第7代孝霊天皇は、皇后として十市県主の祖である大目の娘、細比賣命(くはしひめ)を娶り、第8代孝元天皇を儲けます。つぎに、春日之千千速眞若比賣命を娶り(一柱)、そして、先程の大倭久邇阿禮姫(四柱)と妹の蠅伊呂杼(二柱)を妃として迎えています。大倭久邇阿禮姫が倭迹迹日百襲姫を生んでいます。
此処に出てくる、十市県の十市とは、何処の事でしょう。
京都郡苅田町光国に清地(すがち)神社があります。祭神は 少彦名命・素盞命・大己貴で、由緒に、「古伝に曰く、往古悪疫流行し、死者殊更に多かりしために、苅田庄十ヶ村の重たつ人々愛謀りて、提の山中に少彦名命・素盞命・大己貴を勧請し、悪疫退散の祭をなせしところ霊験たちどころに現れ、此の悪疫にかかりし者平癒し、流行止まりしによりて、提村字鉢ヶ久保四千五十八番地に社を建て三神を奉斎し、年々相撲を執行し、苅田庄内の疫除の社たり。」
とあり、古来の苅田庄は十ヶ村に分かれていたと考えられます。多分、十市とは苅田庄、即ち、現在の苅田町と、考えられます。
と、謂うことで、苅田庄を統治して居た大目の娘である、細姫(くはしひめ)を皇后として、迎えて居る事になります。
しかし、日本書紀では磯城県主の大目の娘である。とされています。
(此の大目とは一体何の事でしょうか。わたくしは、江戸時代幕府の老中が大目付を設けていた事を思いました。大目とは何かを取り締まる役職の事であると考えられます。)
磯城・十市のどちらにしても、此の二つの地域は姻戚関係が認められます。
実は、苅田町に住んでいますわたくしの知人に拠りますと、苅田には、「沖永姓」が数多く有ると伺いました。此処が「息長氏」本拠地と思われます。苅田町には、「近衛ヶ丘」・「殿川」の地名も残っており、近くには、以前に述べました浮殿神社を擁する3世紀中頃と謂われる石塚山古墳もあります。多分此処が、第3代安寧天皇が居られた片塩であろうと推察しています。(浮殿は宇佐の和間にも見受けられます。)
香春神社の「辛国息長大姫大目命」を併せて考えますと、細媛命(くはしひめ)が息長大姫大目命で有るとも大いに考えられます。そして、自分の息子である第8代孝元天皇が香春町鏡山に眠って居られる事になり、早逝去した息子の慰霊を弔う為。と謂う、都合の善い考えになります。
しかし、『辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給う』と、由緒にあります。「唐土の経営に渡らせ給比、」と「崇神天皇の御代に帰座」の時間軸の整合をどの様に解釈するかの問題があります。
孝元天皇を産んだ後、細媛命が加羅国(伽耶国)に渡って崇神天皇の時代に帰って来る事が、考えられるのでしょうか。(細媛命は孝元天皇一柱のみ儲けています。)もし、それが可能とすれば、孝霊天皇は加羅国(伽耶国)に出向いたとも考えられます。
しかし、孝霊天皇はその後七柱子を儲けていますので出向いたとは思えません。やはり、皇后を倭国の「長」として、派遣したものと考えるべきでしょう。
天之御影神は孝安~孝霊天皇の頃、加羅から鉱山技術を持って苅田(十市)にやって来たものと考えられます。その後、近江に渡り、腰を落ち着けますが、この天之御影神と十市県主大目(息長氏)の娘である細媛命は姻戚関係を感じます。わたくしの想像ですが、天之御影神が十市県主の「大目」であり、細媛命が息長大姫大目命であろうと考えられます。
そして、孝元・開花の二人は、早逝去された事と考えなければなりません。古事記によりますと、孝霊106歳・孝元57歳・開花63歳になっています。崇神が168歳でありますので、比較しますとかなり短命と撮られます。香春神社に帰ってきた時は、相当な高齢であったと推察されます。そして、苅田に居た大目(息長氏)一族は、加羅国(伽耶国)を治めて居た事が考えられ、注目に値する事になります。天之御影神を「長」とする息長氏は加羅国の王に任命されていた。とも解釈されます。
そして、倭王朝が当時の加羅国を支配して居た事を意味します。
と謂うことで、現在のところ息長大姫大目命と倭迹迹日百襲姫の関係は認める事が出来ません。
その後、倭迹迹日百襲姫は甘木市にある大己貴神社とその傍にある御諸山(三輪山)付近にて亡くなったものとも考えられます。例えば、朝倉郡筑前町四三嶋にある焼ノ峠古墳は4世紀頃の築墓(前方後方墳)と謂われていますが、此処が箸墓古墳とも考えられます。
しかし、此の箸墓の記述は、日本書紀での記述であり、古事記には、崇神天皇の大物主条項では倭迹迹日百襲姫の件は全く書かれていませんので、日本書紀での倭迹迹日百襲姫の件は、編纂での捏造を感じ、あまり信用はできません。
また、倭迹迹日百襲姫は、崇神天皇の居られたと考えられる久留米市大善寺玉垂宮に行かれ、崇神天皇に付いて、近畿纏向に行ったとも考えられますが、さて如何でしょう?
《追補》2024年3月6日
孝霊天皇は、積み増しされた人物と考えられます。
倭の歴史は、蜀の太守をしていた『高躬』が西暦205年頃に韓半島経由で遣って来て、北部九州を割譲されます。
以前からの熊本玉名~八代の白氏(葛城氏)の領地であります山陰・北陸迄拡大し、高躬結び神の孫の瓊瓊杵尊=アマテルが『八州巡り』(全国一周に景行天皇が右の羽として、同行しています。)して、全国の各地の豪族の王を従わせようとしたものと、想われます。