Nonsection Radical

撮影と本の空間

そろそろ認めたら(自覚したら)どうだ

2011年01月02日 | Weblog
ようやく風もおさまり、朝から日が射していたので散歩に対岸へ。
対岸というのは淀川をはさんだ対岸。
石清水八幡宮というのがあるそうな。
男山の山頂近くにある神社で歴史があるらしい(興味がない)。
ただ対岸に見えるので行ってみようと思ったのだ。

行ってみて後悔した(途中経過は省く)。
世の中は正月であった。
参拝客が麓からあふれている。
ケーブルカーがあって、それに乗るのを楽しみにしていた(ミーハーである。ちなみに江ノ島のエスカーも経験済み)のだが、100人ほど乗れるのに15分ほど待つという。
では歩いてと、石畳や階段をのぼって行くのだが、この感じどこかで体験したなぁと思ったら、高尾山である。
東の高尾山、西の男山。
ケーブルカーもあるし、茶店もある。
違うのは高尾山は山頂にのぼるのが目的だが、男山は参拝である。
だから高尾山をのぼるのに文句は言わないが、男山では所々で「手を引いて~」とか「おんぶして~」というバカバカしい声が聞こえた。
山の上は人のムレムレで本殿に近づくのも困難な様子。
当然すぐに下山した。
だって参拝に来たんじゃないんだもん。

無宗教だという人が多いのに、なんでこんなにみんな初詣に出かけるのか?
寺や神社、道祖神、祠、地蔵、ありとあらゆる所で手を合わせる日本人。
それで無宗教だって?
それは多宗教、あるいはアニミズムというのだ。
自覚していないだけで、身に染み付いている。
だから正月=初詣となるのだろう。
satoboは物心ついて以来、手を合わせた事がない。
だってそんな習慣がないんだもん。
きっとキリスト教徒やイスラム教徒にもないと思う。
つまり日本では、手を合わせるという事は信徒の印なのである。
なんの信徒かは知らん(日本アニミズム教か?。

帰りは憧れのケーブルカーに乗って下山。
ケーブルカーは下りの方が楽しい。

精進落としに橋本に向かう(笑)。
実は数日前に老親から「昔は渡し船に乗って対岸の遊郭に遊びに行く人が多かった。どこの誰それは、それで病気をもらい・・・」と話を聞いていて、更に以前neonさんから絵の題材として大阪のかの地へ行ったと聞いていたのを思い出して、今でもあるかなぁと向かったわけだ。
もちろん歩きで(もちろん対岸からも歩きで)、橋本の集落に入ったのだが、さてどの辺りにあるのだろう思案し、あるとしたらこの辺り?と通りに入るとドンピシャ。
ひとめでその関係であったであろう特徴あるタテモノが残っている。
格子、欄干、タイルなどに特徴を見る事が出来る。
事前に何も調べて行かなかったので詳しい事はわからないが、見ているものが事実なのだからと観察する。
しかし写真は撮らない。
現在でも実際に生活の場としてタテモノを使っているのだから、よそ者がむやみに写真を撮るのは失礼だと思ったのだ。
もし現在も営業していたら撮影はしたであろうが。

寄り道しながらの散歩だったので結構疲れてしまい、京阪電車橋本駅から京都まで電車に乗る事にした。
残念ながら京阪橋本駅からJR横浜線橋本駅までの切符は売っていなかった。
生まれて初めて乗った京阪電車は車窓からの眺めがなかなかよろしい。
四条で降りて本屋を探し、ジュンク堂で谷崎潤一郎の「蘆刈」を購入。
コメント (3)
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