「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

息長氏の血は孝元天皇から始まったと考えられます。

2012-04-09 | 古代史

息長氏の古代の様子が大分解けて参りました。孝安・孝霊天皇の時代息長氏の本貫地は苅田町にあり、天之御影神が大目として、加羅国を統治していたものと考えられ、中国大陸からの最新の情報や技術をもたらしていたもの、と考えられます。

天之御影神は娘の細媛命を、福岡県みやこ市勝山町黒田に居られたと考えられる第7代孝霊天皇の皇后として息長の血を初めて皇族に入れたものと想われます。その後息長氏の血は、第8代孝元と鬱色謎命(うつしめみこと)(=豊玉姫・天鈿女命・猿女)皇后の間に出来た、第9代開花天皇(住吉神・ウガヤフキアエズ)と大彦命に繋がり、御間城媛にとなり、第10代崇神天皇と彦座命に繋がるのが善く理解できます。崇神天皇は天照大神の末裔(天孫族の総本家)とされていたと想われる荒河刀弁(あらかわとべ)の娘、遠津年魚目目微比賣(とほつあゆめまくはしひめ)を皇后とされ、豊鋤入日賣命が生まれます。この遠津年魚目目微比賣は八坂振天伊呂辺(やさかふりあまのいろべ)とも考えられています。

 

細媛命は孝元を産んだその後、孝霊が妃を三人娶ったのに嫌気をさし?加羅国に渡り、向こうで采配を揮われたものと想われます。息子の孝元天皇が病に倒れ、亡くなった後に帰国され、孝元天皇が埋葬されていました香春町鏡山の傍の香春神社に住み息子を弔ったものと考えられます。其れが香春神社の由緒、「辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給う」隠れた意味であったと理解されます。

天之日矛は細媛命(息長大姫大目命)の加羅国での彼氏か息子であった可能性も考えられます。

天之御影神は細媛命を孝霊天皇に嫁がせた後、滋賀県近江の地を授かり、家族で渡って往ったものと想われます。そして、一族の一部は苅田に残り、沖永氏として現在に至って居るものと考えられます。

 

《追補》2024年3月6日

その後の考察にて、孝霊天皇は積み増しされた人物と考えられます。

孝元天皇は、『高躬結び神』の下の息子の兵主神=日高彦彦穂穂出見尊です。

阿蘇氏の娘『阿蘇津姫』=『豊玉姫』(秋永氏の源元)を娶り、『開化天皇』(ウガヤフキアエズ=住吉神)を儲けます。

開化天皇は、後年は、久留米市荒木磯城(城島)の『玉垂宮』に居たものと考えられます。

そこで、開化天皇は、伯母である『玉依姫』(秋永氏)と連れ子の『崇神天皇』(秋永氏)を娶り、ホツマ伝を景行天皇に献上したオオカシマ=大田田根子の祖父になりますオオミケヌシが、忌避になる婚礼を行おうとした『開化』に職を辞した。と、叙述しています。

ホツマ伝を読みますと『崇神天皇』と『景行天皇』は、同時代の人物と考えられ、記紀の捏造が考えられます。

 

 

 

 

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