Nonsection Radical

撮影と本の空間

オトコのとらえ方、オンナのとらえ方

2012年05月14日 | Weblog
木嶋佳苗という人の裁判がちょいと話題になっていたね。
北原みのりさんの「毒婦」が結構売れているらしい。
もうすぐ佐野眞一さんの本「別海から来た女――木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判」も出る。
オンナとオトコ(それもオッサン)の木嶋佳苗に対する見方が、どのように違うか楽しみだ。
すでに発売されている「毒婦」は、アマゾンの評で見ると、おおむね好評のようである。
というより、新聞テレビ等で報じられる紋切り型の”犯人像”と裁判を通して伝わる木嶋佳苗との違いに、戸惑い、困惑、疑惑、自らの価値観の揺らぎに思わず声をあげたような評である。
しかしこれは北原みのりさんの感じた裁判傍聴記を元にしたもので、これから出る佐野眞一本はまた異なった展開を見せるであろう。
どちらも”偏った”考えの持ち主で、それが事件の本質の”ある”部分を照らし出すことになるのは、両者の本を読み続けている者にはわかっている。
どちらが正しいということではない。
いろいろな立場で色々な見方があるということだ。
ラジオ等で両者の今事件に関する発言などを聴いていると、北原さんはわからないから”理解”しようと試み、佐野さんはわからないから”説明”しようと試みているようだった。
そこにオトコとオンナの間の深くて暗い川が見つかるのではないかと佐野本の発売を待っているのだ。
まあこの事件も、オトコとオンナのモノゴトのとらえ方の違いから発したものであるから、紅白歌合戦のように紅勝て、白勝て、と単純に二分して判断出来るものではないのだけれど、結構単純にオトコ目線で、オンナ目線で語りきってしまう”紳士淑女”が多いことにビックリしてしまうのだが。



米原宿 滋賀県米原市
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オトナの「発達障害」

2012年05月11日 | Weblog
親の愛情の不足が発達障害の原因になる。との観点から、家庭教育への行政からの支援を盛り込んだ大阪市の条例案が、「事実誤認との批判を受け撤回された件」に関し、発達障害とはなんだろう?と思っていると「こんな放送」があった。
もともとの条例案」は、大阪維新の会の市議団が提出予定していたものだけど、読んでみると家庭教育支援条例と言いながら、親の役割、つまり父の役割、母の役割を規定するのだから、当然子育ては母親の役割であるという前提で作られている。
そして骨子は、子供が「昔と違って」おかしい、これは家庭教育が悪いからだ、だから親に教育を施し、「まともな」子供を育てさせなければ「あるべき」日本を背負う人間がそ育たない、てなもんだろう。
その条例案の中に、「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる」というのがあって、これが今回の「騒動」を引き起こしたわけだ。
乳幼児期の「愛着形成」の不足が、今回問題になった発達障害を誘発する大きな要因だから、愛着形成をしっかりすればそれにつながる虐待、非行、不登校、引きこもりなどがなくなるんだ、つまり母親がしっかりと愛情を持ってスキンシップをもたないからそんな社会的迷惑なガキができるんだ、だから、父は外で仕事、母は家で子育て、祖父母と共にしっかり「家」を守っていく事でより良き社会ができるんだというわけだ。
ほとんど「大阪維新の会」というよりも「オトコ威信の会」だね。
まあ、そのオトコ目線の条例案が、何十年前の通説を元にしていたために前提条件がくずれてしまい、「虐待も非行も不登校も引きこもりも」母親の愛情不足の結果だとは言えなくなってしまったわけね。
お前らが(母親たちの事ね)しっかり面倒を見ないから変なガキがうろつくんだ!と、どう考えても子育てに関わっていなさそうな人たちが頭の中でだけ考えた「思い込み」に都合のイイ「説」を持ってきて勇ましい条例を作ろうとしたんだけれど、オトナの「発達障害」が露見しただけだったね。

子どもには「勉強しろ」と言うくせに、オトナは学校を出ると、まったくと言っていいほど勉強しないんだよね。
する事と言ったらテレビを視るぐらい。
そのくせ「テレビばかり視てないで、勉強しなさい」と自己矛盾をはらんだ発言をくりかえすわけだ。
世の中は、当然のように進歩し、新しい思考、発見、発展が繰り返し現れてくるんだけれど、オトナはそんなものからは背を向けているからちっとも「発達」しないんだよね。
だから、昔の古い「説」、それも今では否定されているようなトンデモ話なんかでも平気で持ち出してくる。
となると、今回の条例案自体が、「発達障害」をおこしているオトナの考えたトンデモ思考から出てきたものではないのか?と思えてきても仕方あるまい。

条例案の前文には、戦後の高度成長期以来の核家族化によって、さまざまな不具合が現れてきたので、戦前の「より良き」家族形態に戻すことによって、(戦後の核家族化によって成し遂げた)高度成長を再び成し遂げるんだという、もうメチャクチャ矛盾した思考を元にこれからの社会を展望しているオトナの姿が垣間見えるわけね。
まあ日本社会の作戦として、「二匹目、三匹目のドジョウをねらい続ける(つまり同じことの繰り返し)」というのがあって、柳の下でばかり何度も何度も、たとえドジョウがいなくなってもなお、ドジョウをすくい続けるという「発達障害」が社会の衰退を招いたのだけれど、これも変化していく社会を柔軟に取り入れることができない勉強不足の結果だともいえる。
そういう点では、大阪市だけの問題ではなく、日本人の思考自体がガラパゴス化しているんじゃないの?



神戸 元町3丁目商店街
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事実というなら、どう見られているかも事実だ

2012年05月10日 | Weblog
昨夜ちょっとしたことである動画の存在を知ってつぶやいたんだけど、この動画の内容がどうのこうという事ではない。
海外(この場合はドイツフランス)では、このようにとらえているという事実を知っていた方がイイと思ったのだ。
日本が唯我独尊で存在し、他所の国の意識なんか知った事じゃない、というのなら別にどうでもイイのだけれど、何しろ国策でこの国は”ものづくり大国”で”輸出依存型経済”らしいので、また”観光立国”として存在感を世界に示す政策らしいので、”あちらさん”が日本の振る舞いをどのようにとらえているか知っても損はないというものだ。
”あちらさん”だって日本人がどこに住もうと、何を喰おうと関係ないと思っているはずだ。
ただ、自分たちが手に入れるものがどのようなものであるのか、日本人というのは、日本に滞在する事の意味は、それをどう判断するのか、などの情報として番組を作っているはずだ。
それは一種のファンタジーである場合もあるし、喜劇である場合も悲劇である場合もある。
そういうふうにとらえているんだ、と言えるだけだ。

テレビなどでも、他人にどのように見られているのかを非常に気にする傾向があるのがわかるが、それがある部分では急にどう見られようと構わない、わかってもらえるはずがない、わからなくて結構と、突き放す状況になる事があり、今度の原発事故においても、私たちがイイと思うんだから他所の国にどうこう言われたくないという意識が少しずつ現れてきている。
まあそんなことは開国以来繰り返してきて驚く事でもないのだけれど、その度に痛い目にあって、その度に懲りたと言って、また繰り返す。
それは他人の目を気にし、無視しての繰り返しと同義だ。
震災直後の日本人エライ、日本人規律正しい、日本人放射能に強い、という自我を認める事の海外報道だけ受け入れて、今でも海外ではそう思っている(はず)との意識は多くの人が持っているだろうが、実際は・・・
というのをかいま見た番組であるので、視る必要はあると思うけどね。




有馬温泉 湯本坂を下る
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうも納得がいかんので納豆喰う

2012年05月09日 | Weblog
小沢裁判で検察側が控訴したと言うけど、高裁で勝てると思っているのかね。
ひょっとして裁判長が”いい人で”推測に推測を重ねた”証拠”を好意的にとらえて、推測で有罪にしてくれると期待しているのか。
それとも検察役弁護士のパーフォーマンスか。
あるいは、実は検察役が小沢の”完全無罪”を証明するために、疑惑を呼ぶような文言を判決に盛り込まないようにするためか。

検察と被告弁護側は立場が違うだろう。
検察は有罪を証明しなくてはイケナイが、被告側は無罪を証明する必要はない。
検察が有罪の明らかな証拠を提示出来なければ、裁判は無罪になるのだ、本来は。
で、今回の裁判では、検察役を弁護士がつとめたのだけれど、控訴してもこれ以上新たな証拠は提示出来ない。
だって、公判自体を検察が調べた証拠だけを使って行なった結果、有罪に出来なかったが、さらに実はと新たな検察取り調べの新証拠が出たり、検察側弁護士が新たに調べて証拠を発掘してくる事はないのだから、前回と同じ手の内で争う事になるはず。
だから”事実認定に誤りがある”という裁判官に別のとらえ方をしてもらう戦法しか取れない。
無理でしょ。
というか、裁判官が別の心象で有罪にしたらたまらない内容の裁判だと思うんだけど。

自民党のいつも興奮してオクターブが上がっている感じのする某氏とか、小沢道義的責任を追求する他の先生方も含めて今後期待出来るのは、「単なる記載間違え」とか「秘書が・・・把握していない・・・」とかの”説明”も”いいわけ”も”言い逃れ”も出来なくなるという事だ。
秘書の責任は政治家本人の道義的責任だと他人事のように言った”つけ”が返ってくるのだからね。
また、検察、裁判所も、小沢以外の案件は”微罪”だからとはしないでね。
今度の一連の裁判の量刑を基準に、平等に裁いてもらいたいね。



千日前道具屋筋商店街
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いつの時代の話かと現代に思う

2012年05月08日 | Weblog
ソニーの電子書籍リーダー「Reader」(そのまんまやんか)で、青空文庫を読んでいるんだけど、今読んでいるのは夢野久作の「街頭から見た新東京の裏面」という話。
書かれたのは1924年。
関東大震災の翌年だ。
震災後1年経った東京を描いている話なんだけど、読んでいると「はて?いつの話なの?」と思えてくる。
90年ほど前にも大地震からの「復興」に動き出した日本人(江戸っ子)がいて、現在の状況と似たようなあれやこれやでもめて、すったもんだして、うごめく怪し気な影があってと、そういうのが日本人の体質なのかと思ったりして、話の中でも昔から変わらない体質のように書いてあったりして、なんじゃそりゃと苦笑してしまう。
下手な説明などするよりも、実際に読んで見る事をお薦めする。
変わらない体質というのはイイ事なのか悪い事なのか・・・



京都府八幡市焼野
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする