皆さんと一緒に考えましょう

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

意志ある老後は「オムツ外し」から始まる…介護学校に通い始めた70代女性作家の決意

2021-02-14 15:30:00 | 日記

下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です

70歳にして子、孫と離れて田舎のサ高住に入ったことを綴ったノンフィクション作家、久田恵さんの原稿には大きな反響があった。そして今、介護ヘルパーの勉強を始める。(肩書、年齢等は掲載時のまま)
◆ ◆ ◆
 栃木県那須町のサービス付き高齢者住宅(サ高住)「ゆいま~る那須」で暮らし始めて1年10か月が過ぎた。私は70歳になったのをきっかけに、これからの人生を自然の中で静かに暮らそうと、移住してきたはずだった。が、人生は常に想定外に展開する。久田 恵さん
この記事の画像(5枚)
 気が付けば、私は介護ヘルパーの学校に通い始めている。公共交通が不十分で、学校までは車で行く。この地では、運転免許証の返上どころではないのが高齢者の現実なのだ。
 そんな山里の廃校になった小学校で2019年11月、「日本オムツ外し学会」総会なるものが開かれた。
 オムツ外し学会とは何か? 提唱者は三好春樹氏。長年にわたって介護現場から「介護とはなにか」を発信し続けてきた理論家で、介護にかかわってきた人の間ではよく知られた存在だ。三好氏は特別養護老人ホームに勤務していた頃、半ば強制的にオムツをつけられた人がたった数日で尿意の感覚をなくし、オムツが外せなくなっていくのを目の当たりにした。そこでオムツの高齢者たち一人ひとりと丁寧に向き合い、尿意を回復させ、オムツを外すことに成功した。
 オムツが外れた人はみな、生き生きとしてくる。それは人間の尊厳の回復でもあった。そこで「オムツ外し」は介護の原点であると、1988年、学会を立ち上げたのだ。最新号「週刊文春WOMAN 2020 秋号」発売中
 学会では排泄ケアだけでなく、介護される側の高齢者を主体にしようとする新しい介護の実践が報告される。今回も学会の「集まれ!那須へ」との呼びかけに、全国からユニークな活動を展開する介護関係者が100人ほど集結。そこで現場発の実践事例が報告され、議論がなされた。
 三好氏からは「認知症は病気ではない」という新しい視点から、介護現場での対応方法についての提言がなされた。その他、東京三鷹で「看取りの家」をやっている看護師さん、介護保険外サービスに特化した「ヘルパー指名制」の事業所を立ち上げた実践、介護に演劇を取り入れる試みなどなど。
 さまざまな報告を聞きながら、私は長きにわたった自分の介護の日々を思い起こし、新しい介護のウェーブが本流となる日がきっと来るのだと、泣き出したいような思いにさせられていた。私の人生に「介護が降ってきた」のは、39歳のときだった。まさに青天の霹靂。晴れ渡った5月の朝、母が目の前で崩れ落ちる姿が今もくっきりと記憶に刻まれている。
64歳だった母は、こうして脳血栓で倒れた後、13年半もの長きにわたり、重い失語症と片麻痺を抱えて日々を送った。最後の2年はほぼ寝たきりの生活になった。娘の私は、母の介護とその後の老父の介護を含めて21年に及ぶ介護生活を続けることになった。母は遠くの専門病院でリハビリを受けることになったが、言語治療士が不足していた時代で、母の失語症治療も手探り状態。医師から「家族が自力でやりなさい」と言われ、言語治療の本を買い自己流で対応するしかなかった。
 なかなか効果は得られず、運動機能の回復に一途に期待をしていた。ところが、少し母が杖で歩けるようになったというときに事故が起きた。リハビリ中に担当者が同僚と喋って目を離していた隙に、母が転倒。リハビリは中止。入院可能期間が過ぎたと、退院を迫られた。事故は伏され、謝罪もなかった。
 自宅での介護生活が始まったが、母の絶望状態は深刻だった。紐をベッドのマット下に隠し、深夜にそれで自死しようとするのだ。
 私は母に泣いて頼んだ。つらい気持ちはわかる、でも死なないで。それをされたら私も父も幼い息子もみんなが傷ついて、ちゃんと生きていけなくなる、と。日本オムツ外し学会を取り上げた北海道新聞の記事
 母は左手でたどたどしく日記を書くようになった。リビングの真ん中を母の車椅子の場所にし、私は母に必死で話しかけた。母はうなずいたり、苦笑したり、表情で気持ちを伝えてくれるようになり、お互いの思いが次第に通じ合えるようになっていった。
母の尊厳が傷つけられてしまう
 そんな中、私に父が言い続けた。
「仕事を続けなさい」
 私は頑張り続けたが、息子に激しいチック症状が出て、カウンセラーに相談に行けば、「母親が働いているなんて最悪」と断罪され、私は慢性胃潰瘍に苦しみ、貧血で路上で倒れた。
 それより一番、心がズタズタにされたのは、週一で派遣されてくるヘルパーさんが、母を見るなり「おばあ~ちゃん」と抱きついたり、赤ちゃん言葉でしゃべったりすること。悪意がない分悲しく、このままでは母の尊厳は傷つけられ、また生きることに絶望してしまう、と思った。
 再チャレンジのために連れて行ったリハビリ病院も家族には厳しかった。
「あなたは介護を休みラクしたいのでしょうが……」
 仕事の調整ができず、母を一日だけ頼んだショートステイでも、施設の玄関から迎えの車までの数メートルだけ手を貸して欲しいと頼んだら、玄関を一歩でも出たらこちらの業務外なので「別途、役所にヘルパーを頼め」と断わられた。
 医者までもが、言わないでほしいことを平気で本人の目の前で言うのだ。どうせ本人は分かりっこない、とばかりに。
最後の2年半は、寝たきりになった母を介護し、家族と共に看取ってくれる老人ホームに出会うことができた。私と父は神奈川から都内にあるホームの近所に住み替えて通い詰めた。
 けれど、やっと出会えたその介護老人ホームでも、実習で来た女子学生が母を見るなり「怖いっ」と逃げ出した。医者が「もう駄目だね、“胃ろう”にするかあ」と言うので、母がぽろぽろと涙をこぼした。それを見て私も泣くと「なんで、この人まで泣いてるの?」という言葉が返ってきた。世間は介護される高齢者を一人の人間として配慮をもって丁寧に扱わない、そのことが心底身に沁みた。
 そして母が逝くと、ショックで父は急に衰え、数年後には母の居たホームに入居することになった。
清掃係の女性が「この病院から早く出さないと」
 父の体調が急に悪化して救急車で運ばれた老人病院で見たのは、ゾッとする光景だった。ベッドと椅子一脚がかろうじて入るベニヤで仕切られた狭い部屋が、料金のかかる個室と称され廊下の片側にずらりと並んでいた。その一つひとつに、寝たきりの高齢者がチューブでつながれて寝かされていたのだ。
 清掃係の女性が私にささやいた。
「この病院から早く出さないと、お父さんは死んじゃうよ、早く、早く」と。
 なんとかその病院を脱出し、移った先の病院では点滴の際にはベッドのサークルに手を縛られ、意味もなく拘束着なるものを着せられたりした。
 私は強引に父をホームに連れ戻した。医療を捨て、ホームでの「ひと匙ずつの重湯」から始める丁寧な個別介護を選んだのだ。iStock.com
 父はみるみる回復し、2年後の2008年、“胃ろう”も過剰な点滴も拒否し、娘の私に手を握られておだやかに逝った。ちなみに救急車で運ばれた老人病院は、数年後につぶれた。
 親の介護を終えると、私は60歳になっていた。息子は自立して家族を持ち、今度は私自身の介護をどうするか、自分で考えねばならない年齢に至っていた。
 介護を長く続けると、多くの人が介護後遺症で鬱に陥ったり、長期の離職で貧困に陥ったりする。この間、私が「物書き」という究極の在宅ワーカーとしてなんとか経済自立できたのは、ほとんど奇跡のような幸運だった。
 けれど、いつまでも介護へのこだわりからは自由になれなかった。これは介護体験を生かすしかないと、6人の女性で取材チームを作り、現場の介護士たちの聞き書きを始めた。それは「介護職に就いた私の理由」というタイトルで、ウェブサイトに3年間にわたって連載された(2018年、『100歳時代の新しい介護哲学』として現代書館より出版)。
 介護の実情を現場で取材をしながら手探りで学んでいく。この過程で、私はさまざまな介護職の人たちと出会うことになった。
お漏らしをしたら「自爆!」
 印象的だったのは、私と同じような介護体験をした人がこの世界には思いがけないほど多かったことだ。
 介護職に就いたのは「まっとうな介護ができなかった母親への贖罪だ」と語る人。「20歳から20年もの母親への介護体験を経てやっと踏み出せた仕事が、介護職だった」と語る人。患者さんがお漏らしをしたら「残念なお知らせをします。○○さん自爆!」と叫ぶのを聞いて悔しく、自分の手で父親の在宅介護を決心し、仕事を辞めたという人。
 病院勤務を辞めて、定員5人の家で「看取り」を始めた看護師さんが言った。
「どこで何されたんだか、体が拘縮しきっていて人が触ると暴れちゃうようになっている人をね、まず人間に戻すところから始めないとならないのよ」と。
「入所したら、みんな『オムツ』になっちゃう……、そんな世界を変えるために介護職になった」と語る人もいた。その人は大学生のときに特養ホームでアルバイトし、その実態に腹をたて、介護職員になり、若くして特養ホームの副施設長として働いていた。
 このように新しい介護のありかたを求める介護職の人たちが、実はたくさんいるのだ。私たちは確信した。その実践の新しい波がいよいよ本格化する時代へと今、向かっているのだ、と。那須町の廃校で開かれた総会
 那須のサ高住には2019年、そんな介護関係の人たちが「合宿」と称して遊びにやってきた。その中心にいたのが、キャンピングカーで全国を旅しながら「介護の重い人もゆっくり一人で入れるお風呂」を販売している「介護界の寅さん」ことリハビリデザイン研究所の山田穣氏だった。
 以来、山田氏は毎月のように那須にやってくる。実は、彼はもともとオムツの会社を経営していた。彼を改心させて「お風呂屋さん」にしちゃったのが、「オムツ外し」提唱者の三好氏だ。取材を通して介護の世界に希望をもたらしてくれた介護職の人たちの多くも「オムツ外し学会」の仲間だった。介護問題に行き当たれば、「オムツ外し学会」に行き当たる、のである。それは介護の現場で、オムツは「介護する側の都合優先の介護」の象徴であり、三好氏の「オムツ外しは介護の原点」であると痛感してきたからだ。
 私も同じだ。
 この国で一番人数の多い団塊世代が後期高齢者へと突入し、未曾有の大介護時代の幕が開ける日も近い。私はその世代の一人として、自分の住むサ高住に老々介護のシステムを作り、介護の自給自足生活を目指したいな、と思っている。両親の介護で体験した「絶望」、その後の取材の日々で知った「希望」を糧に、介護される当事者が望む介護のあり方を自ら求めることで、新たな介護モデルの実践につなげるのだ。
 そんなわけで、「70代にもなって」ではなく「70代になったから」こそ、介護ヘルパー学校へ通い始めた私なのである。


日本人9人組「NiziU」が大ブレイク、韓国が世界的アイドルを生み出す理由

2021-02-14 13:30:00 | 日記

下記の記事はダイヤモンドオンラインからの借用(コピー)です


韓国の大手芸能事務所JYPエンターテインメントとソニーミュージックによる合同オーディション企画から誕生した、日本人9人組ガールズグループ「NiziU」(ニジュー)が国内外で大きな話題になっている。なぜ韓国のエンターテインメント業界は、世界で通用するアイドルたちを次々に輩出できるのだろうか。(国際政治評論家・翻訳家 白川 司)
NiziUの記事が
ネットで炎上
NiziU公式ホームページより
 先日、あるネットメディアで『なぜNiziUは世界を興奮させるのか…日本のエンタメが「韓国に完敗」した理由』という記事を執筆したところ、Yahoo!ニュースで炎上してしまい、たくさんの否定的なコメントをいただくこととなった。
 記事ではNiziU、BTSなど、韓国のエンターテインメントが日本などの海外で爆発的ヒットを記録し、世界に打って出ている一方、日本のエンターテインメントは世界市場では低迷が続き、ここ数年で日本と韓国の差がより大きくなった背景などについて触れた。
 タイトルの「韓国に完敗」が気に障った方が多かったようで、内容を読まずにタイトルに反発したコメントもかなりあった。タイトルは私がつけたわけではないのだが、確かに嫌韓の雰囲気が強まる中で「韓国に完敗」と言われてうれしいはずもない。一言言いたくなる気持ちはわかるが、記事の真意を改めて伝えたい。
 私が記事で言いたかったのは、「日本のアイドルが世界市場に打って出るのに限界がある。その理由は日本のアイドル市場の特徴にある」ということだ。
 英語のidolはもともと崇拝する対象のことだが、「アイドル」は崇拝対象ではない。ファンにとってアイドルは「応援するもの」である。
 完璧なルックスやスタイルで歌やダンスをこなすアイドルはいない。日本におけるアイドルとは、未成熟で透明感のあるルックスの少女が、愛すべき欠点や程よい下手加減を補おうと一生懸命になるものだ。ファンはそんなアイドルの一生懸命に「萌えて」応援するのである。
 そのため、ちょっとドジだったり、不器用だったり、少し知識が足りなかったりしたほうが好まれることが多い。「ポンコツ」ぶりが「愛嬌(あいきょう)」となり、それも含めて愛されるからである。だから、アイドルにとって「おバカ」は武器になりうる(でも、「おバカ」になるには、「馬鹿」ではつとまらない)。
 この「未成熟の一生懸命」が日本のアイドルの典型的なあり方であり、その一生懸命さを応援することがアイドルに求められる伝統的な形だと言っていいだろう。
モーニング娘。が
世界市場への先駆け
 そんな日本のアイドルが国際化した時期がある。きっかけは1990年代に起こった世界的な日本のポップカルチャーとサブカルチャーのブームである。
 欧米の若い女性を中心に原宿ファッションや渋谷ギャルファッションが注目を集め、日本のビジュアル系バンドや浜崎あゆみなどの音楽がJ-POPと称されてヨーロッパや東南アジアなどを中心に聞かれるようになった。その流れで、1990年代後半から大活躍していたモーニング娘。がヨーロッパを中心に注目された。
 モーニング娘。はテレビのオーディション企画で生まれたアイドルグループで、タレントでない少女たちがいくつもの課題をこなす「未成熟の一生懸命」の物語に多くのファンが引き寄せられて、やがてヒット曲を連発する国民的アイドルグループに成長した。
 私の印象では「LOVEマシーン」(1999年)からフランスやスペインなどでも注目されたのが最初だったように思う。モーニング娘。は日本のアイドルが世界市場に乗り出す先駆けとなり、それはのちのPerfumeやきゃりーぱみゅぱみゅの世界進出につながったと考えられ、その功績は大きい。
 ところが、肝心のモーニング娘。は、メンバーが交代してパフォーマンス力を上げていくとともに、ライトなファンが脱落して、人気を落としていった。それに取って代わるように、「未成熟の一生懸命」を合理的にシステム化したようなAKB48が人気を博し、やがて日本のアイドル市場はAKBグループに寡占化されていく。
日本流アイドルの
輸出に限界
 AKB48もモーニング娘。が開いた世界市場を狙ったが、うまくいかなかった。それは「未成熟の一生懸命を応援する」というスタイルが日本独特なものであって、世界市場ではあまり通用しなかったことが大きかったと考えられる。
 また、AKB48の仕掛け人である秋元康氏は、世界市場進出失敗後に、AKBの「ビジネスモデル」の輸出に挑戦している。面白い試みであるが、AKBの「未成熟の一生懸命」が通用する国は限られており、インドネシアや中国などでの部分的な成功を除けば失敗だったと言うべきだろう。
 モーニング娘。の道を広げたのは韓国の少女時代である。ハイヒールを履いた「長い脚」で高いパフォーマンスを見せる少女時代は、韓国政府が予算を組んで国家としてエンターテインメントの国際化を狙っていたこともあって、ある程度の成功を収め、アメリカなどのヒットチャートをにぎわすことに成功した。現在、国境を越えて成功を収めるTWICEやBTSの道を開いたと考えていいだろう。
 もともと韓国では日本同様に若さが重要であると同時に、エンターテインメントに完成度を求める傾向が強い。それはアイドルグループについても同じだった。だから、少女時代のメンバーは、デビュー前から厳しい訓練を積んでおり、その訓練に耐えたメンバーゆえにレベルの高いパフォーマンスを演じられたのである。
 モーニング娘。の「アイドルグループ」というフォーマットは偶然の力で世界市場に浸透したが、その後、市場を広げることはうまくいかなかった。それに対して、韓国のエンターテインメントがその市場を戦略的に広げたわけである。その際、日本流の「アイドルグループ」は韓国流の「ガールズグループ」というフォーマットに書き換えられている。言うまでもないだろうが、アイドルグループは応援するもの、ガールズグループは楽しむものである。
 現在の韓国の「ガールズグループ」というフォーマットは、日本のアイドルグループが下敷きになっている。だが、アイドルグループの「未成熟の一生懸命」というやり方が、世界市場へのアクセスを妨げており、結果的に「ガールズグループ」が優勢になっている。
BABYMETALが
切り開いた可能性
 では、日本のアイドルが世界市場に食い込むのは無理なのかというと、そうとは言い切れない。日本流のアイドルの可能性の高さを見せているBABYMETALの存在があるからだ。
 ただし、BABYMETALが世界市場で成功できたのは、ポップスではなくメタルで勝負した点が大きい。
 BABYMETALは最初からメタルで勝負していたわけでなく、あくまで当初はアイドルにメタルの要素を取り入れたものだった。それがやがてメタルのほうに引っ張られて、やがてメタル界のアイドルとして成功したわけである。それはボーカル担当の中元すず香がアイドル離れした歌唱力の持ち主であったことが貢献している。
 BABYMETALの特異性は、メタルが国境を超えて世界中に市場が存在しており、国境を超えて人気を博すようになったことにある。やがて「世界的な人気者」として国内で再評価されて、日本でも中高年男性を中心に人気を博すようになった。
 このことは、アイドルの活躍の場が徐々に「ローカル」に移行していることと関係していると考えられる。
日本においてアイドルのあり方が細分化されていることに気づいている人も多いだろう。ローカルアイドルはもちろんのこと、地下アイドル、コスプレアイドル、鉄道オタクのアイドルなどなど、細分化された世界においてアイドルが誕生している。
 たとえば、私に言わせると、石原さとみは「アイドル女優」ではなく「女優界のアイドル」である。
「アイドル女優」はアイドル的な女優のことで、たとえば「本格派女優」「演技派女優」などに対立する。一方、「女優界のアイドル」は「女優」という限定された世界におけるアイドルであり、石原さとみは後者である。
 BABYMETALもポップスではなく、「メタル界のアイドル」として成功している。国境を超えた活躍をしているが、あくまで「メタル」という世界に限定されている。BABYMETALの成功は、日本のアイドルが国際市場に活躍の場を見つけることができるヒントとなっている。
 それは、ローカルな場でアイドルが存在できる可能性があれば、エンターテインメントにおいて多様で大きな市場を持つ日本が有利だからだ。
 BABYMETALが世界的な活躍ができるのは、メタルを熟知する仕掛け人と、国際水準のプレーヤーが存在して、BABYMETALを全面的にバックアップできるからだろう。ローカルな場であろうと世界市場であればあるレベル(=お金を払った客をライブで楽しませるレベル)のパフォーマンス力が必要である。その点に関しては、日本が独壇場にできる可能性はあるだろう。
 ただし、BABYMETALのメンバーが、本当にメタルを愛してライブに情熱を燃やしているのかは少し疑わしい。最近、メンバーの一人が脱退したが、そうなると「やらされている」という状態でハードなスケジュールを無理してこなしていた可能性もある。
 BABYMETALの場合、あまりに早い段階で世界市場に出てしまったために、まだ10代のメンバーに過剰な負担をかけている可能性もあり、その功績は評価したいものの、本当に手放しで評価していいのかかどうか迷いもある。ただし、BAMYMETALが日本のアイドルのあり方に大きな可能性を与えてくれた点は疑いようもない。
プレデビューながら
オリコン首位を独占
 日本のソニーミュージックと、TWICEを輩出した韓国最大手のJYPエンターテインメントがタッグを組み、選抜した「ガールズグループ」が9人組のNiziU(ニジュー)である。本格デビュー前のプレデビューながら、2020年6月30日に4曲が配信されて、オリコンデイリーデジタルのシングルランキングでは初登場で1、3、4、6位を獲得した。
 デビュー前から話題になったのは、日本で開催されたオーディション「Nizi Project」の経過を、インターネット番組やテレビ番組が追っていたからである。NiziUのプロデュースを担当するパク・ジヨン(J.Y.Park)氏も、候補者に対する的確なコメントや独自の哲学で注目されている。本人自身もアーティストでありながら、K-POP好きな少女が憧れているTWICEを手掛けた辣腕(らつわん)プロデューサーでもある。
 ここまでを読んで、日本のテレビ番組でつんく♂氏が手掛けたモーニング娘。にそっくりであることに気づいた方も多いだろう。モーニング娘。と違うのは、オーディションにおいてダンスや歌の能力が重視されている点だ。つまりモーニング娘。のオーディションが普通の少女がアイドルを目指すという物語だったのに対して、NiziUはアイドル性だけでなくパフォーマンス力を競った点である。
 同じくスターを目指す少女たちの物語を消費する点は同じだが、NiziUの場合、あくまで「NiziUという完成品」を目指す点であるのが異なっている。すでに注目度の高い曲を出しているのに「プレデビュー」なのは、まだガールズグループとして完成していないという思いからだろう。
 つまり、NiziUは、韓国ガールズグループとしてだけでなく、日本のアイドルグループ募集番組のやり方をミックスしたような方法をとっている。これが「日韓合作」であるゆえんだろう。ただし、日本の手法を取り入れたのは、なんといっても日本市場がメインターゲットであるからにほかならない。
アイドル性から
パフォーマンスの競争へ
 韓国人プロデューサーが日本人の「ガールズグループ」をプロデュースすることに抵抗感がある人も少なくないが、世界進出において韓国エンターテインメントが先行している以上、これも1つのやり方だと割り切るべきではないだろうか。
 実際、この方法ですでに大きな人気を獲得しているというのは、日本において、アイドル市場とは別に、「ガールズグループ」への需要が生まれているからにほかならない。
 日本にも、今年解散したフェアリーズのように高いパフォーマンス力を持つ「ガールズグループ」もいる。だが、いまだにAKBグループのような「未成熟の一生懸命」消費が主流であり、パフォーマンス先行のグループには従来の方法では突破できない壁がまだ存在していたのである。
 NiziUがブレイクした裏には、従来のアイドルファンとは違った層が生まれていると考えられる。それは自身もYouTubeやTikTokにダンスを投稿するような若い層だ。これらの層は、透明感のある少女の「ポンコツ」に萌えるのではなく、自分たちが踊りたくなるようなパフォーマンスを見せてくれるグループのファンになりうる。すると、NiziUのダンスがまねしたくなるようなものであれば、NiziUのファンになり、その中にはもっとレベルの高いことをやりたいと考える少女も出てくるはずである。そのような新しい消費の形が芽吹きつつあると感じる。
 これは日本のエンターテインメントにとっても大きなチャンスとなるだろう。これまでの「未成熟の一生懸命」というアイドルの公式を超えて、日本に数多くいるポテンシャルの高い人材を活用できる仕掛け人の登場こそが望まれているのかもしれない。


小室圭さん「皇室出禁」へ…紀子さまが突きつけた結婚の条件

2021-02-14 11:01:00 | 日記

下記の記事は女性自身オンラインからの借用(コピー)です

小室圭さん門前払いも 国際弁護士の夢に立ちはだかる学歴の壁
秋篠宮家の長女・眞子さまとの結婚が延期となった小室圭さんは18年8月に渡米。現在はニューヨークのフォーダム大学で国際弁護士を目指し勉学に励んでいる。
パラリーガルとして勤めていた『奥野総合法律事務所』から生活費の援助も受け、フォーダム大学からは授業料が全額免除される奨学金も獲得。万全の状態で国際弁護士を目指しているように見える。
しかし、ニューヨーク州弁護士の山口真由さんは厳しい指摘をする。山口さんは東京大学在学中に司法試験に合格。小室さんが目指しているニューヨーク州弁護士の資格も17年に取得している。
「私がハーバードのロースクールで学んだときは、人生で一番と言えるほど忙しい毎日でした。毎晩12時まで勉強し、ひたすら寮と大学を往復する大変な日々でした。たしかに日本の司法試験に比べれば合格しやすいですが、それでもアメリカ国外で教育を受けた受験者に限れば4割ほどの合格率。決して簡単ではありません。仮に合格しても、もとから日本の資格を持っていない人はニューヨークの州法しか扱えないので、日本での仕事はかなり限られます。小室さんがどういった未来を思い描いているのか、よくわからないですね」
もしかすると小室さんは、日本には帰国せずにそのまま海外で仕事をするという希望を持っているのかもしれない。しかし、山口さんはその選択肢も疑問視する。
「アメリカの法曹界はものすごい学歴社会なんです。スタンフォード、ハーバードといった『トップ14』と呼ばれる名門ロースクール出身でなければ、都市部の大きな事務所では門前払いでしょう。フォーダム大学を出ても、ニューヨークで華々しく活躍するのは難しいかもしれません」
眞子さまが小室さんとの海外生活を思い描かれている可能性も否定できない。しかし、もし無事に結婚されたとしても苦難は続いていきそうだ。

(『女性自身』皇室SPECIAL増刊 )


小室圭さん「皇室出禁」へ…紀子さまが突きつけた結婚の条件

《11月8日に立皇嗣の礼が終わった今、両親の理解を得たうえで、改めて私たちの気持ちをお伝えいたしたく思います》
文書のなかで眞子さまはこのようにつづられていた。しかし、宮内庁関係者によれば、秋篠宮ご夫妻は決してこの文書の内容にまで同意していたわけではないという。
「今年に入って眞子さまは、以前の“対話拒絶”状態から態度を軟化させ、ご両親と結婚について意見を交わされるようになりました。とくに紀子さまは、なぜ親として小室さんとの結婚に反対なのか、丁寧に説明を重ねてこられました。しかし、そのお気持ちは眞子さまにまったく伝わっていなかったのです。眞子さまの文面を事前にご覧になり、怒りに震えた紀子さまは、小室さんとの結婚にある条件を提示されたといいます」
いったい、その条件とは何なのか。宮内庁関係者が続ける。
「女性皇族は結婚して皇室を離れたあとも、夫とともに皇室の行事に参加することがあります。たとえば黒田清子さんは夫の慶樹さんと、皇族方の誕生会や結婚式に出席していました。
しかし紀子さまは、小室さんが結婚後に皇室と関わることを、非常に懸念されているのです。なぜなら小室さんは、将来悠仁さまが即位されることになれば、天皇の“義兄”となる人物だからです。このままの状況で結婚するつもりなら、小室さんは皇室に関わらせないでもらいたい――。紀子さまは小室さんの“皇室出禁”を眞子さまに突きつけられたのでしょう」
さらに紀子さまは、金銭面でも厳しい条件を示されたのだという。
「女性皇族が結婚される際には、結婚後の生活のため“一時金”が支払われます。内親王である眞子さまの場合は約1億4千万円といわれていますが、実はこの金額は慣例にすぎず、法律で決まっているわけではないのです。
国民の祝福を受けられない結婚に、税金から捻出される多額の一時金は渡せない――。紀子さまはその覚悟を、眞子さまに問われたといいます。ですが、眞子さまは結婚の意思を曲げず、小室さんとお二人のお気持ちを記した文書を公表されました。つまり、紀子さまが突きつけた条件を“のんだ”ということでしょう」(前出・宮内庁関係者)
しかし、その条件は小室さんにとっては過酷なものになるという。小室さんは以前から“借金苦”が囁かれていたからだ。皇室担当記者が説明する。
「小室さんはニューヨーク州の弁護士資格取得を目指し、フォーダム大学のロースクールに留学していますが、1年あたりの授業料はおよそ6万ドル(約630万円)。生活費なども加えると、留学費用は1年間で約1千万円です。小室さんが獲得した学費免除を差し引いても、2千万円近い費用がかかるはずです。中学と高校は学費が年間300万円ほどといわれるインターナショナルスクールに6年通い、大学は4年間の学費合計が500万円を超えるICU、社会人になってからは一橋大学の大学院にも通っています。奨学金などを借りなければ、とても賄えない金額のはずです。
小室さんが社会人として働いたのは約4年。その期間だけでは返しきれていないのではないでしょうか。小室さんは3千万円とも推定される“借金苦”を背負ったまま、眞子さまとの新婚生活を始めることになるのです」
さらに“借金”といえば、小室家が抱える金銭トラブルだ。今年11月は、小室さんの母・佳代さんが、元婚約者X氏から初めて金銭を受け取ってから丸10年となり、返済の時効を迎えたと言われていた。このまま時間が過ぎれば、’22年1月にはすべての“借金”が時効になり、金銭トラブルの法的責任はなくなるという見方もあったが……。
前出の皇室担当記者は、事態はそう単純ではないと指摘する。
「X氏の証言によれば、’12年1月に渡した200万円は、佳代さんの当初の説明とはまったく違う使われ方をされたといいます。小室さんの留学にあたり“銀行口座に200万円以上あることを大学に証明しなければならない”とのことでX氏から一時的に振り込まれたお金を佳代さんは返還せず、生活費やスペインへの旅行代に使ったといわれています」
こうした行為は、金銭トラブルの交渉に影響を与えないのだろうか。元検事で国際弁護士の清原博さんに聞いた。
「もし佳代さんがX氏を騙す意図で嘘の理由を述べ、X氏がそれを信じて金銭を貸したとしたら、X氏は金銭の貸し借りを取り消すことができます。この取り消しは金銭の貸し借りから20年以内であれば可能です。そして、取り消した場合にはX氏は佳代さんに金銭を返すよう求めることができますが、その時効は取り消したときから10年間となります」
つまりX氏の証言が正しいならば、佳代さんの“借金”の一部の時効は、さらに20年以上先延ばしが可能ということになる。
“時効シナリオ”にも誤算が生じている小室さん。眞子さまによる文書が発表された一方で、暗澹たる気持ちを抱いているのかもしれない――。

https://jisin.jp/domestic/1913908/3/ 


コロナ後遺症報告 重症者も軽症者も同様に発症、男性より女性が多い

2021-02-14 08:30:00 | 日記

下記の記事はNEWSポストセブンからの借用(コピー)です    記事はテキストに変換していますから画像は出ません

 新型コロナウイルス感染症の治療法がいまだ確立されていないなか、さらなる不安となっているのが、多くの感染者が悩む「後遺症」だ。命の危険に直結しなくとも、長期間に及ぶ後遺症の事例は数多く報告されている。
 米国の医学誌『JAMA』電子版によると、イタリアで新型コロナ回復患者143人を対象にした調査の結果、回復から2か月程度の期間内で、87.4%の患者に何らかの症状が生じたという。
「ロング・コビッド(長期コロナ感染症)」という言葉があるように、感染時に近い症状が続き、「いつまでも治らない」と感じる患者が多いとされるが、なかには回復後に初めて発現する症状もある。昨年末に発症し、1月初旬に退院したタレントの松村邦洋氏(53)はこう話す。
「感染時は特に感じなかったのですが、コロナから回復して以降、偏頭痛を少し感じて不安ですね」
 コロナ回復患者を対象に「後遺症外来」を開設し、これまで1000人以上の患者を診てきたヒラハタクリニック院長の平畑光一医師はこう警鐘を鳴らす。
「海外の論文で、後遺症は重症者も軽症者も同様に発症することが報告されています。当院に来院された患者さんのなかには感染時は無症状や軽症だった方も多く、年齢は20~40代の若い人が多い」
 ヒラハタクリニックの後遺症外来を受診した患者のうち808人のデータを症状別に別掲図にまとめた。データを見ると、後遺症を訴える患者は女性のほうが多いことが分かる。
「国内の感染者は男性のほうが多いですが、後遺症患者は女性が男性の1.4倍ほど多い。症状の持続期間は人それぞれで、すでに1年近く続いている方もいる。今後も数年間、もしかしたら一生続く方もいるかもしれません」(同前)
 具体的にはどのような症状が表われるのか。昨年12月に感染した衆院議員(日本共産党)の清水忠史氏(52)が語る。
「コロナの症状では嗅覚障害、激しい頭痛や胸痛、関節痛、風邪のような倦怠感に悩まされました。ホテルでの療養を終えてからも息苦しさが残っていて、少し歩くと息があがる状態でした。胸が痛く、大きな声も出せなかった。現在は治ってきましたが、今も時々、風邪のような倦怠感が襲ってきます。測っても熱はないのに、ボーッと熱っぽく感じます」
 清水氏のような倦怠感は回復した患者のほとんど(94%)が訴えている。同様に新型コロナに感染した衆院議員(立憲民主党)の小川淳也氏(49)もこう明かす。
「退院後は1週間くらい、だるさが抜けませんでした。退院後2週間ほど自宅療養を続けましたが、『このだるさがいつまで続くのか』という不安がありました」コロナ後遺症の事例
 後遺症外来の受診患者の8割近くが訴えた体の痛み、息苦しさも典型的な後遺症と見られるほか、過呼吸になる人もいるという。昨年4月に感染した俳優の石田純一氏(67)はこう言う。
「ここ30年ほど毎日5km走ることを日課にしていますが、その走り出しが苦しく感じます。年齢のせいかコロナのせいかは分かりませんが、運動パフォーマンスが落ちている感じがする」
 昨年12月29日に陽性と診断され、夫と長女も感染。家族3人で自宅療養を続けたタレントの井上和香氏(40)は「治りかけの頃から空咳が出て、しばらく止まらなかった」という。
「今では咳の回数は減りましたが、治りそうで治らず、いつまで続くのだろうと不安を感じます。それに体力が完全に戻らず、疲れやすくなりました。自転車の乗り降りで子供を抱える時や、掃除や洗濯をする時など一つ一つの行動に疲れてしまい、休み休みしたくなる感じです」
 こうした“疲れやすい”“息切れする”などの違和感も、放置すると危険な場合がある。医療ガバナンス研究所理事長の上昌広医師が語る。
「無症状の感染者でも肺炎を起こしているケースがあるので、パルスオキシメーターで血中酸素濃度をこまめに測ることを推奨しています」
 また、前述の石田氏のように療養中に落ちた体力を取り戻そうと運動する人は多いが、後遺症の種類によっては「動かない」ほうがいい場合があるという。
「コロナ後遺症の人は、だるさ、微熱、息苦しさ、体の痛み、筋肉痛、味覚・嗅覚障害などの多彩な症状が5~6つあるのが当たり前です。体調不良を抱えながらの無理な運動や過度のリハビリはむしろ危険です」(平畑医師)
 その深刻さは、数字にも表われている。
「後遺症外来の患者さん808人中、253人はその後『寝たきり、もしくは寝たきりに近い状態』に追い込まれ、仕事や学校に行けなくなっています」(同前)