深溝城は愛知県幸田町に有リます。深溝は「ふこうず」と読みます。
松平家忠は、徳川家康とほぼ同時代で、家忠が残した日記・松平家忠日記は簡素な文体で、自身の日常生活から徳川家康にまつわる信康事件、本能寺の変、関東移封などが淡々と綴られ、当時を知る上で貴重な資料として評価されています。
合戦に出て殺し合ったであろう日の日記でも、日常の仕事に行って来たように淡々と書かれていて驚きます。
遺構は土塁と地形のみ 写真右側が土塁 意外に高い
深溝城には江戸時代に深溝陣屋が置かれたが、今のこる土塁は往時のものとされます。
城址は工場や住宅地となりましたが、土塁くん、よくぞ残った!という感じです。
深溝城 土塁の遠景 中央の土壇が土塁
家忠日記によると、家康が岡崎から浜松に移り、家忠は出仕のため深溝を朝出発して約60km先の浜松城にその日のうちに到着しています。強行軍の様子もないので当時の人は、丈夫だったのかなと思うと同時に、秀吉の「大返し」も、当時の常識の範囲だったかもしれないと思う記述です。深溝城 城址碑
深溝城の主郭に当たる部分には工場が建ち、遺構も少ないですが、立派な城址碑が建っています。
本光寺の深溝松平家墓所
おなじ幸田町に深溝松平家菩提寺の本光寺があり、境内には初代から明治に至るまで歴代の墓所があります。江戸時代、転封となった大名は墓所も転封先へ移動することが多かったが、深溝松平家は転封先の肥前国・島原藩から亡骸を本光寺まで移送して葬りました。
深溝城を見学する際には、合わせて本光寺も訪れることをおすすめします。
家忠は関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍に攻められて全滅した伏見城の戦いで討ち死にしています。