Nonsection Radical

撮影と本の空間

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2015年11月20日 | Weblog
孫の七五三の祝いをこの連休にするという。
自分のムスメたちには、くだらねぇとしなかったのだけど、ムスメはそれが不満だったらしく、”普通”の人がするようなことをしたいと、自分の子供にはそういう”普通”のことをするらしい。
七五三をはじめ、現在ではどれだけ意味があるのかと思うようなことが漫然と続けられていることになんの疑問も感じないのならそのまま続けることが当然なように、疑問に思ったらどうするか考えるのも当然のことなんだけど。
そんなことを考えるのは変人で、だから情緒がないんだと言われかねないんだけど、何かをやってもやらなくても実はその先何も変わらないことは、長い人生を生きていけばわかることだし、昔のように季節に沿って生きていくというスタイルが当てはまらない時代だから、決まり事のように繰り返される行事から解放されるのも当然ではないのか。
そうは言いつつ、ムスメたちが何かしたいということに反対することもないので、結婚式をしたいといえば”何も考えず”出席するし、七五三をするといえばどうぞと思う。
ただそこに何も感情が伴わないだけなのだ。
孫だから可愛いとも思わないし、自分との関係性で何か感情が湧いてくるということもない。
可愛いと思う子供がいれば、それは孫であってもなくても可愛いと思うということだ。
そうやって生きていくことで、随分と身軽になって、自由に物事が考えられて良かったと思うジジイである。




興津の街並み 8
静岡県静岡市清水区興津本町
撮影 2015年1月2日 金曜日 13時40分
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持ち帰り

2015年11月19日 | Weblog
持ち帰り仕事が終わりません。 orz



相鉄 西谷駅前
神奈川県横浜市保土ケ谷区西谷町
撮影 2014年12月31日 水曜日 11時40分
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図書館の役割

2015年11月18日 | Weblog
どこかの企業が請け負って公共図書館を運営するという話があるけど、いかに”集客”に結びつけるかが公共である役割のひとつになっている。
そして読みたい本があることが図書館の役割として重要視されているんだけど、その読みたい本というのが新刊書のベストセラーだったりして、単に買うのがもったいないから借りるという利用者の要望に応える一方で、そのために他の本の購入が見送られたりする。
要望に答えるという役割とともに、購入した本を長く保存するというのも図書館の役割の一つだと思うのだけど、そちらの方が話題になることはない。
今は手に入らない本が図書館に行けば読める、という役割は、新刊書を揃えるという役割とともに大切なことだと思うのだけど、案外昔の本がないということが多いのだ。
文庫本など本来は長く発売されるものであったのが、最近は廃版になるのが早く、読みたくても読めないことがママある。
そこで図書館に行くのだけど、特に文庫の類は取り揃えが少ないところが多く、古本屋の方が揃っているなんてこともパパある。
そういう話をすると、どこそこの図書館に行けばということを言われるのだけど、図書館というのは近くで利用できるから価値があるのだ。
地元にあってこその公共施設なのである。
読みたい、調べたいという要望に答える仕事として蔵書の保管が大切なのだけど、借りる人が少ない分野とか専門書だからと勝手に判断して蔵書しないということも、要望が多いベストセラーを取り揃える影で行われているのだろう。
リクエストに応えるためにと何冊も買って、流行が終われば同じ本が死蔵されるということが本当に役割なのだろうかと思うんだけど、そういう声は少数なんだろうな。
でも3,40年前ぐらいの本が当然のように蔵書されているというのは当たり前だと思うんだけどなぁ。



広野町の街並み 1
福島県双葉郡広野町下浅見川柳町,下浅見川築地,下北迫苗代替,折返
撮影 2015年9月21日 月曜日 11時25分
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使用不可

2015年11月17日 | Weblog
久しぶりに万年筆を使ってみようと、引き出しをガサゴソ探し、2本見つけた。
カートリッジを取り替えて、しばらく”試し書き”を続けたが、ちっともインクが出てこない。
諦めてキャップをしようとすると、キャップ内部の”留め具”が折れたのか本体が固定できない。
ま、1000円前後で買ったものなので仕方ないかと。
もう一本はコンバーター付きだけど、インク壺がないので使用できず、カートリッジに取り替えようと外しにかかるのだけど、コンバーターが外れない。
無理やり外してカートリッジを刺そうとするが、今度は刺さらない。
結局使えず諦める。
たまに使おうとするからこういうことになるのだ。
といって、簡単なメモ書き程度に万年筆を使うのも不便である。
普段は水性ボールペンでメモ書きなどしているが十分だ。
でも欲しいんだよね安物の万年筆が。




慈恩寺町通り 1
滋賀県近江八幡市八幡町,慈恩寺町上,慈恩寺町中
撮影 2015年3月21日 土曜日 13時30分
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シンプルが美しい

2015年11月16日 | Weblog
もうさぁデジタルの時代になって、写真のレンズも複雑な構成になってしまい、あんまり”魅力”を感じないんだよなぁ。
そりゃあ性能的にはグンバツの進化なんだろうけど、いやいやそこまで突き詰めなくてもと思ったりもするんだな。
たとえばフィルム時代の大判レンズなんか、すごいシンプルな構成で、だから美しく、魅力的に思えるんだよな。
もしお金が有り余るほどあって、どうしてもまとまった札束を処分しなければ暮らしていけないなんてことになったら、コレクションとして大判レンズを買い集めたいと思っているほど。
ショーケースに飾って、大判焼きを食べながら眺めるなんて大盤振る舞いしてみたいものだな。
まあレンズだけでなく、いろいろなものもシンプルなものに魅力を感じるんだけど、シンプルなものって結構高価だったりするんだな。
100均なんかには意外とシンプルなものってないんだよ。
シンプルって難しいんだと思う。
なんの話をしていたんだっけ?
そうそうレンズの話だった。
ふとシンプルな大判レンズのことを思っていたら、大判カメラで写真を撮りたいなぁと思ったのです。
思うだけで撮らないんだけど、シンプルな構造のカメラにシンプルな構成のレンズをつけて、シンプルな写真を撮るということをもっとみんながしてもいいと思うんだよな。
デジカメで撮って、モニターで”確認”して終わりという行為とは異なるもっと楽しめる世界があるような気がするんだけどね。
気がするだけで撮らないんだけどさ。
でも今大判カメラで撮影するというのが難しい時代だと思うんだよ。
デジタルで撮れるのならデジタルでいいんだからさ。
デジタルでは撮ろうと思わないものを撮るしかないんだと思う。
それが何かわからないから撮らないんだけどね。
複雑な話になりそうだけど、もっとシンプルに考えて、あるいは考えずにカメラを持ち出して撮ればいいんだよな、きっと。



興津の街並み 7
静岡県静岡市清水区興津清見寺町,興津本町
撮影 2015年1月2日 金曜日 13時35分
コメント (2)
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