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東海古城研究会 第39回城郭研究セミナー開催           高橋陽介氏、千田嘉博氏が講演

2018-08-25 | 歴史
8月19日(日) 東海古城研究会の毎年恒例の城郭研究セミナーが開催されました。会の歴史を物語るように、回を重ね今年は第39回でした。毎年会員さんの研究発表・講演とゲスト講師の講演が行われます。

会員の高橋陽介さんの講演
 今年の会員さんの講演は「関ヶ原の合戦はなかった」で一躍有名になった高橋陽介さんでした。高橋さんは一次資料から歴史の真実を追求する研究に取り組んでおられ、今回も古文書の翻刻文を読み下し現代語訳で分かりやすく解説を加えての関ヶ原の合戦関連の講演でした。
 吉川広家書状案、神戸五兵衛覚書、藤堂家覚書、生駒利豊書状案をもとに  (1)石田三成の陣は笹尾山ではなくて藤下地区だった。(2)徳川家康は美濃赤坂にいて、桃配山に出陣していなかった。 (3)大谷吉継は大垣から関ヶ原に最後に到着したので、真っ先に東軍に討ち取られた。などの通説とは大きく異なる内容で、通説の歴史に詳しい会員さんの戸惑いが感じられました。

奈良大学 千田嘉博氏の講演
千田先生は愛知県出身で、中学生時分から東海古城研究会の会員だったそうです。今回はOBとしての特別ゲストでした。子供の頃から知っているという先輩会員の方が多かったのですが、僕は初めてお目にかかりました。多くのテレビ番組に出演されて、何度も見ているのと当会のOBとお聞きして、なんだか初めてお目にかかったような気がしませんでした。
 
 講演のテーマは「信長の城の歴史的意義」でした。 (1)信長時代の尾張に石垣の城を築く技術がなかった。近江が先進的で、美濃は尾張よりも進んでいた。 ⑵岐阜城に入った信長の居館は山麓に有ったとされているが、実際は山上に居住した。 (3)安土城の大手道は「天皇の輿が通れるように広かった」が通説だが、天守付近の大手道は狭く曲がりくねっているので、輿では通れない。 (4)天正遣欧使節がヨーロッパへ持っていった「安土城下町屏風」のウインゲの模写図が発見され、千田先生の研究で、これまでの安土城の復元案で発掘調査結果と整合しなかったいくつもの疑問が解消された。など

会場は満席、質疑応答で熱気があふれる