惚れたとか、飯がウマいマズいとか、実生活に基づいた話はバツグンにうまいけど。
要するに、さんまには教養がないので、相手の話を同じレベルできちんと受け止めたうえで、それに対して何か返すということができない。だから、話の中身ではなく、話し方や態度や言葉尻などの細部を捉えて、自分の土俵に持ち込んでそれを笑いにする。もちろんそれ自体がさんまの芸人としての卓越した技術なのだが、それが人によっては「話を聞いていない」という不誠実な態度に見えるということだろう。
これに関しては、今に始まったことではなく、さんまは若手の頃から一貫してこのようなトークスタイルを貫いている。さんまは、あらゆる事象を笑いを取るための素材として平等に扱う。目の前にいる相手が話していることも、それ自体が重要なのではなく、それで笑いが取れるかどうかだけが重要だと考えている。笑いの職人としてのさんまの高すぎるプロ意識が、ここでは裏目に出ている。
さんまの何でも笑いに変える話術はすばらしいものであり、彼自身が何も持たない若手の頃にはそれがとくに魅力的に見えていた。だが、さんまは現在64歳である。共演するほとんどのタレントが自分より年下だ。年配の人間が、一回りも二回りも年下の相手に対して、一切聞く耳を持たないという頑固な態度を取っていれば、印象が悪く見えるのも無理はない。
ただ、テレビタレントとしてプロ中のプロであるさんま自身は、ここで述べたようなことは百も承知だろう。これまでにも、時代の変化に合わせて自分の見せ方を微調整したり、新しいものを貪欲に取り入れてきたからこそ、いつまでも古びないで最前線に立っていられるのだ。しかし、そんな「超人」にも限界はある。
さんま本人も「限界」を自覚か
さんま自身も、近いうちに逆風が来ることを見越していたような節もある。というのも、さんまは60歳になる前の一時期に「60歳で引退したい」とほのめかしていたことがあったのだ。結局、前言を撤回して、それ以降も芸能活動を続けることになった。実はさんまはその時点で「このまま続けていれば限界が来る」ということを何となく悟っていたのかもしれない。
とはいえ、いまだに「好きな芸人」部門で2位をキープしていて、冠番組を多数抱えているさんまの勢いは、すぐに衰えるようなものではない。本稿で述べたようなことすべてが、さんまというお笑い界の巨人の前には言いがかりに近い些末な指摘にすぎないのかもしれない。
ただ、「お笑い怪獣」の異名を取るさんまにも、いつか確実に終わりの日は来るのだ。さんまが「嫌いな芸人」部門で1位になったという事実は、後から振り返ってみれば彼にとっての「終わりの始まり」になるのかもしれない。
(ビートたけし著『バカ論』新潮新書)
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女性週刊誌の名物連載に小室さんの母親が登場
小室圭の母親・佳代(54)は稀代の悪女である。
横浜市内の自宅を出る小室圭さん=2018年6月29日、神奈川県横浜市(写真=時事通信フォト)
これは、メディア、特に週刊誌がつくり上げた“幻想”だと、私は考えているが、このイメージは日増しに色濃くなっていくようだ。
その総仕上げともいうべきものが、女性自身(1/19・26日号)の「シリーズ人間」である。
女性自身の「シリーズ人間」は今回で2486回になるから50年近い歴史を持つ名物連載である。
『淋しき越山会の女王』や『一銭五厘たちの横丁』を書いたノンフィクション・ライターの児玉隆也が女性自身の編集者だった頃、この連載を書いていたことがあったといわれる。
筆力のあるライターを起用して潤沢な取材費と時間をかけ、毎号「読ませる」物語を紡いできた。
私が出版社に入った時、先輩から「シリーズ人間は読んでおけ」といわれ、毎号、読み物のお手本として、楽しみに読んでいたものである。
その有名なシリーズに小室圭の母親・佳代が取り上げられたのだ。
だが、タイトルから見て取れるように、「シリーズ人間」としては珍しい(?)“悪意”の感じられる内容である。
メインタイトルは「圭とふたり、幸せになるのはいけないことなの?」。サブに「男たちへの甘言、小室本家との“銭闘”、見えっ張り虚飾生活」とある。
結婚は認められ、金銭問題も解決するかに見えた
昨年の12月18日の夕暮れ、老舗の洋菓子店で働いている佳代が仕事を終えて出てくるところから始まる。
20代の同僚と談笑しながら、混みあった普通列車に乗る。同乗している記者のところまで話の内容が漏れ聞こえてきたそうだから、周囲の目を気にしてひそひそ話をしているわけではないようだ。
秋篠宮眞子さんと小室圭の納采の儀が延期されてから間もなく3年になる。
昨年11月13日に、眞子さんが結婚に関する「お気持ち」を発表した。それを受けて父親の秋篠宮が誕生日会見で、「結婚を認める」と発言して、2人の結婚は確定したかに思われた。
唯一の障害になっていた、佳代の元婚約者との約400万円といわれる「金銭トラブル」も、元婚約者が週刊現代誌上で「もうおカネは要りません」と“告白”したことで、何とか解決の方向へ向かうのではないかと期待された。
だが、秋篠宮が「結婚と婚約は違う」と“不可解”な文言を付け加えたことや、西村泰彦宮内庁長官が「小室圭さん側に(金銭トラブルについての)説明責任がある」と会見で発言したことで、週刊誌は再び挙こぞって、小室母子の過去のトラブルを暴き立て、「このような人間が眞子さんと結婚するのはいかがなものか」「小室圭のほうから別れをいい出すべきだ」などと、以前にも増したバッシングの嵐が巻
英語を猛特訓し、インターナショナルスクールに入学
女性自身は、「このままいけば、眞子さまの義母となり、天皇家の縁戚となる佳代さん。その人物像はやはり気になる。小室佳代さんとはどんな女性なのだろう」と前置きして、以前からさんざん撒き散らされてきた彼女の過去をなぞっていくのである。
「佳代さんの旧姓は角田。小室敏勝さんと結婚したのは23歳のときだった。1歳年上の敏勝さんは明治大学工学部卒。横浜市役所に勤務し、市内に購入したマンションで家族3人、幸せに暮らしていた」(女性自身)
だが圭が10歳の時、父・敏勝が自死したことで生活が一変する。
専業主婦だった佳代は福祉事務所のカフェや地元のケーキ屋で働き始め、女手一つで息子を育てる。
3歳の時からバイオリンを習わせ、小学校は私立の国立くにたち音大附属小学校に通わせていたが、中学高校はカナディアン・インターナショナルスクールに入学させる。
学費が年間200~300万円かかる上に、授業はすべて英語で行われるから、海外生活の経験もない子どもがこうした学校へ入って学ぶのは大変な苦労が伴う。
女性自身によると、「圭さんは小学校卒業から9月の入学まで、英語の強化クラスに入り、サマースクールに通い、さらには家庭教師をつけて特訓し、ようやく入学を果たしたという」。母親・佳代の教育熱心さはよく分かるが、それに応えようとして音楽や英語を必死に学ぶ息子も大変な頑張り屋である。
400万円は学費には使われていない?
佳代は、真っ赤なアウディで息子の送り迎えをしていたという。女性自身のいうように、当時、パートの収入と夫の遺族年金で月収20万円程度だったとすれば、息子の将来のために全てをつぎ込んだといってもいいだろう。
こうした生活が、一卵性母子といわれる強い絆を形作ったことは想像に難くない。
同じマンションに住んでいた男性と佳代が婚約したのは2010年9月。圭が国際基督教大学(ICU)に入学した時期と同じ頃だ。元婚約者は、「佳代さんは二人の財布を一緒にしようと持ちかけたこともあった」「そのころから、佳代さんの金の無心が始まった」と主張している。
元婚約者は、佳代に貸した400万円はICUへの入学金と授業料に使われたといっていたが、圭の代理人の上芝直史弁護士は女性自身の取材に対して、「入学金と授業料は圭の貯金から払った」と答えている。
だとすれば、元婚約者から佳代に渡ったカネは、彼女たちの生活を維持するために使われたのだろう。少なくとも、このカネのトラブルに圭は、直接的には関与していないということになる。
たび重なるカネの無心に辟易した男性は、2012年9月に婚約解消をいい出し、その1年後に返済を求める書面を小室家に送付したという。だが、小室側は「借金ではなく贈与だ」と主張し、そのまま4年が経った。
き起こっているのだ。
週刊誌に売り込むやり方は非難されないのか
圭と眞子さんの婚約を知った件の男性は、弁護士に相談するが、「借用書がなければ裁判で勝つことは難しいと言われてしまいました」。するとこの男性、週刊女性にこのトラブルを自らタレこみ、それがために、納采の儀は2年延期されてしまうのである。
週刊誌を始めとするメディアの小室母子バッシングの大義名分は、「借りたものは返せ」というものである。女性自身で小田部雄次静岡福祉大名誉教授がいうように、借金であれ贈与であれ、元婚約者が金銭的援助をしてきたのが事実なら、相手に感謝や謝罪がないのは、「一般的な社会通念からしても異常な感覚と言わねばなりません」という“良識”が、小室母子だけでなく、秋篠宮家批判へとつながっていくのだ。
だが、私が以前から主張しているように、婚約解消から5年も経ち、小室圭が皇室の女性と婚約したのを知って、弁護士からも「返済を求めるのは無理」だといわれているのに週刊誌に売り込んだ元婚約者の、「一般的な社会通念からしても異常」なやり方は、なぜ非難されないのだろうか。
読者には「悪女像」が刷り込まれる
女性自身には、夫の死後、夫の遺産相続がどうなるか悩んでいた佳代のために、夫の実家に委任状をもって会いに行き、話をつけてきた元喫茶店経営者の話が出ている。
話をつけてあげたのに、ある日、佳代の父親らしき人間と来て、いきなりカネの入っているであろう封筒を差し出し、「手を引いてくれ」といわれたという。親切心で橋渡しをしてあげたのに、何といういい方かというのである。
その人間がいうには、「旦那さんの話をしながら、佳代さんは涙ひとつ見せなかった」「圭くんの前で平気で自殺の話」をしていたという。
これを読んだ読者には、冷酷で、利用できる人間は誰でも利用する自己中心的で、「なりふりかまわず、“幸せ”をつかみ取ろうとしてきた佳代さん」(女性自身)という悪女像が刷り込まれるのである。
極めつけは最後のシーン。同僚と別れてショッピングモールで買い物をして出てきた佳代に、記者が「お仕事ご苦労さまでした」と声をかける。するとピタッと足を止め、ふいに記者のほうに向き直り、
「マスク越しにも“作り笑いですよ”と、ハッキリ伝わる不自然な笑みを記者に向け、絞り出すようにこう言った。『ご苦労さまでございました』」
この描写に“悪意”を感じるのは私だけだろうか。
論文のコンペで2位を獲得した圭さん
だが女性自身は同じ号で、小室圭はニューヨーク州の弁護士会が主催する論文のコンペティションで2位になり、将来、年収1億円の法律家になるかもしれないと報じてもいるのだ。
このコンペの受賞者は、アメリカのトップクラスの法律事務所に就職したり、世界有数の金融機関や国際的な環境保護団体に進んだりと活躍しているという。
ニューヨーク州の弁護士資格を持つ山口真由は、「小室さんは法学部出身ではなく、日本の弁護士資格も持っていないにもかかわらず、アメリカのロースクールに留学して好成績を収めており、さらに賞まで獲得しました」と、彼の力量を認めている。
このコンペの賞金は1500ドル(約15万5000円)だそうだ。ここに圭のプロフィールも紹介されていて、「趣味:ジャズピアノの演奏」「過去の職務経験:銀行員」とあるそうだ。カッコいいじゃないか。
小室圭はニューヨークという自由な街で、懸命に勉学に励み、趣味のピアノを弾きながらのびのび生活しているようだが、眞子さんの“結婚宣言”以来、小室母子と秋篠宮家に対する異常とも思えるバッシングは、一向に衰える気配がない。
文春が報じた女子生徒へのイジメ
眞子さんの「お言葉」以降の週刊誌のタイトルを見てみよう。
「虚栄の履歴 小室さん母子の正体」(週刊文春12/10日号)
「『小室圭・佳代さん』に『美智子さま』からの最後通牒」(週刊新潮12/24日号)
「衝撃証言『私は小室圭さんのイジメで高校を退学し、引きこもりになりました』」(週刊文春12/31・1/7日号)
「『国民的大論争に』 小室圭さんは自ら身を引くべきだった」(週刊現代1/9日号)
「小室圭さんは『皇室の危機』 上皇后 美智子さまと宮内庁の総力体制」(女性セブン1/21日号)
この中で、新潮の記事に対しては、宮内庁がHPで、「上皇上皇后陛下が首尾一貫して(眞子さまの結婚報道に関し)一切の発言を慎まれている」と厳しく批判している。
文春のイジメの記事はこうだ。先に書いたように、小室圭は中高を品川区にあるカナディアン・インターナショナルスクールに通っていた。ここで小室は英語のスキルを磨いたようだ。成績が特にいいというわけではないが、授業中に積極的に発言したり、授業後に個人的に質問をしに行ったりする「優等生」だったという。
小室とクラスのボス的存在のAを含めた5人は仲がよかったそうだ。中学生の時、内藤悠(仮名)という女子生徒がいた。彼女が5人組の前を通り過ぎたとき、小室が、「ブタが通った」と囃し立てたという。小室を含めた5人組のイジメは高校になるとさらにエスカレートし、内藤の心を確実に蝕んでいったそうだ。
「お金が儲かる記事にしようって、おかしくないですか」
高校1年が終わる頃、内藤はひっそりと学校を辞めていった。文春によれば、彼女はその後2年間にわたるひきこもり生活を送った後、一念発起して大検を取得し、海外の大学に入学。今は伴侶と出逢い幸福な家庭を築いているそうである。
彼女にとって嫌な思い出である中高のイジメを思い出させたのは、2017年9月に行われた秋篠宮眞子さんと小室の「婚約内定会見」だった。何やら、小室の婚約を知って、母親との金銭問題を週刊誌に売り込んだ元婚約者を彷彿とさせるようではないか。
この「イジメ報道」も、内藤という女性だけのいい分で、他にこのことを裏付ける証言などはない。私には、この報道が嘘だといえる根拠は何も持っていないが、5人組の1人だったBが文春に対してこう語っていることは記しておきたい。
Bは「事実と違う」といい、「こんなくだらないことで(イジメが)ある、ないと世間に出すのは頭おかしいと思う。小室さんってすっごい良い方なんですよ、優しくて。それなのに、悪いことを取り上げて、お金が儲かるような記事にしようって、おかしくないですか? 眞子さまが結婚したいと思えるくらいの人だってこと、もう少し考えたほうがいいんじゃないですか」
痛烈なメディア批判である。
沈黙を続けるほうがつらいこともあるはずだ
しかし、これだけ、安倍晋三前首相が「桜を見る会」への野党からの批判に対して、多用した安倍語でいうところの「印象操作」をされたら、小室母子に対して嫌悪感を抱くのは無理もないのかもしれない。
だが、これらの情報の多くは、元婚約者の一方的ないい分や、裏をとっていない伝聞ばかりである。小室母子が出てきて説明しないのが悪いという声があるが、では、会見を開いて何を説明しろというのか。沈黙を続けるほうがつらいこともあるはずだと、なぜ気付いてやれないのか。
2人して「世間をお騒がせさせて申しわけありません」と、不倫が発覚したお笑い芸人のように深々と取材陣に頭を下げればいいのだろうか。
それではすむまい。世論を味方につけたと錯覚しているメディアは、「元婚約者からもらったおカネは、自分たちが遊興するために使ったのか」「圭さんが留学する時に、避妊具を買い与えたという報道があるが、本当か」「高校時代に、小室圭さんたちにイジメられ、退学した女子生徒には何といってお詫びするのか」などなど、答えられない意地悪な質問を次々にぶつけてくることは間違いない。
黙っていれば、「それみろ、図星だ」、反論すれば、「まってました」とばかりに、さらなる伝聞情報を繰り出し、問い詰めてくる。
世間が納得してくれるような説明をと、秋篠宮も西村宮内庁長官もいうが、何をどうしろというのか具体的にいうべきではないか。
秋篠宮夫妻の“英断”はまだか
花嫁の父親や皇室の代弁者たる人間が、週刊誌などのメディアの一方的な情報に乗せられ、小室母子に無責任とも思える「説明責任」を負わせることが、私には納得いかない。
こうしたときこそ、第三者を入れたファクトチェック機関をつくり、事実に基づく報道がなされているのかを調査してはどうか。
それは言論表現の自由を侵すことにはならないと考える。また、皇室についての報道を規制することにもつながるとは思えない。これは、小室圭と母親の佳代という「一般人」のプライバシーが侵されている問題だからである。彼らは反論する場も手段もない。かといって、名誉棄損で訴えれば、喜ぶのはメディアのほうである。
秋篠宮眞子さんが小室圭との結婚をはっきり宣言して、秋篠宮も「許すと」と明言したのに、2人の結婚への道筋はなかなか見えてこない。
このままでは、眞子さんが皇籍離脱をして、ニューヨークへ「駆け落ち婚」するしかないのではないか。
眞子&圭応援団の一人としては、秋篠宮夫妻の“英断”を心待ちにしているのだが。(文中一部敬称略)
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3カ月以上の慢性痛をもつ人は、日本に2000万人以上いるという。多くは腰痛や四十肩などだが、なかには日常生活に困るまでこじらせてしまう人もいる。実はとても不思議な「痛み」とその治療について教わりに、『慢性疼痛(とうつう)治療ガイドライン』の研究代表者も務めた名医、牛田享宏先生の研究室に行ってみた!(文 川端裕人、写真 内海裕之)
まったくもって個人的な話だが、この5年ほど、親指付け根の関節痛に悩んでいる。
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きっかけはささいなことだ。キャッチボールで変化球をいろいろ投げて曲がり具合を楽しんでいたところ、親指付け根がピキッとなるような感覚があり、軽く痛んだ。1週間もすれば治るだろうと思っていたのだが、残念なことに、以降、ずっと痛い。
激痛ではないものの、お箸をうまく使えなくなったり、缶詰やペットボトルの蓋を開けるときの「ねじる」動作が辛かったり、生活上の不都合も多少はある。「手の外科」という専門医を訪ねて、注射を打ったり、装具をつけて「鍛える」治療を試みたりしたものの、一向によくなる気配はなく、2年ほど通って、諦めた。そうこうするうちに、ジャワ島の田園地帯にて乾季の水田の凹凸に足を取られて捻挫をして、そこも痛みが慢性化した。ふとまわりを見渡しても、年齢とともに慢性的な痛みを抱える人が増えていくようだ。
しかし、あるときふと疑問に思った。
なぜ、痛いんだ? と。
素朴な考えで言うと、痛みというのは警報のようなものだ。たとえば、鋭利なものをうっかり触れてしまったとしたら、痛みがあるからこそあわてて手を離し、大きな怪我を防ぐことができる。あるいは、喉が痛ければ風邪かもしれないし、胃痛なら、食べすぎや、食あたりや、あるいは何かもっと危険な病気の兆候かもしれない。病院に行ったほうがいい。
こういった痛みは、それ自体不快であることはなはだしいが、ぼくたちの生存上、大切な身体の情報を伝えてくれる必要不可欠なものだ。
でも、慢性的な痛みは、どうだろう。
治るわけでもなく、悪くなるわけでもなく、ただずっと痛いという場合もあるわけで、痛みが持っているはずの本来の「警告機能」が機能していないこともあるように思う。そんな場合は、本当に何のために痛いのだろう。
にもかかわらず、今、日本で「3カ月以上の慢性疼痛」を持っている人は実に2000万人以上と推定されている(日本における慢性疼痛保有者の実態調査 : Pain in Japan 2010より A Nationwide Survey of Chronic Pain Sufferers in Japan)。
まったくもって厄介だ。個人としても、社会としても。
日本の慢性疼痛医療をけん引する医師の1人、愛知医科大学の牛田享宏教授
そんな訳の分からなさを感じていたところ、日本の疼痛(とうつう)医療の拠点の一つとされている愛知医科大学・学際的痛みセンターの牛田享宏教授と話す機会を得た。牛田教授は、大学病院で臨床の現場を持ちつつ、研究者でもある。2018年にできたばかりの『慢性疼痛治療ガイドライン』では、厚生労働省の作成ワーキンググループの研究代表者をつとめた人物だ。
名古屋駅から地下鉄東山線に乗って藤が丘駅へ。そして、バスで15分ほどの距離に、愛知医科大学病院はある。診療科や病室が入っている中央棟をつっきった先の建物には、「体育館・運動療育センター」という名前が掲げてあった。市民も利用できる体育館やスイミングプールがある建物で、さらにその奥にある居室にてお話を伺った。
「どうぞ、どうぞ」と招き入れてくれた牛田さんは、白衣姿で、にこにこ愛想よく、人あしらいのうまい町のお医者さん、というふうな雰囲気だった。
まずは、今、慢性の痛み、つまり慢性疼痛がどんなふうに問題になっているのか聞いた。治療ガイドラインができるなど、注目が集まっているのは間違いなく、その背景にはどんなことがあるのだろうか、と。
「まあ、人口の20パーセント、2000万人以上という数字は、よくある運動器、つまり、腰や肩、膝など全般的な痛みなどに加えて、頭痛まですべて入ったものです。これが運動器に限れば16パーセントくらい、その中で、厄介な難治性の慢性疼痛は、人口の1パーセントから数パーセントくらいまでだろうと思っています。僕たちのところには、数パーセントの、なかなか治らない患者さんたちが来ています」
頭痛にせよ、腰や肩や膝の痛みにしても、「痛い」と思った人たちは、それぞれの診療科を訪ねて、そこで診察され、治療を受けるのが通常の流れだ。それで改善するならよいのだが、中には治らないどころか、日常生活に困るようなレベルの痛みを抱えるようになる人も多く、そういった場合、「痛み」の専門医の出番だ。今では「ペインクリニック」を看板に掲げる医療機関も増えており、まずはそういったところを訪ねることになるだろうが、牛田さんの「学際的痛みセンター」は、さらに難治性の慢性疼痛患者を多く診てきた。つまり、「こじらせた慢性の痛み」の専門家である。
1) 矢吹 省司: “1章 慢性痛って何? 03 わが国における慢性痛の実態は?” jmed mook 33 あなたも名医!患者さんを苦しめる慢性痛にアタック! 慢性の痛みとの上手な付き合い方 小川 節郎 編 1 日本医事新報社: 11, 2014 [L20150226003]2) 矢吹 省司 ほか: 臨整外 47(2): 127, 2012 [L201502260002]より (画像提供:牛田享宏)
「これまで、がんや、感染症、精神疾患、生活習慣病、様々な難病について、政府は対策をしてきました。でも、慢性疼痛についての施策は抜け落ちていたんです。難治性の慢性疼痛の人たちって、すごく医療費を使うのに、なかなかよくならないんですよ。薬の効きも悪くて、いろんな医療機関を渡り歩きますし。じゃあどうすればいいのかと、2010年に、対策を立てるために有識者会議を開いて、まずは国内の状況を把握して、外国の視察をしたりして、今では全国で23カ所に『痛みセンター』ができました。整形外科や麻酔科などの生粋の専門医が2人以上、精神心理の専門医が1人以上、専門看護師や理学療法士などのコメディカルもいて、チームで治療方針のカンファレンスをしているようなところっていう定義づけで、進めています」
先に触れた「治療ガイドライン」が策定されたのもそのような背景があってのことだった。
ここまで聞いた時点で、ぼくは自分自身の指や足首の痛みが、「16パーセントくらい」の一般的な運動器の慢性疼痛のたぐいだと理解した。なかなか治りにくいものではあるが、生活上それほど困っているわけではないので、今後もうまく付き合っていくことが大事なのだろうという結論である。
では、それを「こじらせる」というのはどういう状態を言うのだろう。
「痛みって慢性化するほど、心理的、社会的な要因が強く絡まってくるようになります。痛みが続いて、不安だとか、恐怖だとかを感じて、痛くないように動かさないようにしていると、当然、筋肉も使わないので萎縮し、関節が固まってくる関節拘縮(かんせつこうしゅく)、骨が吸収されてやせ細る骨萎縮(こついしゅく)が起きたり、結果として全体の機能が落ちてきて、別の部位に新たにひどい痛みが出てくることも多いんです。当然、眠れなくなるとかといったことも起きてきますし、抑うつ的になって、薬に依存したり、医師に依存したりすることもあります。いったん悪循環が始まってしまうと、断ち切ることが難しくなってしまいます」
これらを引き起こすもともとの「原因」は様々だ。
交通事故はもちろん単に手足をひねったというレベルの怪我のこともありうるし、関節リウマチや椎間板ヘルニアなどよく知られている疾患の場合もある。最近では、多くの人ががんの治療の後で長く生きられるようになっているので、放射線治療や化学療法に由来する神経障害、組織障害の痛みも問題だ。
入口がなんにせよ、ひとたび悪循環が始まると、ひたすら痛みにとらわれることになり、やがて最初の時点での疾患から想定されるよりもはるかに重たい状態になって、仕事や学校に行けなくなったり、生活が破綻したり、どんどんひどいことになっていく……。
こういったことが、日本の人口の数パーセントの人たちに起きているかもしれないというのは衝撃的だ。
それと同時に、こういった慢性疼痛のこじらせ方は、「痛み」とはなんだろうという、その本質というか、成り立ちみたいなものを示唆してやまない。今、慢性疼痛に悩んでいる人はもちろん、幸運にもまだ縁遠い人も知っておくに越したことはない。
端的に言えば、痛みをこじらせないためには、「痛みにとらわれすぎない」「適切な運動をする」などといったことが大切であるようなのだが、その背景には実に奥深い議論がある。そこに至るまで、少しずつ「痛み」についての理解を深めていかなければならない。
まずは、とても素朴な部分から。
「痛みって、なんですか」とぼくは牛田さんに問うた。
本当に痛みとは、本人にとっては限りなくリアルだ。
しかし、あくまで主観なので、その痛みを、たとえば「痛みの結晶」みたいな形にして取り出すことはできない。では、痛みとはそもそも何なのだろうか。
「国際疼痛学会の、痛みの定義を決めるタスクフォースのメンバーに僕もなっているんですが──」と牛田さんは切り出した。
「今、ちょうど最終案を作っているところでして、それによると、組織の損傷(tissue injury)があったときに、あるいは、そういった損傷を感じるようなときに起きる、不快な感覚・情動体験、というものです。組織の損傷は、臓器の損傷(organ damage)とした方がよいのではないかという議論もありましたけれど、感覚・情動体験である、というのがまずは重要なところです」
感覚・情動体験、というのは、つまり、感覚体験(sensory experience)と情動体験(emotional experience)の両方ということだ。
川端裕人さん
感覚体験というのは、外部からの刺激の信号が感覚器官を通じて中枢に伝わり、その結果、ぼくたちにもたらされる、熱いとか冷たいといった「感覚」についての体験だ。
一方で、情動体験は、外部からの刺激に基づきつつ、それによって引き起こされる、興奮や快不快といったことを指す。ここは英語の「エモーショナル」の意味を思い起こすとニュアンスがつかみやすいかもしれない。
というわけで、痛みというのは、感覚体験であると当時に情動体験でもあるというのが、とても大事な部分なのだという。
牛田さんは、さっそく含蓄深い表現をした。
「痛み刺激が加わったときの痛覚と、痛みは違うということです。痛い感覚があっても、辛くなかったら痛みではないんですよ」
痛い感覚と、痛み、というのは違う!
たしかに、痛い感覚があったからといって、それが必ずしも不快な情動につながるわけではない。感覚体験と情動体験がつながってこその「痛み」だというのは、言われてみればなんとなく分かる。
それにしても、日常の言葉の水準でも、「痛み」をちょっと深掘りしてみると、その奥にはさっそく深淵が口を開けている。そんな印象を持った。
(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2020年1月に公開された記事を転載)
牛田享宏(うしだ たかひろ)
1966年、香川県生まれ。愛知医科大学医学部教授、同大学学際的痛みセンター長および運動療育センター長を兼任。医学博士。1991年、高知医科大学(現高知大学医学部)を卒業後、神経障害性疼痛モデルを学ぶため1995年に渡米。テキサス大学医学部 客員研究員、ノースウエスタン大学 客員研究員、同年高知大学整形外科講師を経て、2007年、愛知医科大学教授に就任。慢性の痛みに対する集学的な治療・研究に取り組み、厚生労働省の研究班が2018年に作成した『慢性疼痛治療ガイドライン』では研究代表者を務めた。
川端裕人(かわばた ひろと)
1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、肺炎を起こす謎の感染症に立ち向かうフィールド疫学者の活躍を描いた『エピデミック』(BOOK☆WALKER)、夏休みに少年たちが川を舞台に冒険を繰り広げる『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)とその“サイドB”としてブラインドサッカーの世界を描いた『太陽ときみの声』『風に乗って、跳べ 太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)など