もう、覚えている人もいないかもしれませんが…
3年前のこの時期、このブログのある記事が「炎上」しました。
「厚生労働省・内閣府の虐待防止のポスターに異議あり!!!!!」
という記事でした。
(もう、炎上は二度と経験したくないな…(;;)…)
…
今年も、「児童虐待防止推進月間」ということもあり、ポスターが貼られています。
あちこちに…、
至るところに…。
書いてある内容は、実に3年前とほぼ一緒です…。
ビックリするくらいに、ほぼ全文が一緒です。
この3年間、何も変わっていない…。
zoom upしてみましょう。
3年前のは、、、
今回、強調されているのは、
「虐待かもと思ったらすぐにお電話ください」
という言葉でした。
「189(いちはやく)」が整備されて、より通報が簡単になりました。
そして、その下に、小さな文字で「相談窓口」の情報が無機質に並んでいます。
まず、これを見て、相談をしようという「親」はいないでしょうし、また、そういう期待も(制作者側)は考えていないのでしょう。あくまでも、「通報してね」という呼びかけ以外のなのものでもない。
本質は、3年前と何も変わっていないようです。
変わったのは、「母子健康包括支援センター」が新たに加わった程度でしょうか。
スマホ時代にあって、QRコードも出てない、という…。
これじゃ、「相談させる気なし」と捉えられても文句は言えません。
***
そもそも、「お電話ください」と呼びかけている相手が、親ではありません。
その近隣住民たちに呼びかけています。
地域的なつながりの薄い社会(都市部)において、「通報」は、誰にとっても嫌なものです。
虐待かどうかも分からないし、通報がばれないとも限らない。
それが「誤報」だったとしたら、その後どうなってしまうのか…
…
とはいえ、他人の家庭に土足で踏み込むわけにはいきません(何されるか分からない恐怖もあります)。
となれば、関係の薄い近隣住民の「通報」に頼りたくなる「行政側」の都合もよく分かります。
虐待する当の親が名乗り出ることはまずありませんし、相談にも来ません。
…
でも、「通報」という「取り締まり」の強化で、問題が解決するわけではありません。
189の設置で、虐待は抑止されるどころか、数値的には増えています。
(その中には、ひょっとしたら「誤報」による「不当保護」も含まれているかもしれません)
本気で「虐待防止」や「虐待予防」を考えるのであれば、「虐待する親」あるいは「虐待のおそれのある親」に届く掲示をもっと出すべきであろうし、そういう親たちが不安なく相談できる環境をつくることがまず求められるはずです。
それこそが、本来の「虐待防止」の目的ではないでしょうか。
児童相談所の「敷居の高さ」の改善は、今のところまだまだ十分とはいえません。
児童相談所の敷居が高ければ、支援を必要とする親たちはまずそこに現れることはないでしょう。
前回の「炎上記事」で、たくさんの人から「虐待する親を擁護するとは何事だ!?」というご指摘をいっぱいもらいました。もちろん、「虐待する親」が正しいことをしているとは思いません。
けれど、「してしまうこと」を、「やめろ」と言われて、「はい、そうですか」と簡単にやめられるものでもないんです。「やめろ」と言われてやめられるなら、「児童虐待」はすぐになくなるでしょう。もちろん「DV」だって、「家庭内暴力」だって、何だって…
我が子を殴る・蹴る・投げ飛ばす、我が子を言葉で罵倒する、我が子を「いない人間」としてネグレクトする、我が子のバイト代を全部巻き上げる、我が子を「異性」として見て性暴力を秘密裡に加える…
どれをとっても、人道主義(ヒューマニズム)的良心からすれば、とうてい受け入れられるものではありません。無力でか弱き幼子たちを全力で守るのが「大人の責任」なのであって、「いのちの危険」に晒す「大人」は、「親」以前に「人間としての責任」あるいは「生物(哺乳類)としての責任」を放棄しているとも言えるかもしれません。
けれど、「大人」とはいえ、すべての成人が成熟した大人になるわけではありません。大人になれば、それこそ多種多様。いろんな人がでてきます。それまでの成育歴も関係しているでしょうし、成長の過程において人格が歪むこともあるでしょう。殺人事件は毎日のように起きています。自ら死を選ぶほどに「絶望」している人もいます。堕落し、どん底に突き落とされる人もいれば、追い詰められた先で自暴自棄になり、無差別テロを起こす人もいます。その背後には、「貧困」の問題があったり、「歪んだ性癖」の問題があったり、「どす黒い過去の記憶」があったりします。
こうしたことを考えると、「行政機関」への「通報」で事が片付くわけはなくて、また、そういう人たちでも不安なく来られるような相談所づくりが行われているわけでもなく、また実際に支援にあたる人や窓口対応する人たちの「教育」が徹底されているわけでもありません。事実、相談所に電話をしても、そこでのやり取りは、極めて「お役所仕事的」で「事務的」で「行政対応そのまんま」であります。(先日もとある件で相談所に電話をしましたが、まさにそんな感じでした)。
「虐待当事者」に届くメッセージをどうやって伝えるか。
「虐待当事者」が安心して受けられる支援とは何か。
「虐待当事者」の最善の利益にかなう支援とはどのようなもので、誰がそれを担うのか。
虐待する人は、ある意味、「殺人者の一歩手前」にいます。いつ、我が子を殺してしまうかも分かりません。全部、紙一重です。とはいえ、そのことを「自覚」している人は、それほど多くないように思います。
実際に殺さなかったとしても、子どもの「魂の殺人」の行為に等しいんですよ、と。
この3年、ポスター問題については色々と考えてきました。やはり、まずは「当事者」に呼びかけるポスターこそが大事なんだろう、と思います。この上のポスターは、今、全国的に掲示されていると思います。それと同規模のエリアで、「当事者」への呼びかけを行えば、どれほどのメッセージになるでしょうか。
それと同時に、多様な相談機関の創設がやはり強く求められていると思います。児童相談所では敷居が高すぎるんです。もっと敷居の低い相談所を、と。虐待に限らず、「出産」「子育て」には、人には相談できない事柄がいっぱいあります。そういう事柄は、「行政支援サービス」にはどうしてもなじまないものです。
だから、敷居の低い民間の相談機関の充実がまずもって求められるんです。
それに、最も深刻なのは、「通報」を受けた児童相談所は、決められた制度内の手続きによって、「粛々」と措置を行います。通報された側は、今そこで何が起こっているのかを知ることもほぼできません。「虐待かどうか」の境界線は曖昧さもあって、なかなか綺麗に線引きもできません。でも、それでも、「行政手続き」として、粛々と展開していきます。もしかしたら、(ギリギリ)虐待していないにも関わらず、「虐待」と認定されて、そのまま子どもが「児童養護施設」に措置、ということもあり得るかもしれません。事実、その問題を指摘する声は、かなり上がっています。
→児童相談所に子供を連れ去られた母親の心の叫びを聞いてください!
でも、「行政手続き」というのは、そういうものなんです。定められた規定に従って粛々と行うんです。それしかできないんです。だから、児童相談所をただ批判するだけでも不十分なんです。
虐待する親(と子)と児童相談所の「あいだ」を仲介する支援サービスが必要なんです。僕は、それを「中間支援」と言っていますが、個々の親子(あるいは妊婦)と行政サービスの間に立って、親子の側に立ちながら、行政と向き合う人の存在が欠かせないんです。ドイツの支援の本質もここにありました。
通報する方としても、いきなり「児童相談所」だときつすぎるんです。もちろんその(児童相談所の)内情が分からなくて、通報してしまうケースもあるでしょう。けれど、ある程度、社会経験を積んだ人であれば、児童相談所がどんな行政機関なのか、なんとなく分かると思います。
とすれば、やはり、「通報はちょっと…」とためらうんじゃないでしょうか。
…
まだまだ、考えなければいけないことがいっぱいありますが、今日はこの辺で…。
児童虐待問題は、決して「表」には出てきません。
でも、実際に「親の暴力」や「ネグレクト」に苦しむ子どもは本当に多いです。
子ども期だけじゃなくて、その後も苦しみ続けている「大人」もたくさんいます。
このポスター問題から、もっともっと多くの人がこの問題に関心をもってほしいなぁ、と切に願います。
…まずは、文章をもっと考えてほしいものです。(3年前と変わっていないんだもの…)