山家城は長野県松本市入山辺にあります。山家はヤマベと読みます。
城の歴史は古く15世紀後半には山家氏を小笠原氏が攻め小笠原氏が支配したとされます。その後天文十九年(1550)には武田氏の筑摩郡侵攻で小笠原氏の林大城などとともに自落したと伝わります。
山下の徳運寺が山家氏の館跡と伝わるので居館と詰めの城という関係だったかもしれません。
今回は、三好長慶の飯盛城の麓に住む友人が織田信長の安土城にさきがけて築城された飯盛城で石垣が多数発見されたことをきっかけに石垣に目覚め、山家城の石垣も古いという情報を得て見学をすることになりました。
※松本市文化財調査報告№224「小笠原氏城館群」松本市教育委員会2016.3 を片手に出かけました。
山家城 徳運寺からの比高はⅠ郭まで200m、Ⅲ郭(最高所)まで250m Ⅰ郭が主郭とされる
山家上の登山道は複数ありますが、最短距離の①を通るルートを登ることにして出発しました。害獣ゲートのところに案内板がありましたが、このルートは倒木が多く通行できないとなっていました。スタートして間もない時間帯で同行者たちも元気いっぱいだったのでエィヤッ!と②の斜面を尾根目指して上りました。途中堀Cの竪堀部分になったので堀底を這い上がりましたがその後の足取りがすっかり重くなりました。
後刻、松本市教育委員会 文化財課 史跡整備担当の方にお聞きしたところ「今は、徳運寺墓地の裏から尾根道を登る④のルートをお勧めしています」とのことでした。Web検索で「松本の山城」で検索すると松本市のホームページの中で松本の山城の情報を多数紹介してあって、行き方情報も詳しく載っていますので、事前にチェックしていくと無駄がないですね。これも担当の方にお聞きしました。
※通常、尾根を断ち切っている堀を堀切、斜面を下っている堀を竪堀と言いますが、山家城の堀は堀切がそのまま竪堀として麓 の方へ長く伸びている場合が多いので、図中ではまとめて「堀」としました。
山家城 Ⅰ郭(主郭)の案内板を見る同行者 中央奥に小祠 その奥に高い土塁がある
堀C、堀B,Ⅱ郭を経てⅠ郭に着きました。Ⅰ郭南西の虎口から主郭内に登りましたが、ここまでの道で石垣を見ることはありませんでした。Ⅰ郭の周囲は土塁が巡っていて小祠の裏の土塁は一段と高くなっていました。
山家城 Ⅰ郭東辺の土塁の切れ目から出ると石垣が有った! 切れ目から落ちた転落石が見える
東辺の土塁の切れ目は後世の破壊道か崩落によるものか判然としませんでしたが、ここから外に出て土塁の外側を見ると石垣が有りました。切れ目は破壊道か自然崩落か判然としませんでしたが転落石の様子からすると自然崩落の可能性が高そうに思いました。
山家城 Ⅰ郭東辺の石垣 3m程の高さがある
石垣は付近で産出したものと思われますが、一見すると扁平な石を単に積み重ねただけの様に見えます。これで400年以上も孕みがほとんどない状態を保ってきたことに一同驚きの声を上げました。
山家城 石垣は東面から北面に曲線で続いている
北面に回り込んできた石垣は北面の途中で終わっているように見えます。この先も石垣が続いているかどうかは表面観察ではわかりませんでした。掘ってみないとわからない状態ですので「後究を待つ」ということですね。
山家城 Ⅰ郭石垣の内部には不揃いの小石が見える
城郭研究では、「石垣」は裏込め石があるものとされ、裏込め石がない場合には「石積」と定義されているようです。山家城は石垣と呼べるのか?築石(石垣の表面の石)の間から中を覗いてみると、小ぶりの不揃いの石が見えていました。これが裏込め石かどうかはっきりしませんが、裏込め石ならば石垣とよんでもよさそうだと思いました。
山家城 Ⅲ郭の最高所に祀られている秋葉神社 今もお参りが絶えないようだ
Ⅰ郭とⅢ郭の間の尾根筋には5条の大きな堀が有りました。堀は麓に向けて長く切落ちていて圧巻でした。石垣と並んで山家城の見どころと言っても良いみごとな遺構でした。Ⅲ郭の東には堀Fがありその先にも遺構がありますが今回は時間の都合で堀Fまで見学して引き返しました。
山上の神社は、お参りが途絶えて荒れ放題になっているのをよく見かけますが、ここでは比高250mもある秋葉神社へのお参りが今も続いているようで、しめ縄などが新しくなっていました。
下山はⅠ郭から秋葉神社参道と標識のある③を下りました。この道は踏跡もしっかりしていて、今もお参りが絶えないことがわかりました。
山家城 徳運寺を東情報から見る
帰り道で徳運寺を見ると本堂の屋根の存在感に圧倒されました。館の跡に徳運寺があると言われますが、徳運寺も古いお寺なので館が付近にあったのかもしれないと想像してみました。
今回は、山城は初めてという同行者もいたので心配しながらでしたが、250mの比高を登り切って山家城の見どころを堪能出来てよかったです。