「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

神武天皇を再考する。2

2012-04-22 | 古代史

(古事記を読んで、)わたくしの感じる神武天皇は、余りにも詳細に描写されており、他の欠史8代の天皇の描写との落差にどうも腑に落ちないものが有りました。稗田阿礼の誦習を、712年太安万侶によって献上された事を考えると神武天皇条項は信じる事が出来ません。何か捏造を感じるものがありました。そんな中、智導世津翁(大芝英雄)さまの説を拝見させて頂き大いに肯けるものであり、東征は倭国(北部九州)内での出来事と確信を感じました。

そして、もう一つ。

おとくにさまの研究ブログ『古代豪族』にて驚く事を述べてありました。『宇佐氏考』を読んで行きますと宇佐公康著『古代が語る古代史』の系図をおとくにさまは、看過出来ないものとして、参考系図として載せてあり、そこには、神武天皇は景行天皇の弟とされており、以下はおとくにさまの解説・論考から転写させて頂きました。

 

神武天皇の東遷の時、記紀に記述通り、神武一行は宇佐国に寄った。この時宇佐津彦・宇佐津姫夫婦は一行を歓待した。

この時宇佐津彦は自分の妻を神武天皇に服従と忠節の証として差し出した。

宇佐の地で神武と宇佐津姫の間に産まれたのが記紀で宇佐津姫と中臣氏祖天種子命の間に産まれたと記されている「宇佐都臣命」である。これは宇佐家系図では「稚屋」と記されている人物である。

この稚屋は伊予国の越智宿禰の娘「常世織姫」を略奪し妻とした。この間に産まれたのが宇佐家系図で「押人」と記された人物である。この人物こそ後の真の応神天皇である。

稚屋は越智氏の恨みをかい、次の越智氏との戦で戦死。この墳墓が宇佐八幡宮のある小倉山(亀山)である。

神武天皇はその後、宇佐津姫を連れて安芸国の多祁理宮(宮島の近く)に行った。この地で二人の間に「御諸別命」が産まれた。記紀では御諸別は崇神天皇の曾孫彦狭嶋の子供で東国で活躍し毛野氏の祖となっている人物である。

神武天皇夫婦は共にこの地で亡くなりその墓は宮島の弥山にある。

神武天皇の兄が景行天皇で、神武の遺志を継ぎ、九州各地瀬戸内で活躍し阿蘇国で没す。その子供の成務天皇は、長門国・筑前国を本拠地として活躍したが子供がなく景行天皇の子供である「倭武」の子供の仲哀天皇が後を嗣ぎ、神功皇后と九州の従わない部族(熊襲)の征伐を試みるが半ばで忠臣である武内宿禰に暗殺された。

神功皇后と武内宿禰は不義の間柄となり、その間に誉田別皇子が産まれた。記紀ではこの皇子を応神天皇にしている。

御諸別は神功皇后・武内宿禰・誉田天皇勢力を打ち破って誅した。自分の甥であり神武にとっては孫である「押人」を応神天皇として大和国高市郡白橿村の軽島豊明宮で即位させた。ここにはじめて天下国家を統一した。

神功皇后と誉田天皇は豊前国田川郡香原岳勾金に幽閉されこの地で亡くなった。誉田天皇は4才で早世した。武内宿禰は落ち延びたが行方不明。

宇佐氏との関係は神武天皇の日向時代に産まれた子供「常津彦命」を宇佐津彦の養子として宇佐国造を嗣がせ、その養子として神武の子供「稚屋」を跡継ぎとし、その子「押人」がその後を嗣ぎその子供の「珠敷」が宇佐の首長として宇佐氏が嗣がれていくことになる。(一部明記されていないが前後の関係から筆者判断)

概略以上のように古伝は伝えていると筆者は理解した。

宇佐公康は記紀編纂時に宇佐氏はことさら上記事実を公表することをはばかり、事実を捏造して現在記紀に記されている宇佐家系図を公表したのであると記している。

 

とされています。何んと、謂うことでしょう。

神武天皇は、東征の時、記紀にある通り宇佐に行き、宇佐津彦・宇佐津姫夫妻の歓待を受け、恭順の印として、宇佐津姫を差し出されます。この宇佐津姫との間に出来た子が宇佐都臣命(稚屋命)で、稚屋命がその後、四国の越智氏の常世織姫を略奪して押人を儲けます。この押人が後の応神天皇に成った。とされています。

 

北九州市小倉南区(不弥国=富美国=登美国)曽根から朽網(当時は難波と呼ばれていたと想われる。)で上陸した神武天皇は、垂仁天皇が近畿に行き、居なくなった後の勝山黒田の地で、饒速日系(不彌国)長髄彦と、移住地として先駆け獲得競争をしたものと考えられます。先に着いて土地を確保していた長髄彦は、博多の地から遣って来た神武四人兄弟一族(多分、春日に居られた開花天皇に係る、春日建国勝戸賣一族と関係がある一族と考えられます。)と苅田町近衛ヶ丘(孔舎衛の坂)辺りで交戦したものと想われます。此処で神武の長兄の五瀬命が負傷して、

「私は日神之御子(ひのかみのみこ)として日に向かって戦ったのが良くなかった。そのため賤しい奴から痛手を負った。今から廻り進んで、背に日を負って討とう」と誓って、南の方より廻り進んだ時、血沼海(ちぬのうみ)に着いてその手の血を洗った。そこで血沼海(ちぬのうみ)と言うのである。(日本神話の御殿より)

 

と古事記にありますが、血沼海は別府の血の池地獄が想像され、傷の手当の為に別府温泉に来たものと考えられます。五瀬命は紀国男水門(きのくにおのみなと)で亡くなり、紀国の竈山(かまどやま)に葬られますが、大分・別府から杵築にかけては紀氏・海部氏・尾張氏の本貫地であります。此処別府には、内竈(うちかまど)と謂う地名も残っております。此の男水門(おのみなと)とは、大分市坂ノ市に丹生・尾田川があり、其処の河口は『王ノ瀬』と謂い、直ぐ近くの『里』地区に4世紀末~5世紀前半と考えられています大分県最大級の前方後円墳『亀塚古墳』があり、此処が五瀬命の埋葬地と考えられます。盗掘によって大半の副葬品が失われておりますが、記紀の行動記述とも合っており、この考察は間違い無いものと考えられます。

 

神武天皇は、熊野経由で大和(邪馬投=邪馬壹国+投馬国)を目指しますが、此の熊野は別府湾日出~杵築にある熊野と想われます。そして、神武が気を失って高倉下が横刀(たち)を持って目覚めさせますが、此の地は日出町大神の愛宕神社(高倉下)と考えられます。また、吉野の地名は耶馬溪にあります山国町にあり、英彦山・耶馬溪一帯を古代は吉野と呼んでいたものと考えられます。神武天皇は耶馬溪から北上して勝山黒田の地(大和)を目指したものと想われます。この時、神武天皇一行を案内する八咫烏(やたがらす)が登場しますが、この八咫烏と謂われる人建角身命(たけつみみのみこと)の事と謂われており、この「建」の付く名前を持つお方は総べて大分県の出身の由来と考えられ、京都にある賀茂神社も豊後に由来があると謂えます。

そもそも八咫烏とは彦山で修行をする修験者の出で立ちの事で、顔(鼻)に烏(カラス)の嘴(くちばし)をして山中を徘徊するところから名付けられたものと考えられます。

日出~杵築の場所も理に適っていまして、これが歴史の真実であると考えられます

 

 

神武天皇は、垂仁後の倭を平定し、安芸国の多祁理宮(大分県国東半島安岐にあります宇佐神宮別宮である奈多宮の事であろうと考えられます。当時は多祁理宮と呼ばれていたものと考えられます。300m沖には市杵島と呼ばれる岩礁があり、比売大神の発祥の地とされています。亦、葬られた弥山(みせん)は奈多宮のすぐ近くに在る見立山の事であろうと想われます。)にて、亡くなるまで此処に居られた。とされ、統一後は兄とされている景行天皇が九州の倭国を治め、後に阿蘇にて亡くなったとされています。景行天皇の子である成務天皇に子が無くて亡くなり、成務の兄弟の倭武命の子である仲衷天皇が後を継ぎます。仲衷天皇は武内宿禰から殺され、神功皇后と武内宿禰の間に誉田別命が産まれます。

神武天皇と宇佐津姫が、奈多宮で産んだ御諸別命が兵を挙げ神功皇后と武内宿禰の軍を破ります。武内宿禰は行方不明となり、神功皇后と誉田別命が香春町勾金に幽閉され、誉田別命は4歳で亡くなった。とされています。

 

全く驚くべき記述であり、一般の研究者の方からは理解が得られ難いかとも想われますが、わたくしには、之は大方歴史の真実である。とも考える事ができます。

 

その根拠は、古事記において、神武天皇及び景行天皇の記述条項に、久米直(くめのあたい)が、どちらにも将軍として出て来ています。これは、神武と景行が兄弟であったか、それに近い関係で在った証拠と考えられる事になります。

しかし、兄弟であるとすると、五瀬命(いつせみこと)・稲氷命(いなひみこと)・御毛沼命(みけぬみこと)・若御毛沼命(わかみけぬみこと)=神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこみこと)=神武天皇 の4人兄弟は垂仁天皇の子、若しくは関係者であらねばなりません。

あるいは、景行天皇と神武天皇は垂仁天皇の子では無い事も考慮しなければなりません。

また、稲氷命か御毛沼命が景行天皇であらねばなりません。色々と考えが錯綜し、この時代の人的整合の考察が問われる事になります。

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