今日の街角風景は、福岡県太宰府市観世音寺4丁目の大宰府政庁址である都府楼址に
遊んだ時のものである。
「天皇(すめろぎ)の遠(とお)の朝廷(みかど)」と詠われた大宰府が、筑前国御笠郡に設置
されたのは、斉明天皇・天智天皇母子二代にわたる百済再興に係る軍事の失敗によるもの
であったろう。
663年、日本が百済を救援して唐・新羅軍と朝鮮半島西岸で戦った白村江(はくすきのえ)
の戦いの敗戦直後、現在地(太宰府市観世音寺4丁目)に造営されたとするのが一般的
だという。
当時の敗戦によって、対馬・壱岐の二島と筑紫路とに防人を配し、烽火(とぶひ)を設け、
水城(みずき)の大堤を造り、都府楼の背後の大野山(四王寺山)などに二城を築くなど
国防を強化した。
当初、軍政府的な色彩が強かった大宰府も、国家の外交儀礼の府、九州の総督の府
としての性格を強くしていった。
現在地に建つ大宰府政庁(都府楼)は飛鳥、奈良、平安時代の約400年間にわたって
存在したと云われている。数度の火災や天慶4年(941年)の藤原純友の乱による大宰
府焼き払いにも係らず、その都度、大宰府は再建されていたという。そして考古学的には
11世紀後半代には現在の大宰府政庁跡(都府楼跡)の建物は廃絶したと考えられている
という。
では、現在の大宰府政庁跡(都府楼跡)の建物が廃絶したあとの政庁はどこへ移った
のであろうか。そこのところは未だ分かっていない。
大宰府の終焉は、鎌倉時代の蒙古襲来(1274年文永の役、1281年弘安の役)の後に
鎌倉から室町、戦国時代へと変わる社会の変遷のなかで、事実上の終焉に向っていった
のであろう。
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大宰府政庁前広場と考えられるところから都府楼(大宰府政庁)址を見る
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大宰府政庁中心部と考えられるところから都府楼(大宰府政庁)址を見る
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都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から南南西の方を望む
左側の碑の後方が天拝山(257メートル) 菅原道真が天に向って無実を訴えた
という山である。
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都府楼(大宰府政庁)正殿址から北の方を見る
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都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から南の方を望む
大宰府政庁は、回廊の東端から西端までが112メートル、南北の築地間の距離が
211メートルという広大な区画であったという。
都府楼址 安西 均
むかし
ここに大宰府正庁があった
身じろぎもせず眠っている
このさびしげな礎石のうえに
「遠(とお)の朝廷(みかど)」がそびえていた
旅びとよ
見えざる朱(あけ)の円柱にもたれて
しばしを憩いたまえ
見えざる甍(いらか)を濡らす青磁の雨も
やがて霽(は)れるであろう
まぼろしの朱雀(すざく)大路のかなたから
淡い水たまりを踏みながら
天の牛車(ぎっしゃ)も帰ってくるだろう
心しずかに砂の忍び音(ね)をききたまえ
千年の梅が香を襟に挿して
ふたたび旅をつづけたまえ
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都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から北の方を望む
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桜の木の向こう側に大伴旅人の亡妻挽歌の万葉歌碑が建つ
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都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から北の四王寺山の麓にある万葉歌碑
大伴旅人の亡妻挽歌の万葉歌碑
都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から北の四王寺山の麓にある万葉歌碑
万葉集巻五ー793にある大伴旅人のうたである。
大宰帥大伴卿の、凶問(きょうもん)に報(こた)ふる歌一首
余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
世の中は 空(むな)しきものと 知る時し
いよよますます 悲しかりけり 大伴旅人
神龜五年(728年)六月二十三日
大意 : 世の中は空しいものだとつくづく知る時に、いよいよますます悲哀の感を
新たにする。
この歌は神龜五年(728年)六月二十三日の日付のある旅人の「凶問に報(こた)
ふる歌」である。このころ旅人の周辺では大宰府に同伴した妻・大伴郎女(おおとも
のいらつめ)の死だけでなく、かなり不幸なできごとがあったようにいわれている。
大宰帥大伴旅人卿の亡妻挽歌であろうか。
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都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から北西の方にある
坂本八幡宮近くの駐車場
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都府楼正殿址から北西の方にある坂本八幡宮近くの駐車場に近い万葉歌碑
背後の森は蔵司(くらつかさ)地区
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都府楼正殿址から北西の方にある坂本八幡宮近くの駐車場に近い万葉歌碑
天平2年(730年)正月13日、大宰府の帥・大伴旅人(当時66歳)は自邸において
府官および管下諸国の国史から沙弥の満誓までを招き、盛大な梅花の宴を催した。
この時の梅花の歌三十二首が万葉集に載せられている。そのトップを飾る歌が、この
万葉歌碑に刻まれた歌である。
正月(むつき)立ち 春の來(きた)らば 斯(か)くしこそ
梅を招(を)きつつ 樂(たの)しき終へめ 大弐紀卿
(万葉集巻五ー815)
大意 : 正月になって、春が来たらば、このように、梅の花を招き寄せて
楽しいことの極みを尽そう。
大弐紀卿 : 当時、大宰大弐であった紀氏の人。名は未詳。