福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2008.12.25(木) 長崎の浦上川界隈

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、長崎の浦上川界隈である。長崎市竹の久保町の長崎西高の前を

    流れる浦上川とJR浦上駅を通る線路に囲まれた茂里町一帯である。この茂里町一帯

    は、戦前は三菱長崎製鋼所があったが原爆で灰燼と帰した。戦後汽車で長崎に戻って

    来た僕は、汽車の窓から見た国鉄浦上駅に隣接する工場群の灰燼に帰した残骸の連なる

    のを見たのだ。幼かった自分の目にも、この時の世にも恐ろしい光景は残像として今も存在

    し、消すことは出来ない。

長崎西高の下の浦上川沿いにある「江山楼(こうざんろう)」    長崎市竹の久保町

江山楼(こうざんろう)

江山楼で昼食をとる     やわらか麺の皿うどん、豚の角煮、春巻

江山楼から浦上川を挟んで対岸の茂里町を見る   右の方は南で長崎港となる

    

    左手の浦上地区と右手の稲佐地区を結ぶ梁川橋が中央に黒く影を落とす。

         向こうの山は長崎半島の山並で、右端に見えるのが八郎岳(標高590m)である。

     左の建物が長崎ブリックホール、右側の建物が長崎市クリーンセンターである。

    長崎市は三つの公会堂を有している。茂里町の長崎ブリックホールは2002席の大

    ホールと542席の国際会議場を持っている。魚町の長崎市公会堂は昭和37年の竣工

    ではあるが1922名収容の大ホールがある。また千歳町にはチトセピアホールがあって

    500席のホールを持つ。   

江山楼から見た対岸   右から長崎ブリックホール、長崎文化放送、長崎新聞社

     長崎新聞社の左奥に見える山は金比羅さんで、高射砲陣地があったあたりまで

     よく登ったものだ。

江山楼から浦上川のやや上流域を見る    中央に長崎原爆病院

江山楼から浦上川の上流域、北の方を見る 

中央の建物は長崎厚生年金会館、その前のつり橋は歩道橋

長崎自動車道今村PAから雲仙普賢岳を望む

今村PAから雲仙普賢岳を望む


2008.12.21(日) 雨の福岡天神メインストリート

2011-09-29 | まち歩き

今日の街角風景は、福岡三越の7Fから見た、雨の福岡天神メインストリートと、孫に送る

    クリスマスプレゼントを福岡三越で仕入れたことである。

雨に煙る福岡天神のメインストリート「渡辺通り」  渡辺通り4丁目から天神交差点を望む

   かっての福岡天神のメインストリートは天神交差点を東西に走る「明治通り」であったが、今

   は天神交差点を南北に走る、この「渡辺通り」となった。

福岡三越でクリスマスプレゼントにチョコレートを買う

向こうに見える店で

定番の「旅まくら」も買う

夕食の時の酒の肴を仕入れる


2008.12.11(木) 高校同級生会の忘年会で海ノ中道へ行く

2011-09-29 | まち歩き

今日の街角風景は、高校同級生会の忘年会で、福岡市東区の海の中道(うみのなかみち)

    にある大岳荘へ行ったことである。

    海の中道は、国宝の金印出土で知られる志賀島(しかのしま)と九州本土の福岡市

    北部をつなぐ陸繋砂洲で、全長約8km、最大幅約2.5kmである。この砂洲の北側は

    玄界灘の荒波にさらされ、南側は波穏かな博多湾に面している。この平らと思っていた

    海の中道の志賀島よりに大岳(おおたけ)という標高110m位の小さな山があり、今回

    の忘年会は、この大岳の麓の大岳荘で開かれたのである。

海の中道にある、国営海の中道海浜公園の傍を通りすぎる

     この国営海の中道海浜公園の場所には、かって海軍飛行場があったという。また、

     海の中道の福岡市営雁の巣(がんのす)レクリエーションセンターの場所には、

     かって陸軍飛行場があったという。また、元陸軍飛行場があった一角に、海の中道

     奈多海水淡水化センターが2005年4月に竣工し、日産5万立方メートルの最大

     造水能力でもって稼動している。海水の取水は玄界灘からで、処理済の濃縮海水は

     近くの浄水場に送られ、海水と同じ濃度に混合して博多湾に返されるという。        

志賀中学校前を右折し、大岳(標高110メートル位か)の麓の大岳荘に向う

今日の忘年会の会場の大岳荘に到着した

      この前方が西戸崎シ-サイドカントリークラブである。何人かは今日、大岳荘に

      宿泊し、明日ゴルフに興ずるであろう。

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

志賀島に通ずる海の中道から能古島の沖に、赤く輝く午後の太陽を見る

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

志賀島に通ずる海の中道から能古島沖に沈まんとする夕日を見る

JR福岡工大前駅(前の筑前新宮駅)から帰路につく


2008.11.29(土) 新橋周辺と羽田空港

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、宿泊した東京都港区新橋の第一ホテル東京とJR新橋駅周辺および

    新しいD滑走路(2500m)と国際線ターミナルビル等の建設が進む羽田空港である。

新橋の第一ホテル東京の正面入口ロビー

第一ホテル東京2F 「花山」

朝粥朝食

ホテルの部屋から銀座方面を見る

ホテルの部屋から内幸町、有楽町の方角を望む

第一ホテル東京正面玄関

JR新橋駅前広場付近から第一ホテル東京を見る

JR新橋駅前広場から汐留跡地の地上200mを越える高層ビル群を見る

JR新橋駅汐留口から正面に、ゆりかもめ(東京臨海新交通)新橋駅を見る

    高層ビル群は左から汐留シティセンター、パナソニック電工、ロイヤルパークホテル、

    日本テレビタワーであろう。

東京モノレール浜松町改札口近くから汐留跡地の高層ビル群を望む

東京モノレールが天空橋駅から地上部に出た辺りの羽田空港

    建設が進むD滑走路(2500m)新設に伴う国際線地区のタ-ミナルとエプロンの工事

    現場である。向こうの中央に巨大なコントロールタワーが新設中である。左側に現在運用

    中のコントロールタワーが見える。向こうの中央部に横たわるのは旅客ターミナルビルで

    JAL等が使用中の第1旅客ターミナルビル、その背部にANA等が使用中の第2旅客

    ターミナルビルがある。

    新しいD滑走路(2500m)は、この写真の右手の多摩川の流域と一部交差する海上に

    建設中である。

    第1旅客ターミナルビルと建設工事現場の間にあるのが運用中のA滑走路である。

第2旅客ターミナルビルからD滑走路建設工事が進む羽田空港南方沖合を見る

    新しいD滑走路(2500m)は、実績のある埋立構造に、異なる構造を一体化する

    接続部を介して、多摩川の流れを妨げないための桟橋構造を組合わせたものという。

    なお、この新滑走路と今の羽田空港は連絡誘導路で結ばれるという。

ビッグバード1

(第1旅客ターミナル)

遅い昼食

ビッグバード2 (第2旅客ターミナル)

ANA福岡行きに乗り込み、東京を離れる。


2008.11.28(金) OB会出席のため東京・神田「ぼたん」へ行く

2011-09-29 | 旅行記

  今日の街角風景は、東京勤務時代のOB会に出席するため東京・神田須田町の「ぼたん」

   へ行った道すがらである。

福岡空港出発ロビー

ANA東京行きに乗る

眼下に明石海峡大橋を見る

眼下に関西国際空港を見る

浜松町プラットホームから芝離宮公園を見る

新橋駅前界隈

昼食をとる

年末ジャンボ宝くじが発売された当日の新橋駅前

内幸町交差点から日比谷公会堂と国会議事堂を望む

外堀通りの銀座西5丁目付近を通って神田の「ぼたん」へ向う

神田須田町界隈  

手前の食べもの屋の奥の路地を左に入ったところが、OB会の会場の鳥料理の「ぼたん」。

この一角に明治・大正のころから営業をつづけている{食べもの屋}が四軒もあるとのこと。

鳥料理 「ぼたん」     東京都千代田区神田須田町一丁目

     池波正太郎の食卓の情景(昭和55年刊、新潮文庫)のなかに「神田連雀町」と題して、

     次のような一文がある。

     

        太閤・豊臣秀吉が、徳川家康を関東に封じ、家康が江戸に本城をさだめたのは、

       天正十八年(1590)八月というから、約四百年もむかしのことになる。

        以来、家康は関東の経営に情熱をかたむけ、草深い海辺の村にすぎなかった

       江戸は年ごとに城下町として発展し、ついには、徳川幕府の「本拠」となるに至った。

        その江戸の、神田・連雀町は・・・秀吉が没し、家康が、ようやくに「天下人」としての

       実力をそなえてきた慶長年間に、商人たちの品物を背負う用具である連尺造りの

       職人たちが多くあつまっていたので「連雀町」と名付けられたものだそうな。

        神田・連雀町という町名は、昭和のはじめに、もう消えてしまっている。いまの千代田

       区神田須田町一丁目と神田淡路町二丁目の内が、むかしの連雀町であった。

        私どもの年配から上の人びとが、その一角を、いまだに「連雀町」と呼ぶのは、

       ひとえに、むかしの東京をなつかしむがゆえである。

        というのも、この一角に明治・大正のころから営業をつづけている「食べもの屋」が

       四軒もあるからだろう。

        この一角は、ふしぎに、太平洋戦争の空襲にも焼け残り、むかしの東京の町の

       香りを辛うじて残していることも、理由の一つになっているのだろう。

        先ず「藪蕎麦」である。

        東京が誇り得る数少ない名店の一つだ。

        すぐ近くに、あんこう鍋の「いせ源」と、鳥料理の「ぼたん」が、戦前のままの古びた

       姿で、客を待っている。この二店、連日のごとく、いまも大繁昌らしい。それに汁粉屋

       の「竹むら」の四軒である。

        神田の須田町の交差点から、この一角に入って行き、細い道を曲って「ぼたん」の

       前へでると、入口の軒先に「ぼたん」と書いた行燈がさがっているのだ。

        旧蝋。ふと、前を通りかかって、なつかしくなり、ぶらりと入って見た。

        それこそ三十年ぶりに、であった。

        入って、突き当りの廊下の奥の、庭に面した座敷へ通されたとき、

        (この座敷だったな・・・)

        はっきりと、おもい出した。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

     池波正太郎が書いてから、30年近く経った今も、この神田須田町の一角は変わらない

     ように見えた。     

  

鳥料理 「ぼたん」   

朱塗りの箱火鉢で備長の炭を赤あかとおこし、鳥鍋で酒をのむ

「ぼたん」にて


2008.11.8(土) 山口県の萩のまちを行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、山口県の萩のまちを行ったときのものである。萩のまちは江戸時代

    から明治維新にかけての街並みが今にマッチして生きているまちである。

    萩城跡(指月城跡)から旧厚狭毛利家萩屋敷長屋を見て、萩城城下町を通って萩博物館

    へ行き、松陰神社を周って、萩有料道路の萩市側入口傍の道の駅「萩往還公園」へ至る

    道筋であった。

萩城跡  別名指月城(しずきじょう)跡  国の史跡  慶長9年(1604)毛利輝元築城

   日本海に張り出した指月山(標高143m)の詰の丸と、その山麓に梯郭式に本丸、二の丸、

   三の丸を配し、三重の堀を巡らした平山城であるという。一方、平山城ではなく平城と山城

   であるといい、他方、海城であるという見解もあるという。

   今は無いかつての天守は複合式望楼型五層五階で赤瓦葺きであったという。明治7年

   (1874)、廃城令により、天守、櫓などの建物が破却されたという。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

    この建物の前の通りにある土産物店で、旅の記念に萩焼の中皿5枚を求めた。

萩博物館

萩博物館の長屋門から萩の町並みを見る

萩博物館で昼食をとり、お土産に「夏みかん丸漬」を求めた。これがすこぶる美味。

松陰神社

明治23年(1890)創建

松陰神社境内にある吉田松陰幽囚の旧宅   国指定史跡  萩市大字椿東字新道

松陰神社境内にある吉田松陰幽囚の旧宅の案内板

松陰神社境内にある松下村塾   右手奥に少し見えるのが吉田松陰幽囚の旧宅

     吉田松陰が身分や階級にとらわれずに教育を行った松下村塾。わずか2年半の歳月

     であったが、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など幕末から明治維新の原

     動力となった逸材を育てた場所だ。

     松陰の講義は門人の求めに応じて、一人一人を相手とする個別授業の形で行われて

     いたという。そしてその方法は、松陰自身が

       「余は穏かに人を諭し、自ら悟り、自ら省みる所あらしむる様にと心掛くる者なり」

     と述べているように、門人の自己教育を重視するものであったという。

     

     吉田松陰が、門弟たちに向けた辞世の歌の一つが

           身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魄

     である。

松陰神社境内にある松陰歌碑

親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん      寅次郎

    吉田松陰、通称寅次郎。

    安政6年(1859)幕府は安政の大獄により、長州藩に松陰の江戸送致を命ず。松陰は

    老中暗殺計画を自供して、自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に

    処さる。享年30(満29才没)

    獄中にて家族に宛てた遺書に遺した辞世の歌が、この歌碑に刻まれている。

伊藤博文旧宅

萩有料道路の萩市側入口傍の道の駅「萩往還公園」    中央の道が復元された萩往還

   萩往還は、城下町萩と瀬戸内の港町、三田尻(防府)を結んだ街道で、萩藩主が参勤

   交代などで通ったため御成道(おなりみち)とも呼ばれ、山陰と山陽とを結ぶ萩藩内の

   主要な街道であった。

   道の駅「萩往還公園」には松陰記念館があって、松下村塾の講義室が復元展示されて

   いる。

萩往還公園

萩往還はトンネルの上を越えたであろう。


2008.11.7(金) 電気クラス会で長門湯本温泉に行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、電気クラス会に出席のため、長門湯本温泉に行ったことである。

 

電気クラス会が開かれた、山村別館     山口県長門市湯本温泉

 

     43年前に、卒業謝恩会で訪れたことがあるホテルだ。当時は木造の山村本館で

     あったが、その後建て替えられて山村別館となったという。本館跡は駐車場となって

     いるとのことだ。

 

山村別館 宴会場

 

電気クラス会

 

昭和40年の卒業32名で、現在30名の会である。

今日の会には12名が集まった。

 

二次会はカラオケルームでカラオケ競演と談笑であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日の長門湯本温泉の朝    正面の道を行くと大寧寺、俵山温泉に至る

 

長門湯本温泉の朝   右側にJR長門湯本駅  その前方の山裾の向こうに長門市街と日本海が広がる


2008.11.6(木) 長崎市立岩町の高台から城山町を眺望す

2011-09-29 | 旅行記

  今日の街角風景は、長崎市立岩町の高台から、僕の生まれ育った城山町界隈を眺望する。

長崎市の稲佐山の北端に位置する立岩    その下の高台のスーパーの駐車場

    ここから僕の生まれ育った城山町界隈を眺望する。長崎市城山町は長崎市街地の

    北部に展開する町であり、戦前の新興住宅街であり、原爆で壊滅し原子野と化した

    町である。

立岩町の高台から北の方を望む

    右側の赤い屋根は宝栄町の活水女学院高等部、中央の赤レンガ色の建物は平和町の

    国際文化会館、その斜め左前方の森が松山町の原爆落下中心地である。左側枠外に

    城山町がある。

立岩町の高台から北の方を望む

    中央やや左手の建物が九電長崎支店、この建物を含む前方および左方が城山町。

    右端のビルに囲まれた森が原爆落下中心地で、九電長崎支店との直線距離は

    300メートル位であろうか。原爆落下中心地と九電長崎支店の間の奥にレンガ色の

    二つのドームを持つ浦上天主堂が見える。僕は原爆で廃墟となった悲しくも美しい

    レンガ造りの、マリアや天使の像で守られた荘厳な浦上天主堂を、今でも瞼の奥に

    はっきりと見る。

僕の生まれ育った城山町界隈    中央白い建物は城山小学校

城栄町商店街    街路樹は南京ハゼ


2008.11.5(水) 「工業会」に出席のため長崎に行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、長崎勤務時代のOB会「工業会」に出席のため長崎に行った時の

    ものである。「工業会」は年に一度開かれており、これに出ることが楽しみなのだ。

「工業会」が開かれる長崎市筑後町のホテルセントヒル長崎

   あはれあはれ ここは肥前の 長崎か 唐寺の甍(いらか)に ふる寒き雨  (斉藤茂吉)

   歌人斉藤茂吉は、長崎医学専門学校の教授に任ぜられて、大正6年12月18日、午後

   5時5分に長崎駅頭に降り立ったと云われている。前述の歌は、この日の感銘だといわれて

   いる。

   唐寺の甍(いらか)にふる寒き雨・・と詠った唐寺とは、長崎駅前の丘にある筑後町の福済寺

   であったであろうか。あるいは福済寺と玉園町の聖福寺の二つの唐寺であったろうか。

   「工業会」が開かれる長崎市筑後町のホテルセントヒル長崎のわずか丘上に福済寺がある。

筑後町のホテルセントヒル長崎の前から西坂町方面を見る   

中央に尖塔を持つ建物は日本26聖人記念聖堂

筑後町から坂下の中町あたりを見る

ホテルの宴会室で見た斉藤茂吉の歌を書いた掛軸

長崎の 昼しづかなる 唐寺や 思ひいづれば白き さるすべりの花   (斉藤茂吉)

     斉藤茂吉は37歳の晩春から大正10年3月までの丸3ヵ年、ホテルのすぐ近くの

     上町(当時は東中町)に住んだという。

     この「唐寺や」の唐寺は、これまたホテルから程近い聖福寺であろうか。

工業会

夜の思案橋通りを船大工町方向へ歩く

船大工町のバービルについた

ラウンジ シルク・ロード

ラウンジ シルク・ロード

ラウンジ シルク・ロード

ラウンジ シルク・ロード


2008.10.18(土) 福岡の鎮懐石八幡宮に遊ぶ

2011-09-29 | まち歩き

  今日の街角風景は、福岡県糸島郡二丈町深江の鎮懐石八幡宮に遊んだ時のものである。

   鎮懐石八幡宮御実記を始め、古事記、万葉集の鎮懐石(ちんかいせき)を詠める歌などに

   よると、神功皇后(息長足日女命 ; おきながたらしひめのみこと)は応神天皇を懐妊しな

   がらこの地を通って、朝鮮半島へ兵を出された時に、卵形の美しい二個の石を求めて肌身

   に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られたという。願いは叶って帰国後、宇美(うみ)の里で

   応神帝をご安産された。

   そこで神功皇后が経尺の璧石(たまいし)を子負ヶ原(こぶがはら)の丘の上に、お手ずから

   拝納されてより、世人は鎮懐石と称して、その奇塊を崇拝するようになったという。

   昔は、深江宇津ノ上の石垣で築かれた高台に、ご社殿があり、数百年の年輪を刻んだ大き

   な松の木々が鬱蒼と生い茂っていたが、場所が狭く祭典にも不便を来たしていたので、昭和

   11年(1936)に南側山手の字萩ノ原の広い土地にご遷座し、幣殿、拝殿などを新築したと

   いう。

鎮懐石八幡宮  福岡県糸島郡二丈町深江子負ヶ原(こぶがはら)

鎮懐石八幡宮の由来を書いた石碑と柵内に祀られた舟繋石(ふねつなぎいし)

   鎮懐石八幡宮の鎮座の由来を刻んだ石碑は文化11年(1814)に建てられたという。

   石碑の碑文は刻んだ文字が風化磨耗しており、今はまったく読むことが出来ない。

鎮懐石八幡宮から北の方を見る   JR筑肥線の向こうは深江の海である

   昔は、鎮懐石八幡宮の社殿は、深江宇津ノ上の石垣で築かれた高台に、数百年の年輪

   を刻んだ大きな松の木々が鬱蒼と生い茂るなかにあったが、場所が狭く祭典にも不便を

   来たしていたので、昭和11年(1936)にこの萩ノ原の広い土地に遷座したという。

   

   昔の鎮懐石八幡宮は、ここから北の方の程近い唐津湾東部の深江の砂浜に石垣で築かれ

   た高台にあったことになる。

鎮懐石万葉歌碑     安政六年(1859)六月建立の九州最古の万葉歌碑とか

   万葉集巻五ー813および814の歌と怡土郡深江村の鎮懐石伝承が書かれている。

   天平元年(729)11月のころ、筑前の長官・山上憶良は管内巡行中、鎮懐石伝承の

   ふるさと、筑前の国怡土(いと)郡深江(ふかえ)村(現在の福岡県糸島郡二丈町深江)

   を訪れ、伝承の詳細と、みずからの感動を詠んだ長歌一首(万葉集巻五ー813)と

   反歌一首(万葉集巻五ー814)を詠んだ。 

鎮懐石万葉歌碑

天地(あめつち)の 共に久しく 言ひ繼げと

此の奇魂(くしみたま) 敷かしけらしも      

山上憶良 (万葉集巻五ー814)

   筑紫豊 訳 ; 天地のある限り、永久に言い継げと、この神霊をお置きになったのだろう。

鎮懐石万葉歌碑

左手に鎮懐石八幡宮  福岡県糸島郡二丈町深江子負ヶ原(こぶがはら)


2008.10.17(金) 福岡・雑餉隈界隈に朝鮮朝顔を見る

2011-09-29 | まち歩き

   今日の街角風景は、福岡・雑餉隈(ざっしょのくま)界隈の医院に咲く朝鮮朝顔と

    魚と菓子を買いに行った雑餉隈(ざっしょのくま)界隈のJR南福岡駅周辺の風景である。

福岡・雑餉隈(ざっしょのくま)界隈の医院に咲く朝鮮朝顔   トランペットリリーともいう

朝鮮朝顔  曼陀羅華(まんだらげ)  トランペットリリー    チョウセンアサガオ(ナス科)

     全株にアルカロイドを含み、葉と種子を薬用にする。華岡青洲が乳癌の手術に用いた

     麻酔剤には、この種子が配合されていたという。民間ではぜんそくの発作を止めるため

     に種子数粒を服用したようであるが、量を誤ったりすると猛毒のため発狂状態になる

     とのことで、キチガイナスビの名があるという。またマンダラゲ(曼陀羅華)ともいうと。

朝鮮朝顔  曼陀羅華(まんだらげ)  トランペットリリー    チョウセンアサガオ(ナス科)

JR南福岡駅

JR南福岡駅駐車場

プラットホームに隣接している

JR南福岡駅舎を出て右手方向を見る

JR南福岡駅舎を出て右手方向奥を見る   西鉄雑餉隈駅に通ずる元町商店街

JR南福岡駅舎2階から正面方向を見る

JR南福岡駅舎2階から正面方向を見る

JR南福岡駅舎1階の商店街


2008.10.5(日) 博多座に「恋ぶみ屋一葉」を観る

2011-09-29 | まち歩き

  今日の街角風景は、福岡市博多区下川端町の博多座に浅丘ルリ子主演の「恋ぶみ屋一葉」

  を観劇した。次の日のテレビは10年前に開場した博多座の入場者数が500万人を越えたと

   伝えていた。

福岡市博多区下川端町の博多座    前方は福岡アジア美術館

福岡市博多区下川端町の博多座正面入口付近

「恋ぶみ屋一葉」

    明治43年の東京を舞台に、樋口一葉にあこがれ今は恋文屋を営む奈津(浅丘ルリ子)

    と芸者嫌いで潔癖性の大作家・加賀美涼月(近藤正臣)、それに死んだはずの芸者・小菊

    (酒井和歌子)らが繰り広げる、明治の日本のやさしい恋の物語である。と宣伝文にいう。

    浅丘ルリ子、近藤正臣、酒井和歌子の幕毎の出入りは全て花道を使うという舞台であった。

    また舞台上の新聞売りに、博多の町にチンチン電車が開通したと言わせるのも面白かった。

博多座ロビー    前方に入場口

博多座1階から2階を見る

  博多座1階    弁当の屋台が並ぶ

博多座1階

博多座

博多座1階

博多座1階  花幸(はなこう)

博多座入場口から1階に通じる踊場


2008.9.15(金) 栗の実生る

2011-09-29 | 日記・エッセイ・コラム

今日の街角風景は、栗の実が生り、収穫したことである。渋皮煮にして若干の砂糖を

    加え、とっておきのコニャックを入れて渋皮マロン・グラッセとした。きわめて美味であった。

栗      クリ(ブナ科)秋の季語  

毬栗(いがぐり)、落栗、栗笑む、栗拾い、栗山、栗林、焼栗、栗飯などとともに秋の季語

行く秋や 手をひろげたる 栗のいが      芭蕉

収穫した栗


2008.9.9(火) 長崎の城山町界隈を行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、爆心地から直線距離で1キロメートル位にある長崎市の城山町界隈

    である。僕の人生の47年間を過ごした街である。

城山町二丁目市場の外観   店は建物の中央通路に沿ってある

    昭和30年ごろ建った当時の花形市場だった。今は魚や、肉や、野菜や、果物やなど

    6、7店が営業しているだけだ。かってはこの市場から御用聞きが来て、配達がなされて

    いた。周辺に数軒あった、このような市場は、今はこの一軒をのこすのみ。

    ここには中華菓子の「おひねり」などの製造所もあり、勿論販売もしている。これが美味い。

城山町二丁目市場からよく行った稲佐山をみる

長崎に行く途中に立ち寄った長崎自動車道金立(きんりゅう)SA


2008.8.21(木) 九州国博に島津の国宝と篤姫の時代展をみる。

2011-09-29 | まち歩き

今日の街角風景は、福岡県太宰府市の九州国立博物館に島津の国宝と篤姫の時代展

    をみたことである。

    九州国立博物館は、国内で4番目の国立博物館として平成17年(2005年)10月16日

    オープンした。

    今日見た特別展「島津の国宝と篤姫の時代展」は、42日間の会期に入場者数15万人を

    越えそうという。その噂に違わず、特別展の場内は人々であふれかえっていた。

福岡県太宰府市の九州国立博物館

太宰府天満宮の参道から境内に入ったところにある菅原道真の歌碑

東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじな志とて 春なわすれそ

太宰府天満宮の太鼓橋を横目に進む

太宰府遊園前広場        太宰府天満宮の梅園を左に見る

右に行けば、九州国立博物館へのエスカレータートンネル入口だ

虹色にライトアップされる動く歩道トンネル    この先が九州国立博物館となる

島津の国宝と篤姫の時代展      九州国立博物館

この時代展の出口付近に現在放映中のNHK日曜ドラマ「篤姫」に

使われた衣装が展示されていた。

島津の国宝と篤姫の時代展      九州国立博物館

国宝 薩藩勝景百図(島津家文書の内) 江戸時代 文化12年(1815)

ここで昼食とした         太宰府天満宮参道

小野筑紫堂の梅ヶ枝餅をお土産とする       太宰府天満宮参道