偽りの霊性ほど、見分け難いものも、ないかもしれない。
偽の聖者というか…。
自分でそれに、成り済ましている自覚がある場合は、
詐欺師みたいなものだから、分かりやすくていいのだが、
自分は霊性が高くて、世界や人類のために尽くしていると思い込んでいる場合などは、
とてもやっかいだ。
自分では良いことをしているつもりだから、人にも薦めるし、
迷うことなく断言するから、カリスマ性も発揮する。
優柔不断な人や、自分に自信がない人が、それに簡単に惹きつけられてしまうのも道理だ。
頭のどこかで、(またはハートが、)何かの不協和音を訴えても、
自分の修行が足りないせいだなどと思い、直感を退けて従ったりしてしまう。
私の思う、偽聖者の特徴の1つに、
<耳障りのいい美辞麗句を口にしながら、実際の行動がそれに伴っていない>というものがある。
たとえば、世界平和をうたっていながら、家族や隣人とは折り合いが悪かったり、
街の清掃活動には参加しても、自宅の手伝いや掃除はしなかったりなどなど。
そういえば、昔、あるワークショップに参加した時のこと。
全員で輪になって瞑想していた途中で、ふと目を開けてしまった私。
目の前の床の間に(会場は和室だった)、その会の中心人物が坐っているのが見えてしまった。
いつの間に、輪から抜けたのか、
何故そんなところにいるのかも分からなかったけど、
何だかとても、嫌な感じがした。
すべての人の【同等】を説きながら、自分だけ、一段高い【床の間】に坐っているとは、どういうことだろう…?
そもそも床の間は、【ご先祖が坐られる場所】と聞く、言わずと知れた、上座である。
一体どういうツモリ…?!
またその人は、【自由意志の尊重】を唱えながら、
実際には、
自分の勧めに反する、意志選択をする人に対しては、
グループの他の人達に、
それが霊性の低さ故の、愚かな選択のように印象付ける言動を、繰り返した。
今まで、そんな人をたくさん見て来た。
何かが、おかしい…。
ある時には、
「私はもう、一般庶民は相手にしないわ!
一般人に何したって、大して世界が変わるわけじゃないし、
そんなの時間の無駄よ。
これからは世界に影響を与える、ビップな人達の個人セッションしか、しないことにするわ!」
と公言したおばちゃんにも、遭遇した。
そのチャネラーは、30分30000円のセッション代をとりながら、
最後まで、チャネリングをせず、ただ、世間話だけして私のセッションを終えた。
当時の私は、チャネリングに対する期待が大きかっただけに、もの凄く落胆。
動きもノロノロと、帰り支度をしていたために、
そのおばちゃんがセッション後、スタッフとしていた内輪話を耳にするはめになり、
2重のショックを受けたのだった。
さんざんな体験だったが、その会場でセッション前に、
その人が、数年前に出した本を買ってしまっていたので、
家に帰ってから一応読んでみたが、
それには最もらしいことが書いてあり、
まさか、あんなことを口にする人のものとは思えなかった。
然るに、これは私の推測だが、
誰もが最初は、高い志や、真摯な愛や光を求めてこの道に入り、
霊性の向上?を求めて歩んでいくのだけれど、
進んでいくうち、その道には巧妙な落とし穴や分かれ道がたくさん出てきて、
悪気なく、それにハマってしまうことが多いのではないか…。
問題なのは、進んでいるつもりが、実は逆行していることに、中々自分では気づけないことだ。
そんなのを見かけるたびに、私の心は悲しくなった。
(何故あの人が?何故あの人も?!その道を選ぶのか…。)
(ああ、あの人も、そっちに行ってしまうのか…。)
それも、私の驕りだったのかもしれないが、
そんな風にして、何人かの、大切だった人を見送った。
体験しなければ、分からないこともある。
たとえ私には、その道が闇へと続くものに見えても、
その人にとっては、それがマチガイではないのだろう。
いったん縁が切れてしまっても、魂は永遠だから、
またいつか、一緒になることもあるだろうし…。
その時はきっと笑い合うんだよね、
あの時は怖いもの見たさで、あなた、あっちの方へ行ったよね…なんてね。
だいたいこの私だって、今だって、どんなものだか知れたもんではない。
(知らぬ間に、怪しい方向へ行っていたらどうしよう!・)というのが、
私が、常に、最も恐れていることかもしれない。
だって本当に自分では、道がそれているって分かりずらいのよ~。
でもそれをやってしまうと、後々大変なのよ~。
先週の常陸行きも、私としては反省しているところもある。
私は、氏神さまに言われて彼の地に出かけた。
神さまに言われると、なかなか断りづらいこともあり、
結局、私でお役に立つならと承知するのが常なのだが、
それが、私の魂の道なのかというと、疑問が残る。
私は神も人も、虫も木も、すべてのものが基本、【同等】だと思っている。
だから、本来はどんな高貴な神からの依頼であっても、
自分の魂が望まないことは、しなくてよいはずだ。
そして、魂が望んでいるかどうかは、感覚である程度わかる。
心が弾んでいるか?楽しいか、【理由なき絶対】=【選択の余地がない】 の感覚があるか?などなど。
それが現実には、断ると体の具合が悪くなるからとか、
よくない事が起こるかも?などの恐れから、従っている部分もあったりする。
(実際そういうこともあったし。)
真の部分では如何に同等とはいえ、人間と神では、持っているパワーが違うので、
太刀打ちできない事実?もあるわけなのだ。
誰でもだけど、魂に背く行為をすると、魂が磨り減る。(←と私は思う。)
生命力が弱る?ので疲れる。不満ばかりが残る。無気力になったりもする。
愛からでない行為は、たとえ見た目には良い行いだったとしても、
本当には、どれほどのものなのだろう…。
自然に無理なくできることでなければ、それは【偽善】に属し、
ひいては自らの霊性?を貶めることになるのではないか…。
などなど、
自分で気づかぬうちに、私にとっての間違った方向へ行っていたのではないかと
考えてしまった。
と、ここまできて突然、今日書いたことがどうでもイイことに思えてきた。
いつものコトながら、全くいい加減な私。
朝から雨だから、気分が鬱なだけだったかも。すみませんね。
偽の聖者というか…。
自分でそれに、成り済ましている自覚がある場合は、
詐欺師みたいなものだから、分かりやすくていいのだが、
自分は霊性が高くて、世界や人類のために尽くしていると思い込んでいる場合などは、
とてもやっかいだ。
自分では良いことをしているつもりだから、人にも薦めるし、
迷うことなく断言するから、カリスマ性も発揮する。
優柔不断な人や、自分に自信がない人が、それに簡単に惹きつけられてしまうのも道理だ。
頭のどこかで、(またはハートが、)何かの不協和音を訴えても、
自分の修行が足りないせいだなどと思い、直感を退けて従ったりしてしまう。
私の思う、偽聖者の特徴の1つに、
<耳障りのいい美辞麗句を口にしながら、実際の行動がそれに伴っていない>というものがある。
たとえば、世界平和をうたっていながら、家族や隣人とは折り合いが悪かったり、
街の清掃活動には参加しても、自宅の手伝いや掃除はしなかったりなどなど。
そういえば、昔、あるワークショップに参加した時のこと。
全員で輪になって瞑想していた途中で、ふと目を開けてしまった私。
目の前の床の間に(会場は和室だった)、その会の中心人物が坐っているのが見えてしまった。
いつの間に、輪から抜けたのか、
何故そんなところにいるのかも分からなかったけど、
何だかとても、嫌な感じがした。
すべての人の【同等】を説きながら、自分だけ、一段高い【床の間】に坐っているとは、どういうことだろう…?
そもそも床の間は、【ご先祖が坐られる場所】と聞く、言わずと知れた、上座である。
一体どういうツモリ…?!
またその人は、【自由意志の尊重】を唱えながら、
実際には、
自分の勧めに反する、意志選択をする人に対しては、
グループの他の人達に、
それが霊性の低さ故の、愚かな選択のように印象付ける言動を、繰り返した。
今まで、そんな人をたくさん見て来た。
何かが、おかしい…。
ある時には、
「私はもう、一般庶民は相手にしないわ!
一般人に何したって、大して世界が変わるわけじゃないし、
そんなの時間の無駄よ。
これからは世界に影響を与える、ビップな人達の個人セッションしか、しないことにするわ!」
と公言したおばちゃんにも、遭遇した。
そのチャネラーは、30分30000円のセッション代をとりながら、
最後まで、チャネリングをせず、ただ、世間話だけして私のセッションを終えた。
当時の私は、チャネリングに対する期待が大きかっただけに、もの凄く落胆。
動きもノロノロと、帰り支度をしていたために、
そのおばちゃんがセッション後、スタッフとしていた内輪話を耳にするはめになり、
2重のショックを受けたのだった。
さんざんな体験だったが、その会場でセッション前に、
その人が、数年前に出した本を買ってしまっていたので、
家に帰ってから一応読んでみたが、
それには最もらしいことが書いてあり、
まさか、あんなことを口にする人のものとは思えなかった。
然るに、これは私の推測だが、
誰もが最初は、高い志や、真摯な愛や光を求めてこの道に入り、
霊性の向上?を求めて歩んでいくのだけれど、
進んでいくうち、その道には巧妙な落とし穴や分かれ道がたくさん出てきて、
悪気なく、それにハマってしまうことが多いのではないか…。
問題なのは、進んでいるつもりが、実は逆行していることに、中々自分では気づけないことだ。
そんなのを見かけるたびに、私の心は悲しくなった。
(何故あの人が?何故あの人も?!その道を選ぶのか…。)
(ああ、あの人も、そっちに行ってしまうのか…。)
それも、私の驕りだったのかもしれないが、
そんな風にして、何人かの、大切だった人を見送った。
体験しなければ、分からないこともある。
たとえ私には、その道が闇へと続くものに見えても、
その人にとっては、それがマチガイではないのだろう。
いったん縁が切れてしまっても、魂は永遠だから、
またいつか、一緒になることもあるだろうし…。
その時はきっと笑い合うんだよね、
あの時は怖いもの見たさで、あなた、あっちの方へ行ったよね…なんてね。
だいたいこの私だって、今だって、どんなものだか知れたもんではない。
(知らぬ間に、怪しい方向へ行っていたらどうしよう!・)というのが、
私が、常に、最も恐れていることかもしれない。
だって本当に自分では、道がそれているって分かりずらいのよ~。
でもそれをやってしまうと、後々大変なのよ~。
先週の常陸行きも、私としては反省しているところもある。
私は、氏神さまに言われて彼の地に出かけた。
神さまに言われると、なかなか断りづらいこともあり、
結局、私でお役に立つならと承知するのが常なのだが、
それが、私の魂の道なのかというと、疑問が残る。
私は神も人も、虫も木も、すべてのものが基本、【同等】だと思っている。
だから、本来はどんな高貴な神からの依頼であっても、
自分の魂が望まないことは、しなくてよいはずだ。
そして、魂が望んでいるかどうかは、感覚である程度わかる。
心が弾んでいるか?楽しいか、【理由なき絶対】=【選択の余地がない】 の感覚があるか?などなど。
それが現実には、断ると体の具合が悪くなるからとか、
よくない事が起こるかも?などの恐れから、従っている部分もあったりする。
(実際そういうこともあったし。)
真の部分では如何に同等とはいえ、人間と神では、持っているパワーが違うので、
太刀打ちできない事実?もあるわけなのだ。
誰でもだけど、魂に背く行為をすると、魂が磨り減る。(←と私は思う。)
生命力が弱る?ので疲れる。不満ばかりが残る。無気力になったりもする。
愛からでない行為は、たとえ見た目には良い行いだったとしても、
本当には、どれほどのものなのだろう…。
自然に無理なくできることでなければ、それは【偽善】に属し、
ひいては自らの霊性?を貶めることになるのではないか…。
などなど、
自分で気づかぬうちに、私にとっての間違った方向へ行っていたのではないかと
考えてしまった。
と、ここまできて突然、今日書いたことがどうでもイイことに思えてきた。
いつものコトながら、全くいい加減な私。
朝から雨だから、気分が鬱なだけだったかも。すみませんね。