『人生は、スイカと同じ。
涙のひと粒が、人生を
甘くする』
スイカに塩をちゃっと
かけることで、スイカの甘さ
が倍増します。
おしること一緒に塩コンブ
をつまむことで、ますます
おいしくなる。
人生の甘さを味わうために
も、ちょっとした人生の塩味
が必要なのです。
ほんとよ。
「一度もないの?
奥さんのいる人を好きに
なったことは」
うん、一度もないの。
と、わたしは嘘をつく。あまり
上等とは言えないかもしれない
嘘を。
彼女に対して?自分に対して?
いいえ、その両方に対して。
シーツとシーツのあいだに、
とどめておかなくてはなら
ない。
そこで見た夢、聞いた話、
そこで感じた幸福、そこで得た
すべてのことは、それ以外では
色を失い、命を失う。
【女性の視線】
女性のほうが話し相手と
視線を合わせることが多い
のは、女性は他の人を求め、
いっしょにいたいと思う欲求
(親和欲求)が高く、支配欲求
が高く、支配欲求が低いためだ
といわれている。
『間違った結婚』
現代の結婚には二つの重大な誤り
がある。一つは似た者どうしの
結婚であり、
そして他方は、自分のパーソナリ
ティを埋め合わせる配偶者との
結婚である』。
―イギリスの心理学者 ―
アイゼンク
「不透明なこれからの時代を
力強く生きていくには、五感
が敏感で、それでいて
コンピューターもジェット機
も自ら操れる、いわば知的
な野蛮人であることが必要
だ」とある人物が語っていま
した。
さて、「百聞は一見にしかず」
と昔から言いますが、ルソー
はこんな言葉を残しています。
「視覚は、五感のうちでいち
ばん当てにならず、間違い
やすいものだ。
たとえば、人間は一目で
地平線の半分を見渡せる。
このように、視覚の作用は
あまりにも早くかつ広大で、
他の感覚によって修正する
ことができない。だから、目
だけで事物を判断すると
必ず間違う」と。
視覚による早とちりな判断
を正すには、五感のうち
最も鈍感だが、最も判断
が正確で確実な触覚と
組み合わせるのがよい
そうです。
技師や測量士、建築家、
大工、画家など手を使う
人が、一般の人よりは
るかに的確に一目で
空間の大きさを見積もる
ことができるのは、その
ためだと言います。
視覚や聴覚だけでなく、
味覚、聴覚、触覚も
働かせて正しい判断を
したいものです。
エリザベステイラーは、八回
結婚しているが、男にこり
たというような発言はしない。
相手が十歳も年下であろう
と、たとえ結婚している男で
あろうと、
好きよとなったら、たとえ奪い
とっても、自分のものにした。
彼女ほど美人ではないけれど、
そして彼女ほどにお金持ちで
はなかったかもしれないが、
ココ・シャネルという女性は
八十幾つまで生きて、直前まで
男に恋をしていた。
エリザベス・テイラーは、恋をす
ると、結婚というかたちでそれを
成就し、結婚生活の中でそれを
燃え尽くし、すりへらしてしまった
が、ココ・シャネルは生涯一度も
結婚しなかった。
恋だけをしてきたのである。
70を過ぎた女が、と世間の
ひんしゅくをかうかもしれないが、
たとえ80になろうと90になろう
と、女はオンナなのである。
暮れも押し迫ってきた。
12月13日は“事始め”、
老舗旅館俵屋では餅をつき、
桃色と白の餅花を、50本の
柳につける。
これを従業員全員で行う。
無病息災を願いながら、一見
古めかしい心の結晶が、やがて
氷の結晶という幻想的な花傘と
して開花する・・・・・
やがて玄関に餅花が飾られる。
私は、紅白の餅を飾るのはいか
にも京都らしい習慣だと思った
が、京都にはもともとこんな習
慣はなかったそうだ。
商社勤務の頃、染め依頼で長年
京都に通っていたが、俵屋オリ
ジナルの発想だそうだ。
約三十年前、東北地方で一月
十五日に行われる、農耕の栄を
祝う花正月という風習からヒン
トを得て発案し、それを「俵屋」
の正月に取り入れた。
独自のアイデアだったのだ。
いまや、京都の料亭の初春を
飾るしつらいとして定着してい
る観のある餅花は、それまでの
京都には影もかたちもなかった
といいうのである。
つまり、「俵屋」が京都における
餅花飾りの元祖というわけだ。
おそらく、餅花飾りにごく自然
に京の正月らしい雰囲気を感じ
るのは、私だけではあるまい。
その当たり前と感じるほどに
普及している“京の美”が、
実は「俵屋」さんの独創性に
よる産物だ。
伝統と新しさを柔軟に取り入
れる魅力を京都に感じた。
私たち人間は<幸・不幸>に関
して、とかく、つぎのような
考え方におちいりやすいもの
だ。
順境が幸福、逆境が不幸。
安楽がしあわせ、困窮が不
しあわせ。
たくさん「もつ」ことが幸福、
その反対が不幸。
この判断がまるまるの誤りである
とは、いえないかもしれない。
“ 一面の真実”ぐらいは、ついて
いると思われるからである。
しかし、それはごく一部の真実に
すぎず、また、きわめて表面的
なあ見方にもすぎないであろう。
逆境、困苦の中にあって、明るい
顔で、「私はしあわせ」という人
もいるのである。
そういう人は変なのか?
いやいや、そんなことはあるまい。
幸福の尺度を、もっと深いところ
に求めているだけの話であるに
ちがいない。
順境も逆境も、“人生の材料”に
すぎず、これがただちに人の幸
と不幸をきめるわけではない。
要はこれらへの“対処のしかた”
こそが肝心なので、それのいかん
によっては、「順境かならずしも
幸福ならず、逆境かならずしも
不幸ならず」ということになっ
てくるけけなのだ。
もっと強く、「逆行こそが幸福」
といっていえないこともあるま
い。少なくとも、「幸福を生み
だす源」というぐらいには・・
・・・。
なぜなら、逆境によってこそ、
人は磨かれ、鍛えられて、とく
にその精神面を成長させること
ができるからである。
逆境を“光”として、心を明る
く照らすことができた人は、自
分の力への自信もつくにちがい
ない。逆境の中にも幸福のタネ
だけを見つけて、これを育てる
ことができるのである。
まさに、このような人こそが、
「幸福な人」なのではないか?
順・逆、どのような境遇にお
かれようと、ここから「幸福
への道」だけを見つめてゆく
人である。