「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

神武天皇を再考する。1

2012-04-20 | 古代史

こうして欠史8代は九州に居られたと謂う考えで、次々にブログを書いていますと、次第に考え方が変化して、書き直して置き換えたいと思えるブログが数多く出てきます。その中の一つが「神武天皇はいなかった。」であります。

神武天皇の近畿への東征は無く、九州にずっと居られたのではないかと謂う考えがいつも頭の片隅にあり、再度神武天皇への取り組みをしなければならないと考えておりましたが、ネットを覘いていましたら、『古代史の謎を解く旅Ⅱ』と謂う、ブログを発見しました。

智導世津翁さまと謂われる方で、この方の考えの軸は大芝英雄さまと、古田武彦さまの考え方に影響を受けられ、豊富な知識と鋭い観察力を駆使して古代史の解明に挑まれておられる方であります。

この方の神武天皇への考察は、ある程度、的を得ており、神武の東征は大和を制圧したように見えるが、近畿の大和ではなくて、実は「豊国」(元祖大和)であったとされ、神武天皇の創った都(橿原)は香春であった。魏志倭人伝中の「倭国大乱」こそ、神武東征である。とされています。

全国の神武天皇を祀る神社の数の比較でも近畿とは考えられず、納得できる考察であります。皆様もこのブログをご覧ください。九州王朝が在った事が善く理解できます。

 

わたくしが比定地として揚げていた第3代安寧天皇の苅田町・第4代懿徳(いとく)天皇の香春町宮原・第7代孝霊天皇のみやこ市勝山町黒田~豊津周辺・第8代孝元天皇の香春町鏡山の勾金陵墓が古代の中心地であったことが頷けます。

特に、第7代孝霊天皇の居られたと想われる、みやこ市勝山町黒田辺りを魏志倭人伝の卑弥呼の居られた地と比定されており、わたくしの研究でも此処に倭迹迹日百襲姫が棲んでいた事になっていまして考えが一致します。

そして、此の地が天照大神の居られた場所でもあると看破されておられます。この点でも考えが一致しており、正に的を得ております。今後は実名での研究、ご活躍を楽しみにさせていただきたいものです。

 

 

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