浜松に出張したとき、浜松に、柳宗悦の民芸運動の流れを組む民芸美術館があったという話を聞いた。産業はあるが文化がない文化コンプレックスの浜松にとっては貴重な話だ。
私は、民芸運動は「日用の美」を説き、伝統工芸を全国各地で継承する運動で、思想的に奥深いものぐらいの知識しかなかった。ただ、武者小路実篤の美しい村づくりなどと同様に、都市化や近代化に歯止めをかける運動の先駆けというイメージがあり、一度調べてみたいと思っていた。
取り寄せた文献には、民芸運動はウイリアムモーリスの工芸運動の影響を受けていると書いてある。ウイリアムモーリスといえば、イギリスの家具屋さんと思いきや、彼のユートピア論には、日常の労働を尊ぶ知識人の姿が描かれていて、私自身が影響を受けた覚えがある。
モーリスは、ロンドン周辺の田舎町で1834年に生まれた富裕な銅山家の息子だったという。オックスフォード大学を卒業した彼は、「生産の視座から規模と速度の経済を涵養した近代産業革命に対峙し、生活の視座で範囲と風格の経済を涵養することで、工芸の革新、工芸の美術を志向した起業運動」を起こした。
モーリスは、クラフトマンデザイナーとしての地位を確立しただけでなく、商才もあり、イギリスや世界各地に影響を与えた。丁度、イギリスからドイツに工業生産輸出第一位の地位が移るころで、モーリスの思想はイギリスの美術工芸に存在意義を与えたらしい。
柳宗悦(1889~1961)の民芸運動は、モーリスの工芸運動が起業論であるのに対し、既存産地の革新を理論化するものであった。2つの運動は類似性はあるが、異質性もあると指摘されている。ただ、民芸美術館を設置したり、出版による広報を重視する点で、柳の手法はモーリスを踏襲しているらしい
日本民芸協会が設立され、柳宋悦は会長に就任、全国各地に普及活動を行った。同協会の地方支部は、昭和20年代までは岡山、広島、愛媛、京都や青森、秋田、東北等に設置された。その後、昭和30年代に島根、愛知、金沢、飛騨地域等にも協会が設置されてきた。浜松には、遠州民芸協会が平成以降に設置された。
ようやく浜松の話となった。ここからは、浜松市美術館の資料を引用する。浜松の民芸運動は、柳らの影響を受けた平松寛によるところが大きい。平松は、昭和の初期に植物染料と手織りの研究をはじめ、独自の染織を創始している。往時の浜松は、江戸中期以降、三河地域とともに、綿の産地であり、明治維新以降は機械織の工場が設けられた。遠州木綿といわれる織物業は、このころ盛んであった。平松家も織物業であった。
日本民芸美術館は一時期、浜松にあった。日本民芸美術館は昭和3年に上野で開館したが、その後、大阪に移され、昭和20年に空襲のために消失している。一方、昭和6年には、民芸品を常設展示する民芸美術館が浜松に開設された。これは、高林兵衛邸の一部が展示会場とされた。この美術館は2年間で閉じられている。理由は諸般の事情とか。
民芸運動が、モーリスや浜松がつながるとは思わなかった。産業都市の特性が強く、美術や文化にコンプレックスを持つイメージのある浜松だが、遠州木綿という民芸の地でもある。繊維工業は、産業革命の申し子である。その機械技術が自動車産業等へと発展してきた。繊維産業→民芸運動と繊維産業→自動車産業という2系統の発展の歴史は、相反するが、根を同じにする。
近代化により発展してきた浜松が、近代化に対峙する思想とつながっていることを大事にしたい。
参考文献:
宮川康夫「農美運動と民芸運動 ~風土文化の深化と産業地域の革新~」比較社会文化第11巻(2005)25~50頁
「平松寛 ~浜松の民芸運動」浜松市美術館、1989年
私は、民芸運動は「日用の美」を説き、伝統工芸を全国各地で継承する運動で、思想的に奥深いものぐらいの知識しかなかった。ただ、武者小路実篤の美しい村づくりなどと同様に、都市化や近代化に歯止めをかける運動の先駆けというイメージがあり、一度調べてみたいと思っていた。
取り寄せた文献には、民芸運動はウイリアムモーリスの工芸運動の影響を受けていると書いてある。ウイリアムモーリスといえば、イギリスの家具屋さんと思いきや、彼のユートピア論には、日常の労働を尊ぶ知識人の姿が描かれていて、私自身が影響を受けた覚えがある。
モーリスは、ロンドン周辺の田舎町で1834年に生まれた富裕な銅山家の息子だったという。オックスフォード大学を卒業した彼は、「生産の視座から規模と速度の経済を涵養した近代産業革命に対峙し、生活の視座で範囲と風格の経済を涵養することで、工芸の革新、工芸の美術を志向した起業運動」を起こした。
モーリスは、クラフトマンデザイナーとしての地位を確立しただけでなく、商才もあり、イギリスや世界各地に影響を与えた。丁度、イギリスからドイツに工業生産輸出第一位の地位が移るころで、モーリスの思想はイギリスの美術工芸に存在意義を与えたらしい。
柳宗悦(1889~1961)の民芸運動は、モーリスの工芸運動が起業論であるのに対し、既存産地の革新を理論化するものであった。2つの運動は類似性はあるが、異質性もあると指摘されている。ただ、民芸美術館を設置したり、出版による広報を重視する点で、柳の手法はモーリスを踏襲しているらしい
日本民芸協会が設立され、柳宋悦は会長に就任、全国各地に普及活動を行った。同協会の地方支部は、昭和20年代までは岡山、広島、愛媛、京都や青森、秋田、東北等に設置された。その後、昭和30年代に島根、愛知、金沢、飛騨地域等にも協会が設置されてきた。浜松には、遠州民芸協会が平成以降に設置された。
ようやく浜松の話となった。ここからは、浜松市美術館の資料を引用する。浜松の民芸運動は、柳らの影響を受けた平松寛によるところが大きい。平松は、昭和の初期に植物染料と手織りの研究をはじめ、独自の染織を創始している。往時の浜松は、江戸中期以降、三河地域とともに、綿の産地であり、明治維新以降は機械織の工場が設けられた。遠州木綿といわれる織物業は、このころ盛んであった。平松家も織物業であった。
日本民芸美術館は一時期、浜松にあった。日本民芸美術館は昭和3年に上野で開館したが、その後、大阪に移され、昭和20年に空襲のために消失している。一方、昭和6年には、民芸品を常設展示する民芸美術館が浜松に開設された。これは、高林兵衛邸の一部が展示会場とされた。この美術館は2年間で閉じられている。理由は諸般の事情とか。
民芸運動が、モーリスや浜松がつながるとは思わなかった。産業都市の特性が強く、美術や文化にコンプレックスを持つイメージのある浜松だが、遠州木綿という民芸の地でもある。繊維工業は、産業革命の申し子である。その機械技術が自動車産業等へと発展してきた。繊維産業→民芸運動と繊維産業→自動車産業という2系統の発展の歴史は、相反するが、根を同じにする。
近代化により発展してきた浜松が、近代化に対峙する思想とつながっていることを大事にしたい。
参考文献:
宮川康夫「農美運動と民芸運動 ~風土文化の深化と産業地域の革新~」比較社会文化第11巻(2005)25~50頁
「平松寛 ~浜松の民芸運動」浜松市美術館、1989年