飯館村を後にしながら、通過していく道中の両脇の田畑を指し、Y秘書はこう告げた。
「田んぼはね、2年耕さなかったら、一度死ぬんですよ。もし、この田んぼに田植えをしようと思えば、2年以内にしないと、お米が出来ないんです。」
避難区域であったため、所有者もなかなか立ち入る事が出来ずにいた昨年の夏は、この一帯雑草で大変な風景だったと言う。今、その雑草が枯れ、一部の所有者が一時的に村に戻り、雑草を刈り処分したため、わたしの住むエリアと何ら変わる事のない風景もたくさんあった。しかし、一部の所有者は手入れが出来なかったのか、背丈の伸びた雑草はそのままの状態で枯れていた。
峠を越えながら、時間を見ればもう昼を過ぎ、午後1時を過ぎていた。Y秘書は、115号線に戻り交差点付近にあるラーメン屋さんで昼食を摂る事を提案された。時間が押し迫っている中での昼食。ラーメンは実に効率的である。初めて食べる福島のラーメン。わたしは味噌ラーメンを頼み、一端席を外し所要の電話を店外でしていた。席に戻ると、Y秘書と親族が話しをしていた。
セルフサービスと書かれ、ここではご飯もお代わりが自由、お水も自由、お漬物も残さない事を条件に自由と、サービス満点なラーメン店だった事に気づいた。わたしは両者にご飯の有無を確認し、テーブルの前に差し出した。ラーメンはすぐにテーブルの上に並べられ、私たちはこの間話もせずに、頂いた。席に座ってから約30分。精算を済ませ、次に向かったのが相馬市と南相馬市だった。
この写真は、相馬市役所だ。北側の窓には太くクロスされた耐震補強がなされていた。相馬市と南相馬市は、太平洋側に面していたため、もろに津波の被害を受けた街だ。時間が押し迫った中での視察ともあって、相馬市は車でただただ通過するに留まった。
市役所を通過した時、Y秘書は海岸部を見ていただきたいと告げられ、そのまま海側へと車を走らせた。交差点を右に曲がり、6号線を南下していく。この間、Y秘書は佐藤議員が視察のため被災地へ訪れた際に記録していた写真のファイルを車中で見せてくれた。
1ページ目をめくると、そこの右端には、3cm程の菊の紋の下に「天皇陛下のお言葉 3月16日」と記されたA4サイズの用紙が貼られていた。
「この度の東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9・0という例を見ない規模の巨大地震であり、被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し、犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また、現在、原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ、関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。
現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、多くの人々が、食糧、飲料水、燃料などの不足により、極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の状況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。
自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内のさまざまな救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。
今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者とともにあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。
海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。
被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。」
陛下はこの東日本大震災で異例とも言えるビデオでの配信でお言葉を発し、その後も皇后陛下と共に、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県とお見舞いに行かれ、もっとも津波で流されてしまった場所では、傘も差されず黙祷を捧げていらっしゃったお姿は、今でもしっかりと記憶に残っている。この天皇陛下のお言葉を1枚目に貼られた佐藤事務所の想い、ここにいたく感銘していた。
震災からすぐに佐藤議員の福島事務所では、積極的に震災時の被害を写真に収め、復興に向けての考案材料にまとめていらっしゃった。一部の写真では、自衛隊員の復興本部の会議の場面や、海に入り捜索活動をされる自衛隊員の姿や、そしてメディアでよくお顔を露出されている議員の方々との現地での視察会談のお写真などもあった。議員の方々は主に自民党の議員が多かったが、民主党議員の姿もそこにはあった。
「この一帯は河川が多くありましたから、津波の影響が河川付近の住民にも多く被害が出ましてね・・・。今見てもらっている写真から、現在、どれだけ復興したか、見ていただきたいんですよ。」そう、Y秘書が背中越しに仰った。
6号線を南下しはじめ、だんだんと震災の傷痕が見えてきた。
それは、ただただ、何もない荒野であった。
(つづく)