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6号線沿いでは、大きなトラックが数台、今も流され壊れてしまった家屋の廃材を分別し、運んでいる。太平洋側に最も近づいたところで、Y秘書は車を道路脇に停車し、車両から降りられた。わたしもカメラを抱え、津波で飲み込まれた場所に、初めて立った。
ニュースで想像していたのは、現地に行けばおそらく、亡き人々の想いや魂に触れ、重たい気持ちになるだろうと思い込んでいた。大勢の人が一度に亡くなられた場所、過去には阪神大震災で焼けた兵庫県神戸市長田区にも行ったが、あの時に感じたような重々しさが、ここには一切なかった。ただただ、360度、道路と海と山以外、何もない。
この広がる荒野とも言える土地を見渡し、そのあまりの広さに正直、ショックを隠しきれなかった。言葉に語弊があるが、あまりにも広大な土地なのである。あるのは、道路脇に分別された廃材の山。わたしは、この広くなにもない土地に、防波堤を超え押し寄せた津波に意識を傾けていた。
Y秘書は、さらに海の近くに行きましょうと、車に戻るよう告げ、わたしは合掌し礼拝をした後、乗車した。でこぼことした道のようでない道を車は揺れながらゆっくりと走っていった。遠くに墓地らしきものが見え、だんだん墓地だと確信した。津波によって流された墓石を、残された人の手によって、元の位置に戻された様子である。しかし、全てが全て戻ったわけではなく、土台はあり、墓石がないお墓もあった。殺伐とした墓地のように一瞬見えたが、それでも強烈なものは感じず、手を合わせながら通過した。
そして、津波の引きで破壊された防波堤の近くで車が止り、わたしたちは外へ出た。Y秘書は引率する形で、防波堤の上へと案内してくれた。
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強風の中、かき切るような肌への痛みと冷たさを感じながら、太平洋を静かに見つめた。まだ海岸沿いには、廃材が残っていた。そして、南の方向を見つめ、あの位置する山を越えれば、原発があり、視線を元に戻しつつ一部完全に破壊された防波堤を見つめていた。
Y秘書は、北側を指を指しながら、「あの向こうに岩山があるでしょう?あの岩山と同じ高さの津波によって、この海岸部は襲われたんです。」と告げた。
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この写真にある岩山は、すでに防波堤の高さの4倍はあるだろう。続けてY秘書は、福島一帯に押し寄せた津波の高さについて話してくれた。最も高かったところで30mもあり、平均で17mぐらいの高さにはなっていたそうだ。ビル1階の高さが平均3.5mである。17mと言えば、5階建てのビルを超えた高さになる。
わたしは、Y秘書に、「このエリアでどれぐらいの方がお亡くなりになったのですか?」と尋ねた。Y秘書は、「300人ほどが亡くなったと聞いてます。実は、ここにも津波警報が出て、一度住民は避難したんです。でも、たいしたことないと住民は思った様で、大勢の方が一度ご自宅に戻られたんですね。そうしたら、第二波の最も高い津波に飲み込まれてしまったんです。」と仰っていた。
あの時、戻らなければ助かったかもしれない命に、わたしは、この地区一帯を消滅させた最先端の位置に立って、再び視線を広大に広がる人々が生きていた場所に、目を向けた。そして、意識を集中させるために、目を閉じた。それで、感じ取った事は、想いがほとんど残されていないということだった。この事は、想像していたものと異なる感嘆たる事実だった。正直、飯館村で感じたものとは比較にならないほど、ここは静かで穏やかだったのである。
わたしは、すこし防波堤の上を歩いた後、気がついた。
「そうですか・・・そうでしたか・・・・。」
ここの亡くなられた住民の多くは、年齢的にもご高齢者が多かったのではないだろうか。自然環境が厳しいエリアでもある福島で培われた精神を持った人々は、内に秘めるものも多いだろう。住む環境によって、人間の精神やこころが構築されるのは当たり前の事だが、被災地のこの南相馬市の海岸部の住民の多くは、宗教概念によって死生観もきちんと確立していらっしゃる、この事に気づかされたのだ。平素より、死に向かい合い、死への恐怖心を和らげていた光景が脳裏にはっきりと浮かんだ。
なんという覚悟だ。生ききったとも言える後悔や無念のなさ。平素の備えで、死を受け入れる際、こころが乱れぬよう準備をしている事、この事をこの場所に立って、感じ取ったのである。わたしは、衝撃的事実に向き合いながらも、涙が出そうになるのを堪え、思わず合掌した。亡き人々の覚悟に触れ、供養をとこころの片隅に抱いていた驕りが恥ずかしくなった。それでも、意識をさらに傾注し、最後に感じたのが、「頼んだぞ」という言葉だった。断片的にしか感受できないもどかしさを抱え、再度海に向かって合掌礼拝し、わたし達は防波堤から下りることになった。
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強風に吹かれ髪が乱れながらも、丁寧に写真に収めていく。わたしのこころは、この事実に触れた際の動揺を抱えたままだった。あの防波堤で感じ取った事実を要約すれば、「私のことは、もう良い、これからのことは、生き残った者たちで考え、子々孫々と繋ぎ、生きろ。」という事のように思えた。まるで、神様から頂く導きのような言葉の感受である。ここに住んでいた人々は、我欲が圧倒的に少ない上、死生観が確立されてきたのがこの感受の起因だろう。よって、津波に飲まれても、時が経つと共に想いが浄化され、この世に対し残された想いがほぼ消えてしまったとも言える。
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大きくえぐられた防波堤を背に、わたしは再び広大な土地を歩き始めた。ここで亡くなられた方々に想いを寄せながら、車へと乗り込んだ。冷え切った体以上に、亡き人々によって感じさせてもらった死者の想い、その気丈なまでの死の受け入れ方に、強くこころが震えていた。
(つづく)