Nonsection Radical

撮影と本の空間

特別な技能の先に

2011年01月14日 | Weblog
最近のデジカメってホニャららフィルターとかって色彩効果を変えるソフトが入っていて、以前なら専用ソフトで個人的にしていた事が簡単に出来るようになった。
それが人気なのか色々なカメラにそれが採用されているが、そんなものは写真にとって邪道である、とは思わない。
そういう効果を面白がって何もわからなくてもドンドン写真を撮り、その中から面白いものを作り出していけばイイと思う。
専用ソフトを使おうが、何もわからず効果を使おうが、その効果だけが売りの写真などツマラナイだけですぐに飽きてしまうだろう。
飽きるのは使う方も見る方もだ。

昔、絵画でスーパーリアリズムなるものがあったが、単に写真を元に一所懸命似せて書いただけで、だったら元の写真でイイじゃないかと思ったのも、元の写真も描いた絵も、リアルっぽく見せるためだけの題材を選んでいたため、写真としても絵としても面白い内容でなかったからなのだ。
同様に最近では写真を元に風景画を描く「画家」が目につくようになった。
元の写真を手本にしたのはいいが、写真独特のパースのつき方や妙な構図で写真が出所だとバレてしまう。
確かに写真を元にすれば、その場で写生した時よりも多くの情報を得られるのだろうが、絵を描くというのは情報を取捨選択する事なんじゃないの?

写真も効果を主体にせずに内容のための効果として利用する事が、より写真を楽しくさせると思うのだ。
そういうわけで、誰でもある効果を利用出来る環境が整った事で、効果を見せるためだけの写真を一掃してしまえる可能性がある。
「俺は(私は)そんなデジカメに入っているような簡単ソフトではなく、専用ソフトを使っているんだ!」などと言っても噴飯でしかない。
本質はそんなところにはないのだから。

だれもが簡単にいろいろな効果の写真を撮れるようになって、その中から「これはスゴい」という「内容」の写真が出てきてこそホンモノだといえるのでないかい。
そういう人は案外写真の専門家ではなく、技法は知らないけれど「才能」はあるという「一般人」のような気がする。
写真はそうやって今までも「発展」してきたと思うのだ。
コメント
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