今日の街角風景は長崎から西彼杵半島西岸を北上し、角力灘に面した
カトリック黒崎教会を訪ね、平戸へと足を延ばしてオランダ商館の栄華
の跡をみる。
カトリック黒崎教会の所在地は長崎県西彼杵郡外海町上黒崎郷26で
あったが、平成17年1月4日に長崎市と合併し、長崎市上黒崎町26
となった。遠藤周作の「沈黙」の舞台となったところである。
マリア像の台座に黒御影石に金文字で刻んだ碑にカトリック黒崎教会の
歩みとして
1571(元亀2)年1月下旬頃、カブラル神父らが初めて外海地方を
布教し、各地に15の教会が出来た。厳しい弾圧の中で日本人伝道士バスチャン、
治兵衛神父らの指導により、信仰を守り、子孫に伝えた。
1865(慶応元)年信徒発見後、1867(慶応3)年クーザン神父が訪れ、
辻村三次郎宅でミサが捧げられる。ここは信徒の集会所でもあった。
と淡々と書かれている。
1899(明治32)年9月30日聖堂建設に着手。資金難のために一時中断。
1920(大正9)年12月18日計画以来23年、子供まで煉瓦運びに奉仕
するなどの苦労の末、ロマネスク様式赤煉瓦造りの現聖堂が竣工。
1989(平成1)年7月~90年5月に聖堂と石垣の改修。
1997(平成9)年3月、計画以来10年の大改修が終わり、先人の足あと
をここに記し、改修記念としてこの碑を建てる。
A.D.2000大聖年(平成12年)カトリック黒崎教会
三廊式コウモリ天井と柱が美しくもやわらかく、且つ厳かである
黒崎教会のある外海(そとめ)地方は角力灘の向こうの五島列島に多くの移住者を
出し、長崎カトリック信徒の母郷ともよばれているそうだ。
なお、この聖堂の棟梁として一統を率いたのは川原忠藏といわれている。幕末の
旧大浦天主堂の創建に大工として参加した川原久米吉(1818~1903)の息子である
という。忠藏の息子の片山伝次郎もこの聖堂の建築に参加したという。
1899(明治32)年に岩永神父のもと、黒崎教会の建設に着手したが、資金難で
中断、工事再開は実に1918(大正7)年で、2年後に完成した。
私は40年程前に、ここを訪れたことがある。教会の黒板に、法事の件・・・、
お布施は・・・、香典返しの件・・・と書かれてあったことが思い出される。
今はない。
平戸港の向こうに1707年(宝永4年)竣工の亀岡城(平戸城)と1977(昭和52)
年4月4日開通の平戸島と本土を結ぶ平戸大橋を見る
先ずは腹ごしらえにと、ひらめ尽くし定食をとる。美味しいが酒がないのが残念
食事をとったすぐ傍のポルトガル船入港之地 すぐ向こうに平戸港
1550(天文19)年 ポルトガルの貿易船が初めて平戸に入港
同年9月にフランシスコ・ザビエルが平戸に来島し布教
1584(天正12)年 スペインの貿易船が入港
1609(慶長14)年 オランダが商館を設置
1613(慶長18)年 イギリスが商館を設置
1623(元和9)年 イギリスとの通商断絶(商館閉鎖)
1624(寛永元)年 スペインとの通商断絶
平戸市浦之町にある創業四百六拾年という葡傅銘菓カスドースの老舗
城下雛まつりの期間とかで、店内は雛人形が飾られていた。餅花がきれいだ
店内の様子 お土産は勿論葡傅銘菓カスドース
平戸にポルトガルの黒船が来航した1550(天文19)年以来、平戸は
日本唯一の西欧文化の導入口であった。その時、ポルトガル船で渡来した
神父達によってカステーラと共にカスドースの製法も伝えられたと。
寺院と教会の見える風景 教会は1931年(昭和6年)に建設された
聖フランシスコ・ザビエル記念教会
松浦資料博物館 この地は鎌倉時代初頭平戸松浦氏発祥の地であり、南朝の忠臣
松浦鬼八郎定はここより起こったと。また日本最初の蘭英貿易を平戸に独占した
松浦氏邸跡であり、蘭英商館長やウイリアム・アダムス(三浦按針)等も出入した所という。
御部屋(おへや)の坂 写真左下に休み石がある
この付近、旧平戸藩主邸(現松浦資料博物館)一帯は御館(おたち)といい、
鎌倉時代に平戸松浦氏が居城を構え現在に至っている。
石段が続く坂道は、中程に御部屋様(側室)の屋敷があったので「御部屋の坂」
と呼ばれ、周辺に建ち並んでいたといわれる。
写真右手上方に見えるのは御部屋様(側室)の屋敷の門と白い土塀が
おおよその形で復元されているのだろう。中は日本庭園となっている。
平戸和蘭商館跡 後ろの山手にジャガタラ文で有名な平戸観光資料館が見える
1609年(慶長14年)、2隻のオランダ船が平戸に来航して、時の領主
松浦鎮信(法印)の斡旋によって、家康、ついで秀忠に謁見したオランダ使節は、
商館の設置と貿易の許可を得、平戸オランダ商館が設置された。
平戸オランダ商館の貿易額、取引額は1630年代後半から飛躍的に増大する。
後の長崎出島時代を含めても、貿易額が最高潮二達するのは平戸時代後期の
ことである。
しかし、次第に進展する鎖国政策の波には抗し得ず、1639年(寛永16年)
築造倉庫は破風にキリスト生誕を紀元とする西暦年号が記されていることを理由に
破壊を命じられる。
また、平戸オランダ商館自体も1641年(寛永18年)長崎出島への移転を命じられ
平戸オランダ商館の歴史は幕を下ろす。
オランダ塀 漆喰で固められた、頑丈極まる塀である。
銅版画に残る平戸オランダ商館の姿 案内板に転写されている
まだまだ平戸オランダ商館跡の発掘調査は続いている
平戸オランダ商館跡の高台から平戸港、平戸城、平戸大橋を望む
1635年(寛永12年)日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を全面禁止
1636年(寛永13年)長崎に出島完成 ポルトガル人を入れた
1637年(寛永14年)島原の乱勃発 幕府はこれをキリシタンの反乱と認定
1639年(寛永16年)出島のポルトガル人を追放
以後、ポルトガルとの交渉を厳禁
この結果、対外貿易はオランダと中国だけに限定し、
鎖国体制の完成となる
1741年(寛保元年) 空地となった出島に平戸からオランダ商館を移設
これで平戸での南蛮貿易が終焉となる
1871年(明治4年) 廃藩置県により平戸藩が廃され、平戸県となる
さらに長崎県へ併合される
1889年(明治22年)4月1日 町村制度施行により北松浦郡平戸町、平戸村、
田平村、生月村、大島村など1町11村が発足
2005年(平成17年)10月1日 平戸市は周辺の大島村、生月町、田平町と
対等合併し、新市名を平戸市とした
この結果、長崎県から村が消滅した。
義妹と姪が来福したので、彼女らと一緒に長崎旅行をした。
今日の街角風景は、長崎市に長崎県美術館と長崎歴史文化
博物館を訪ねたときの風景である。
長崎の出島一帯は出島岸壁とその倉庫群を取り払い、長崎水辺の森公園
となって風景を一変させている。その一角にあるレストランで昼食をとる。
レストランの奥に僅かに見える赤い屋根は懐かしい活水女学院である。
平成17年4月にオープンした長崎県美術館をレストランから続く裏口
から見る。長崎水辺の森公園の一角にあり、運河をはさんで建っている。
長崎県美術館のベルギー王立美術館展の入口 窓の向こうは長崎港
ピーテル・ブリューゲル[父]?「イカロスの墜落」16世紀中頃
73.5cm?112cm 油彩/カンバス
ブリュッセルのベルギー王立美術館所蔵
ベルギー王立美術館は1801年ナポレオン・ボナパルトによって建設の
政令が発布された巨大美術館であるという。
ピーテル・ブリューゲル[父]?は16世紀のフランドル地方を代表する画家。
フランドル絵画は近代油彩画の原点を創ったと高く評価されているようだ。
ブリューゲルはオランダのブレダ近郊ブリューゲル村に生れたといわれ、
ベルギーのブリュッセルで亡くなったといわれているそうだ。
馴染み深い呼称は「百姓ブリューゲル」か。通称「農民画家」
美術館から港越しに、22年間を過ごした長崎製作所を見る。
遠くに小さく見えるのが岩屋山(いわやさん) あの山の麓に
生れて、36年間住んだ私のふるさとが眼前にある。
長崎の上町の坂を上る。正面奥を左に曲がれば長崎歴史文化博物館
右手の建物は田中旭栄堂 もちろん栗饅頭をお土産にした
長崎市立山に平成17年11月にオープンした長崎歴史文化博物館の
復元した長崎奉行所立山役所の正面入口前の階段
写真で階段が古色を帯びている部分が、発掘調査で出土した遺構を
そのまま利用している。階段下の石畳と石垣の一部も同様である。
門、玄関、書院と御白州など一部を復元した長崎奉行所立山役所は、
文化五年の長崎諸官公衙絵図をもとにしたもので文化年間前後
(19世紀前半)の様子を表しているという。
同館で上映していた長崎奉行の一年を描いた立体映画には、俳優の
風間杜夫が第84代長崎奉行・遠山左衛門尉景晋(とおやま
さえもんのじょうかげくに)役で出演していた。遠山左衛門尉景晋は
江戸町奉行遠山金四郎の父親だそうだ。
なお長崎歴史文化博物館本館は黒川紀章氏の設計だとか。
前日の宿は、大阪なんばのスイスホテル南海大阪であった。
このホテルからネオンに輝く通天閣を眺め、いま大阪に居る事を実感した。
今日、3月12日(月)の街角風景は、難波のホテルから靱(うつぼ)公園の
森をわずかに見ながら大阪駅につき、山陽新幹線ひかりレールスターで新大阪を
出て、博多に帰るまでとする。
記憶の彼方の通天閣を、ホテルの窓から、いま見る
ホテルの室内と通天閣方面の夜景が二重写しとなった
右手に見える高層ビルは低層階に屋上回廊庭園をもつなんばパークスに建つ
パークスタワー。 右手下の道路は阪神高速1号環状線
スイスホテル南海大阪でビュッフェスタイルの朝食をとる
壁の装飾画が暖かく、華やいだ雰囲気をレストランに与えているようだ
眼下に見えるのは、南海電鉄なんば駅舎上の大駐車場であろう。右手はなんばパークスと
パークスタワー
ホテルの南側、阪神高速1号環状線の下の敷津東1交差点よりいまチェックアウト
したスイスホテル南海大阪を見る。これより四つ橋筋を北上する
四つ橋筋を大阪駅に北上途中、靱(うつぼ)公園前の交通標識をみて、
あわててカメラを取り出し、リアウインドウ越しに靱(うつぼ)公園の
森の一角を撮る。
四つ橋筋に僅かに覗いた靱(うつぼ)公園の森を通り過ぎて、京町堀1交差点の
交通標識を見る
四つ橋筋の京町堀1交差点の交通標識を見て、振返って靱(うつぼ)公園の
森の一角を望遠で撮る。
今は、靱(うつぼ)公園の中の地番、大阪市西区靱本町一丁目は私の本籍地である。
幼い頃の記憶は僅かにあるが、これは夢幻に近いものかもしれない。
大阪大空襲は昭和20年3月13日深夜から翌日未明にかけてあり、この時の
米軍の照準点の一つが靱本町に隣接する西区阿波座であったという。
この大阪大空襲のときの被災面積は21平方キロ、被災戸数136,107戸、被災者501,578人
死者約4,000人とも言われている。この大阪大空襲で丸焼けとなった靱本町は
戦後復興事業として靱(うつぼ)公園となり、今に至っているものと思われる。
大阪ではこの大空襲のあとも、6/1、6/7、6/15、6/26、7/10、7/24、8/14
と波状的に米軍の空襲があり、商都大阪は壊滅した。空襲による市民の死者は
10,000人とも15,000人ともいわれており、定かではない。
靱(うつぼ)公園の総面積は約10ha、東西約800m、南北約150mという。
その南北の80m位が公園の東端として四つ橋筋に面している。
新幹線新大阪駅プラットホームから駅前広場を望む
博多行きの、ひかりレールスターが入線した。2時間44分で博多駅に着く。
姫路駅手前で車窓から日本一の姫路城を見る。城内を見学した44年前のことが
思い出される。
福山駅の上りプラットホーム越しに福山城の隅櫓と石垣を見る
伯母の七回忌法要に参列するため、大阪に出向いた。
法事の行われるお寺さんは、曽根崎のお初天神から
新御堂筋を挟んで目と鼻の先にある。
今日の街角風景は、JR大阪駅からお初天神に至る
道筋と「露天神社」通称「お初天神」を訪ねることとした。
JR大阪駅の1階コンコースの出発の鐘がある待ち合わせ場所である。
現在このあたりは改修中で、ご覧の通りせまくるしい。
JR大阪駅正面を見る
JR大阪駅正面玄関付近の大丸のディスプレー
大阪駅から阪神百貨店を見る
大阪駅を背に正面右手に大阪第一生命ビル、ヒルトン大阪などを見る
ここを左に歩いて行く
御堂筋にオブジェの如く屹立する日本一の排気塔 左方のノッポビルは
阪急グランドビル 右方のクラシックビルは大阪富国生命ビル
大阪駅前第4ビル前の御堂筋を僅かに南下し、左前方にお初天神の方を望む
大阪駅前第4ビル角の御堂筋を東方に横切って、お初天神通りに入る
お初天神通りのアーケードの右奥がお初天神の裏参道だ
お初天神裏参道の手前のお初天神通りに千鳥屋お初天神前店がある。
創業寛永七年(1630)のお菓子屋さんで銘菓千鳥饅頭が有名である。
水鏡 せると伝ふる 天神の みあしのあとに 千鳥群れ飛ぶ
という菅原道真の故事から名前をとり千鳥饅頭と名付けたとのこと。
露天神社、通称お初天神の裏参道入口 左側に露天神社由緒略記板がみえる
昌泰四年(901年)菅原道真公、筑紫に左遷配流の途次、当地を過ぎ給う砌、
境内の草木深ければ、
露と散る 涙に袖は 朽ちにけり
都のことを 想い出づれば
と詠ぜられ、菅公大宰府にてご他界の後、その遺徳を偲び奉り合祀し、右の御歌より
「露の天神社」と称する。とのこと。
露の天神社拝殿
社伝によれば、創建は壱千百有余年を遡り、文徳天皇の御代、嘉祥三年(850年)
に定め給いし「難波八十島祭」の旧蹟にも数えられ、「住吉住地曽祢神」を祀ると
伝えられる。
往時此の地は曽根、曽根洲と称する孤島にて、曽根洲、後の曽根崎の地名はこの
御神名より起こる。
平安期、渡辺十郎源契来たりて入植せしより、渡辺氏一族を始め移植の民次第に増し、
曽根崎村へと発展し、当社も産土神「曽根崎天神」として、尊崇された。
現在も、梅田、曽根崎地区の鎮守として信仰を集めている。とのこと。
拝殿前の左手奥に立つ碑、曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地
お初天神社の案内板に云う
元禄十六年(1703年)四月七日堂島新地天満屋抱えの「お初」と、内本町
醤油屋平野屋の手代「徳兵衛」、当社「天神の森」にて情死し、日を置かず時の
戯曲作家「近松門左衛門」により「曽根崎心中」として劇化された。
以後上演の度、男女身分の差無く多数の民衆観劇し、挙がって当社に参詣慰霊に
訪れたという。
「お初天神」と通称される所以である。とのこと。
正面のポットが二つ置かれている奥に、曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地
の碑が建っている。その右側にお初、徳兵衛のブロンズ像が見えている。
「曽根崎心中」は近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、元禄十六年(1703年)
大阪道頓堀の竹本座で初演
醤油屋の手代徳兵衛と遊女のお初が、義理に迫られ、恋を貫いて曽根崎天神の森
で心中するという世話物である。
次に掲げるのは、「曽根崎心中」の主人公お初と徳兵衛が、心中に向かうその道行
の冒頭部分である。
「曽根崎心中」道行の冒頭部分
この夜の名残、夜も名残。 死(しに)に行く身をたとふれば、
あだしが原の道の霜。 一足づつに消えて行く。 夢の夢こそあはれなれ。
あれ数ふれば暁(あかつき)の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生
(こんじょう)の、鐘(かね)の響(ひびき)の聞きをさめ。
寂滅為楽(じゃくめつゐらく)と響くなり。
流れるような七五調の技巧的な美文に、叙景と叙情が一体となって盛り込まれ、
見る物・聞く者を陶然とさせる魅力を備えた名文となっている。とのことだ。
神泉露ノ井という井戸の上に御井神が祀られている。
案内板には次のように書かれている。
古くより露ノ井と称され、人々の暮らしを支え、信仰の対象でありしこの
御井に坐す神。
社殿直下の御井は、往時四天王寺の亀の井・清水寺の井・二つ井戸等と共に
浪速七名井の一つなりと称され、梅雨時期には清水が井戸縁より湧出せしと
いう。名井「露ノ井」として当社社名由来の一つともいわれ、周辺地域を始め、
社地前旧池田街道を行き通う人々の貴重な清水であった。現在では地下鉄各線や
高層ビル群の建設等により地下水脈が分断され、水位が著しく低下している。
名井「露ノ井」はこの絵馬掛場所の後ろに現存する。位置は社殿直下である。
境内につらなる路地は行って見たくなるような飲み屋さんが軒を接している
今日の街角風景は、太宰府市吉松の太宰府スポーツ公園を訪ね、
万葉歌碑が10基もあると言う万葉の散歩道を少し歩いてみた。
太宰府スポーツ公園は大宰府都府楼址から西方約2kmに位置する。
姫こぶしの花が咲こうとしている
太宰府スポーツ公園に行く途中に春日西友前の和食レストランで
昼食をとった。
太宰府スポーツ公園の脇入口到着
太宰府スポーツ公園万葉の散歩道から大伴旅人の万葉歌碑を見る
万葉集 巻第六・961
帥大伴卿の、次田(すきた)の温泉(ゆ)に宿(やど)りて、
鶴(たづ)が音(ね)を聞きて作る歌一首
との詞書きがある。
万葉集 巻第五・839にある田氏真上(でんじのまかみ)の歌である。
天平二年(730)正月十三日大宰の帥 大伴旅人は自邸において盛大な
梅花の宴を催した。万葉集 巻第五に梅花の歌三十二首として収録され
ている歌の一首である。
春の野に 霧立ちわたり 降る雪と 人の見るまで 梅の花散る
という、その歌碑の前からグランドをとおして東方に大野山(四王寺山)
を見る。その大野山の麓が都府楼址であり、大伴旅人邸が都府楼近くの
現在の坂本八幡宮あたりだとすれば、ここから東方に2km強の処となる。
椿 卜伴
まだ小さい沈丁花
今日の街角風景は2週間ほど前に、今年の土筆は暖冬だから
もう出ているだろうと訪ねたが、まだ早すぎて空振りに終わった
同じ所の福岡県前原市の中央部、伊都の国原を再訪する。
また、ここからは万葉集に詠われた可也山(365m)をみることが
できる。遣新羅使人が天平八年(736)七月末頃に見たであろう山だ。
田圃の土留めの傾斜面に土筆が盛りである
袴を剥いで「おひたし」そのものでもいいし、「卵とじ」などもいい。
とにかく、酒の肴として一級品であると僕は思っている。
西南の方角に背振山系を望む。その向こうは肥前の国、佐賀県だ。
中央の小さく見えるピークが井原山(いわらやま 983m)、その右の
ピークが雷山(らいざん 955m)、その右方に谷をはさんで羽金山
(はがねやま 900m)である。羽金山頂上には標準電波送信所があり
その電波塔の高さは200mという。
万葉集に詠われた可也山(かやさん 365m 別名筑紫富士あるいは
小富士)を西北方向に見る。糸島郡志摩町に位置している。この山の向こうは
玄海灘だ。
可也(かや)という名前は、古代朝鮮の伽耶(かや)からとった名前である
ともいう。
遣新羅使人が天平八年(736)七月末頃に見たであろう山だ。
万葉集から転記してみよう
引津(ひきつ)の亭(とまり)に船泊(ふねは)てて作る歌七首(のうちの第一首目)
草枕 旅を苦しみ 戀ひ居(を)れば
可也(かや)の山邊に さ男鹿鳴くも (巻第十五ー3674)
(一首おいて・・・)
右の二首は、大判官のなり
註 大意:旅の苦しさに、故郷を恋しく思っていると、可也の山辺に
男鹿が鳴く。(それを聞くと恋しさがまさる。)
大判官⇒この時の大判官は壬生使主宇太麿(みぶのおみうだまろ)
今日の街角風景は福岡市から太宰府の水城大堤東門址を通り
衣掛天満宮とその近くにある万葉歌碑を訪ね、さらにそこより
すこしいった丘上の筑前国分尼寺跡に立ち、古を想う。
梅に鶯といきたいところだが、メジロである
太宰府の水城大堤東門址である。正面向こう側に水城大堤が続く。
昔の官道である道路を左方向に、即ち南東方向に約150メートルで
衣掛天満宮だ。
官道より衣掛天満宮を見る。現住所は太宰府市国分2丁目。正面鳥居の
左下に小さな石柱がみえる。「旧小字 衣掛」と読める。
神社に伝わる話では、都から左遷されてきた菅公(菅原道真)は長旅の
終わりの、ここ水城につき、旅衣を脱いで、傍らの松と石に掛け、新しい
衣に着替えた。その旅衣を掛けた松と石を祀ったのが衣掛天神(衣掛天満宮)
とされているという。
衣掛天満宮の後ろの森は水城大堤東門址から続く大野山(四王寺山、大城山とも)
の山襞である。この後ろの森のさらに後方の台地状のところに水城の監視所や、
屯所さらには宴会場すらあったのではなかろうか。水城大堤から都府楼址は望見
出来ないが、この地点からなら望見できるだろう。
衣掛天満宮に近い官道傍にある万葉歌碑
大伴旅人と娘子兒島の水城における惜別の歌
万葉歌碑の右側に娘子兒島の、左側に大伴旅人の歌が刻まれている。
冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上る時に、娘子(をとめ)の作る歌二首
(のうちに一首)
凡(おほ)ならば かもかも爲(せ)むを 恐(かしこ)みと
振り痛(いた)き袖を 忍(しの)びてあるかも
(巻第六ー965)
大意:普通のお方ならば、ああもこうもしましょうに、恐れ多くて、
いつもならはげしく振る袖を、こらえて振らずにおります。
冬十二月⇒天平二年(730年)
万葉集のこの歌のあとがきは次のごとし
右は、大宰帥大伴卿、大納言に兼任して、京に向ひて上道(みちたち)す。
此の日馬を水城に駐(とど)めて、府家(ふけ)を顧み望む。時に卿を送る
府吏の中に、遊行女婦(うかれめ)あり。其の字(あざな)を兒島(こしま)
と曰ふ。ここに娘子(をとめ)、此の別るることの易きことを傷(いた)み、
彼(そ)の會ふことの難きことを嘆き、涕(なみだ)を拭(のご)ひて、
みづから袖を振る歌を吟(うた)ふ。
万葉歌碑の碑面左側には大伴旅人の返歌が刻まれている。
大納言大伴卿の和(こた)ふる歌二首(のうちの一首)
大夫(ますらお)と 思へるわれや 水莖(みずくき)の
水城(みずき)の上に 涙拭はむ
(巻第六ー968)
大意:涙なぞこぼさぬ立派な男子と思っている自分も、水城の上に
立って、涙をぬぐうことであろうか。
大伴旅人はこのとき、66歳であったという。翌年天平三年(731)
7月25日、京(寧楽・・なら)で没したと。
太宰府市坂本3丁目の公園にある万葉歌碑 山上憶良の歌が刻まれている
碑の裏面には「昭和六十三年二月吉日 武藤真 荒瀬朴武」とのみ刻まれて
おり、私人が建立したと思われる。
万葉集巻第五ー803の歌のあとがきに
神龜五年七月二十一日、嘉摩(かまの)郡にして撰定しき。筑前國守山上憶良
として 反歌
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
勝(まさ)れる寶 子に及(し)かめやも (巻第五ー803)
とある。
大意:金銀も玉も何で子というすぐれた宝に及ぼうか。
神龜五年⇒728年
小高い丘陵の森の左端に衣掛天満宮がある。写真に写っていない
左手から水城大提が、この小高い丘陵地につながり、そして四王寺山
へと連なる。すなわち、大宰府の水城防衛線の一環を構成している。
右手斜め奥250メートルあたりに筑前国分尼寺跡がある。
筑前国分尼寺跡から森の左端に衣掛天満宮がある小高い丘陵を望む
筑前国分尼寺跡にたつ案内板
国分共同利用施設に移転し展示している筑前国分尼寺跡の礎石
この礎石は、もともとはこの場所と道を挟んで対面の水田の土留めとして
利用されていたものを、ここに移転したという。
筑前国分尼寺跡の礎石礎石の案内板
筑前国分尼寺跡から水城大提につながる小高い丘陵の森を見る。左端に小さく
見える森に衣掛天満宮がある。
国分尼寺は、国分寺と共に全国の各国に置かれた法華滅罪之寺で、筑前国分尼寺跡も
筑前国分寺跡の西方約250メートル地点であるこの畑の中に位置していることに
なろう。筑前国分尼寺は8世紀後半ごろから9世紀後半ごろまで存在したと推定され
ている。
帰りに寄ったスーパーの屋上から背振山系油山に落ちる夕日をみる
今月の福岡同期会(二水会)は中央区大名二丁目の居酒屋「十徳や」
で開かれた。
我々がアウトプットを出せるのは、精々あと五年であろうという
話に、ただうなずくばかり。異論が出ないというのも珍しい。
これは正論であるか否かということではなくて、人生行路の
この地点に立って抱く希望であるに違いない。
西鉄福岡天神駅のプラットホームから大丸と西日本新聞会館を見る
新天町(しんてんちょう)商店街を通りぬける
西鉄グランドホテル前から明治通りを西の方に見る 会場の十徳屋は正面の灯りがついている辺りだ
今日の会場は大名二丁目で、中央区役所の対面に近い「十徳や」だ。
「十徳や」等が入っているビルは、大名第二公団住宅と呼ばれる。
福岡市は政令都市の指定を受けて、各区に区役所を新設したが、中央区役所
だけが住宅をその上層階に併設しなかったと思われる。その代わり、
中央区役所の至近距離に公団住宅を配置したのだろう。
福岡市(7区)は1972年4月1日に政令指定都市に指定さる
北九州市(7区)は9年早く、1963年4月1日に政令指定都市に指定
今月も全員参加だ
「十徳や」は二階にある。その帳場のよこで。
今泉の「夏」
今泉の「夏」
この暖冬だ。雨も上がった今日ぐらいは土筆も出ているのでは
ないかと福岡県前原市の伊都国歴史博物館近辺を目指した。
しかし土筆は、ほとんど見ることが出来なかった。季節というのは
忠実で、2月22,3日ごろの春の名残の、あるいは大雪のあとに
土筆は出てくるのであろうか。
僅かに姿をみせた土筆
福岡県前原市の伊都国歴史博物館近辺は魏志倭人伝に出てくる
伊都國の中心に近い所であろうか。ここから周辺の山々を俯瞰し
雷山(らいざん955m)の中腹にある雷(いかづち)神社を訪ねる。
左側に怡土(いと)城跡のある高祖山(416m)、その右の低い所が
日向(ひなた)峠で、右に王丸山(453m)が続く。日向峠から朝日が昇る。
中央、南の方に雷山(955m)を望む。雷神社は手前の低い山を右手から左に
入った雷山の中腹にある。
雷山の雷(いかづち)神社
雷山は真言密教の道場であり、中腹にはインドの僧、清賀上人が開山したと
される、千如寺大悲王院があり、その中の坊であった旧観音寺跡に、雷(いかづち)
神社が祀られているとのこと。
雷山の雷神社 福岡県昭和35年指定天然記念物の大杉2本が見える。
幹周6~7m、樹高31~32m、樹齢1000年という。
万葉集巻三ー235 日本古典文学大系4(岩波)によれば
雜歌(ざふか)
天皇、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでま)しし時、
柿本朝臣人麿の作る歌一首
大君は 神にし座(ま)せば 天雲(あまくも)の
雷の上に 廬(いほ)らせるかも
大意:大君は神でいらっしゃるから、大空の雷のその上に
いほりしておいでになることである。
註一:天皇?人麿の作歌だから天武・持統・文武の三帝のうちであろう。
持統天皇か。
註二:雷岳(いかづちのをか)?奈良県高市郡明日香村雷にある丘。異説がある。
日本古典文学大系4(岩波)が異説があるといっている雷岳が、
今日訪ねた雷神社のある九州・筑紫の雷山(らいざん955m)である。
福岡県指定天然記念物 雷神社の大杉 樹齢1,000年という
福岡市西区金武の金武遺跡発掘現場 一面赤い土で、鉄分の多い土壌であろう
福岡から前原に向かう日向峠の入口の緩斜面にかなり大きな集落であろうか
向こうにみえるは飯盛山(382m)
幕末の歌人 大隈言道の博多を詠める歌
霧はれて 井尻の里の 見えくれば 隠るる比恵の 神山の松
大隈言道は寛政10年(1798)福岡薬院に生れる
文久3年(1861)「草径集」三巻上梓
慶応4年(1868)7月29日「ささのや」にて死す
大隈言道の住居「ささのや」は天神と薬院の間、現在の今泉一丁目の
今泉公園のところにあったという。
「ささのや」から南の方5kmぐらいに井尻(いじり)は位置する。
また、比恵の神山は現在の博多区の山王公園付近と思われる。
「ささのや」から東南の方4km弱に比恵の神山があったことになろう。
この土地、福岡、博多では霧は通常西から東へと移動して行く。即ち
背振山系から福岡、博多を通って三郡山系へと天気は流れていく。
この歌はその情景を的確にとらえている。ただし大隈言道が詠んだ風景を
今見ることはできない。言道の住居の周りは畑で、遠く山々も見えたという。
筑前国続風土記(貝原益軒編纂)巻之六 那珂郡下 山王権現社の項に
「○ 山王権現社
比叡村にあり。比叡山の山王を勧請せし故に、村の名も比叡と名づく。
社は村の南に松林の高き岡に有。」
現在、博多区山王一丁目の山王公園内に、畿内の比叡山の日吉大社より
勧請されたと伝わる日吉神社が鎮座している。現在山王一丁目の北側に
隣接する町名に比恵(ひえ)町がある。比叡(ひえい)が比恵(ひえ)に
転訛したのだろう。いま山王公園はグランドや市民センター、体育館等が
建ちフラットになっている。僅かに日吉神社の小高い森をのこして。
井尻六ッ角歩道橋より南方の春日市方向を望む。
正面大通りが陸上自衛隊第四師団、航空自衛隊春日基地等へ通じる
県道31号線(福岡・筑紫野線)
右側道路が福岡女学院等に通じる県道505号線(板付・牛頸・筑紫野線)
左側道路が精華女子短大、西鉄雑餉隈駅等に通じる道路
井尻六ッ角歩道橋より東方の西鉄井尻(いじり)駅方向を望む(県道505号線)
井尻六ッ角歩道橋より北方向のJR新幹線博多南線高架線路、香蘭女子短大、
折立交差点方面を望む
ザ・モール春日(西友春日店)で夕食材料の買出し。ワインは「おたる」赤
今日はセゾンカード5%引きのためクレジットカードで支払った
ただしワインは5%引きの対象外だった
井尻六ッ角から500mほど南に行った福岡市と春日市の境界上に
福岡都市高速5号線部分開通、その下に国道202号線も部分供与
井尻六ッ角から500mほど南に行った所の部分開通した国道202号線
から西の方に背振山(1055m)を望む