平成31年3月17日に緒川総合文化センターにて開催された常陸大宮市文書館 「第9回文書館カレッジ」での公開セミナーの内容を紹介します。 講師 国立大学法人筑波技術職員 中根正人氏
佐竹氏と「南方三十三館」の仕置
⑤その後の「南方三十三館」〔中根 2016A]
・佐竹氏の統治に際し、地元の情勢に明るい「南方三十三館」の被官層が関わる。
→鹿島氏被官木滝氏、小神野氏、額賀氏、畑田氏被官井川氏、玉造氏被官大場氏など。
・統治基盤を完全に崩壊させられた「南方三十三館」
→中世を通じて常陸平氏が中心となって行わってきた、鹿島社の一大行事である七月大祭が断絶(『鹿島長暦』)。
・没落した勢力のその後・・・多くはその血筋を後世に繋ぐ。
・鹿島氏・・・清秀の甥である胤光(下総矢作城主国分胤政と清秀の姉妹の間の子)が家督を継ぎ、鹿島社の惣大行事職(南北朝期以来、平姓鹿島氏が継いできた職掌) も継承。
・芹澤氏・・・佐竹氏と親しかった(芹沢文書)ことから、謀殺を免れるが、一時 澤を離れ下野喜連川へ。その後宍戸藩秋田氏に仕えた後、徳川家康の扶持を受けて故郷へ戻り、水戸藩に仕える一方、家伝の医療を伝える。 ・
・鳥名木氏・・・天正年間の動きは不明。関ヶ原合戦後、麻生藩に入った新庄氏に仕官(鳥名木文書)。
・畑田氏・・・通幹兄弟の死により一時断絶。旧臣の尽力により、鹿島氏旧臣木滝氏の子が名跡を継ぐ「今泉 2000]。
→旧臣たちもかつての主家との関係を重視。
・佐竹氏の鹿島・行方攻め・・・・「南方三十三館」の当主を謀殺し、その統治基盤は潰し
たものの、その血筋を根絶させるまでの行動はほとんど取っていない。
→鹿島・行方は中世を通じて「南方三十三館」の勢力下に在ったことから、族滅させる
ことによる在地の反発を恐れた可能性。
→結果として、彼らの多くは地元で存続し、その血筋と歴史を後世に繋ぐ
おわりに
・「南方三十三館」謀殺事件とは何であったのか?
⇒佐竹氏が豊臣政権に与えられた所領を名実共に自分のものとすると共に、統治体制を確立する画期となった事件。
・領内統一後の佐竹氏の体制
→居城を太田から江戸氏の居城であった水戸に移す。
従来の一族(北・東・南の三家)中心の体制から、譜代・直臣層中心の新体制へ移 行しての分国支配を開始佐々木2011]。
・「南方三十三館」の諸氏 、 .
→所領などは失うが、多くの家が血筋を残し、両郡各地に残る。
佐竹氏移封後、水戸に入った武田信吉(家康五男)、徳川頼宣(同十男、後の初代紀州藩主)の統治を経て徳川頼房(同十一男)以後水戸藩の治世下に両郡の多くが入る
⇒体制が安定する中で、旧主を懐かしむと共に自らの先祖の活躍を後世に伝えるため に、「南方三十三館」に関するたくさんの伝承が生まれ、伝えられた。
【参考文献】
茨城県立歴史館編『戦国大名常陸佐竹氏』(同館、2005)
今泉徹「戦国期鉾田の諸相」(『鉾田町史通史編上巻』第二編第四章、2000)
江原忠昭「鹿島行方三十三館の仕置」(『常陸太田市史余録』5、1979)
黒田基樹『戦国大名 政策・統治・戦争』(平凡社新書、2014)
黒田基樹『関東戦国史 北条 VS上杉 55年戦争の真実』(角川ソフィア文庫、2017、初刊 は洋泉社、2011)
佐々木倫朗「「額田小野崎文書」」(『十王町の歴史と民俗』13、2004) –
佐々木倫朗『戦国期権力佐竹氏の研究』(思文閣出版、2011)
佐々木倫朗「書評『茨城県立歴史館史料叢書 15 常陸編年』」(『茨城県史研究』9
佐々木倫朗・今泉徹「『佐竹之書札之次第・佐竹書札私』(秋田県公文書館蔵)」(『日本史学集録』24、2001.5)
柴辻俊六「常陸武田氏についての検討」(『甲斐』 145、2018)
高橋修編『佐竹一族の中世』(高志書院、2017)
高橋裕文「戦国期の額田小野崎氏と額田城合戦」(『常総の歴史』45、2012)
野内正美「佐竹氏支配の進展と那珂地方」(『那珂町史』中世編第二章、1990)
峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の三十年戦争』(講談社選書メチエ、2017)
大石泰史編『全国国衆ガイド』(中根正人執筆分、星海社新書、2015)
山田邦明編『関東戦国全史』(中根正人執筆分、洋泉社新書、2018)
中根正人「戦国期常陸大掾氏の位置づけ」(高橋修編著『常陸平氏』 戎光祥出2015、 初出 2013)
☆中根正人「「南方三十三館」謀殺事件考」(『常総中世史研究』4、2016A)
中根正人「古河公方御連枝足利基頼の動向」(佐藤博信編『中世東国の政治と経済』岩 田書院、2016B)
☆『常陽藝文』平成 29 年6月号「特集 四百年後の源平戦一佐竹氏常陸国統一の光と影」(常陽藝文センター、2017)
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