“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

報道番組での改憲発言

2012年12月10日 15時00分00秒 | 臼蔵の呟き
12月9日(日)のフジテレビ報道番組での維新の会代表者の発言です。日本国憲法を改訂するという発言です。日本維新の会は選挙公約に「憲法改正」を掲げていることからこのような発言となりました。

敗戦後に軍国主義の復活を阻止して、日本を再軍備しない国にするために、日本国憲法の改定がされました。その憲法は、アジア・太平洋戦争前からの日本法曹界における議論が繁栄されています。現行憲法の攻撃する潮流の多くは、占領軍によって強制された憲法であることを理由としています。しかし、その根底には平和条項である軍備を持たない、交戦権、戦闘行為を禁じることにあるのは明白です。1950年の朝鮮戦争を契機として、自衛隊の創設を行い、日本を反共防波堤にするとしたアメリカ政権、アメリカ軍の意向に沿って、自衛隊は実質的な軍事組織として、肥大化してきました。しかし、なし崩し的な憲法解釈だけではどうしても超えられない、交戦権、戦闘行為を合法化したいとの思惑が、彼らの憲法改定の悲願となっているのだと思います。このように口汚く「憲法をののしる」発言は異常としか言いようがありません。
戦争の悲惨さと反省を踏まえて、戦後の日本は67年にわたる平和な時代、他国人民を1人も殺すことなく発展してきたこともこの憲法があったからこそといえると思います。考え方の違いであると言っておけない問題があります。

<フジテレビ報道番組での発言>

 日本維新の会代表の発言。(選挙後の自民党との連携は)そりゃ当然、是々非々でしょうね。ただ、やっぱり自民党っていうのは、一番大きな政治イシュー(論点)である憲法を、どこまでどういう風に変えるか。共闘(関係)である公明党が、かなりリラクタント(渋っている)なんじゃないですか。この問題は、やっぱり諸悪の根源。日本を衰弱させて、孤立させた一番大きな要因。国民の意思まで低下させた憲法っていう醜悪な法律ですよ、私から言わせると。(フジテレビの報道番組で)
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「死ニ方用意」戦艦大和②

2012年12月10日 11時00分00秒 | 臼蔵の呟き




戦艦大和(全長263m、6万4000t)の乗組員、水平は海軍でも特別に優秀で、選抜された軍人が乗船しました。その意味では軍人としての知力、体力、戦闘意欲、軍規に対する意識も非常に高いものであったと思われます。その乗組員の帰還兵士の証言を聞いて感じたことは。「おや?」と思ったことがあります。当時の出征兵士は「国の誉れ」「村の誉れ」「家の誉れ」と言われて送り出され、一度家を出たら、生きて帰ってくるなといわれて出征してゆきました。軍国少年、軍隊の指導をそのまま受け入れていた家族ほど、そのような教育、子供への指導を徹底していました。

生き残った軍人が「自分が何のために死ぬのか分からなかった。」沖縄に向けて特攻攻撃に出撃したことは全乗組員が分かっていたことです。しかし、その最後の戦い、航海で何のために自分は死ぬのか、死ななければならなかったのかが理解できない作戦命令です。死に場所を探した作戦、命令であったことの裏返しの意識ではないと考えられます。全員がそうでなかったとは思いますが、少なくてもそのような乗員、軍人がいたことは確かであったと思われます。そのくらい戦艦大和の最後の戦闘、作戦は無駄、無意味であったのだと思います。アジア・太平洋戦争自身が不正義、野蛮な戦争であったので驚くに値しないことかもしれません。

その証言軍人が、「生き残りたい半分、大和と生死を共にする半分」の気持ちであった。大和が沈没したときに乗組員が海の飛び込むときに「これで生きられる」と感じたそうです。沈没した時間は午後2時20分。沈むと同時に、海中ですさまじい明るさに見舞われた。それは、大和の砲弾、弾薬が爆発して、火柱が上がったからだそうです。その破片が上空から落ちてきた。その破片は鉄などの金属であり、海中にいる軍人にあたり、その破片で死んだ軍人も沢山いたようです。

その後、海に浮いた軍人は、行く抜くために軍歌を歌って、寒さを紛らわしていたようです。しかし、大和が沈没して軍歌も無いだろうということで歌った歌が、童謡であったと証言していました。この話もなかなか軍人の気持ち、当時の状況を良く表しているなと感じました。何とかして「生きたい」「生きる執念」最後の執念は人間として本能であり、正当な思い、感情ではないかと思います。その後、救助の他の艦船がきて276名が救助されたとのことでした。生き残り、現在、僧侶になった方が、葬儀(当時)のときに子供から戦艦大和の乗組員は全員戦死したと言われているのに和尚はなぜ生きているのか?と質問されたそうです。自分はそのときを含めて、戦死した他の乗組員のためにも責めを負っていると。恥ずかしい生き方は出来ないと。人間が生きることはそれだけで当然のことです。このように「生きのこってしまった」との感情を抱かせる戦争、軍国主義の日本の恐ろしさを感じないわけにはいきません。高級軍人の多くが生き残り、自らの行為を恥じもせずに、侵略故意を正当化する様、行為は本当に見苦しく、彼らの人格、品性はその程度のものであったこと。特権意識に支配されていたことも分かります。

自民党、日本維新の会、旧立ち上がれ日本、みんなの党などが日本国憲法を改悪しようと主張しています。民主党の半数近い議員も同調しています。民主党相原もそのような中心人物です。このような右翼的主張、軍国主義思想を政治の舞台に上げてはならないのだと思います。
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「死ニ方用意」戦艦大和①

2012年12月10日 08時00分00秒 | 臼蔵の呟き
1945年4月7日戦艦大和が沖縄に向けて出撃しました。その命令が特攻攻撃です。特攻命令は片道切符であり、帰還はありませんので、前日に最後の酒宴をあげたそうです。何倍飲んでも酔わなかったと乗船していた軍人(生き残った水兵の方)が証言しています。

米軍が沖縄上陸を果たし、日本本土が爆撃され、日本の降伏直前の戦況で、戦艦大和への出撃命令が出ました。その内容は、米軍に一泡吹かせる。巨額の税金を投入し先頭に加われない戦艦大和は国民からも批判されるだろうとの海軍上層部の判断があったとも言われています。戦況が敗戦に傾き、死に場所を探すような戦艦大和への特攻命令です。それが「死ニ方用意」です。
戦艦大和の乗組員は、3332人です。そのうち、276人が奇跡的に助かり、帰還しました。その帰還した海軍軍人の取材記録が12月8日夜のNHKで報道されました。その報道を見て感じたこと。

日本軍の戦争開始、終戦に当たっての対応はまったく精神主義であり、科学的な作戦立案などはまったく無かったのだという点でした。戦艦大和を例にとると魚雷攻撃を想定して、簡単には沈没しないように作られていましたが、真上から飛行機による爆撃には、防御する手段がまったく無かった。また、20キロ前後の戦艦、航空機に対して機銃掃射可能でありながら、レーダーが無く、曇り空では敵の攻撃にまったく対応する能力を持っていなかった。などなど。

また、巨額の戦費、税金を投入して役に立たない戦艦大和を特攻攻撃に出すとの海軍総司令部の精神主義もなんともいえない場かさ加減には唖然とします。これが石原、自民党安倍などがいう勇ましい日本軍、日本海軍の実態です。陸軍、海軍など上層部は太平洋戦争・中国アジア侵略戦争で勝利することなど出来ないとの「感じていた」「分かっていた」はずです。彼らは当時の日本軍、日本人で言えばエリート層であり、そのくらいの知識、知能はあったはずです。しかし、組織としての軍隊ではそのような先見性、科学的なものの見方がつ要しなかったということではないかと思います。戦艦大和が沈没するときにご真影(昭和天皇の写真)をどうするかと指揮官が尋ねました。そのときに、担当軍人が写真を腹に巻いたと報告を受けたとの証言がされました。その会話後に、大和が沈没したと。戦争のむごさとともに、漫画のようなやり取り、軍の行為を見るに付け、日本軍は、アジア太平洋戦争は絶対に勝てる戦争ではなかったと思いました。