私は劇団芝居屋で主宰・作・演出・出演の四役を受持っています。
この日記で書く芝居屋的演技論は主宰の立場で、稽古場報告は出演者の立場で書いてきました。
この演出ノートでは演出の本音という場所で発信したと思います。
先に私は劇団芝居屋の芝居を役者の為の芝居であると述べました。
その様な芝居創りをする為に、私は劇団芝居屋の芝居創りの目標を「覗かれる人生芝居」という言葉で標榜しています。
「覗かれる」という一見受身の印象のこの言葉に、本来役者が役を作り出す為にしなければならない全ての事が込められていると思ったからです。
私を見てくださいという自らを客に発信する芝居は沢山あります。
私はそれを否定するものではありません。
それこそ、どんな種類の芝居でもそれなりの存在意義があり、必要とされているのだろうと思います。
しかし、それらの芝居でも役者に対する要求の大半は作品に奉仕する事だと思うのです。
さて、そういう作品の中で育ってきた役者は、「覗かれる」側にたった時、観客の意地悪な視線に対してどの様に立てるでしょう。
役割として自分が理解し解釈した部分以外はどの様にいていいのか苦しむはずです。
「覗かれる」という事は、舞台に存在するその時間をどの様な角度から観られてもその人として存在していなければ覗く側の人を説得する事はできません。
私の芝居創りの根本は「観客は優しくない」という認識です。
言い換えれば私を納得させるのは簡単な事ではないぞ、という事です。
とにかく演出する私は一番厳しい客なのですから。
次からはこの稽古を通じた私の役者に対する感情的な部分を上梓したいと思っています。
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