黍生城は愛知県豊田市近岡町字西キビウにあります。その1ではⅠ郭まで見学しましたが、その2では北、東と南に設けられている遺構を見学したいと思います。黍生城は平安末期に初期の築城がなされたとされますが、足助の城塞群の最高所に位置するところから戦国期まで利用されたと考えられています。従って城郭遺構は改修を受けた可能性があり近年のハイク道整備も加わっている姿となっていると思われます。
今回の資料も (1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001 と (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 などです。 ※黍生城 その1→こちら
黍生城 南、東、北の尾根は堀切で断ち切り竪堀で侵入を遮断している
黍生城見学の課題は、資料によると平安末期に初代足助氏が黍生城を築き居住したとされますが、山上の城郭に居住した痕跡があるのか、山下に居館があったのかを確認し、往時の城道も確認するというものでした。
その1では主に黍生城の城道を探りましたが、その2では居住の可能性を考えながら見学したいと思います。
黍生城 Ⅰ郭南辺の切岸 西から
Ⅰ郭には土塁が見当たりませんでしたが、守りの要として自然地形を活かした切岸が見事でした。
黍生城 Ⅰ郭南下のⅡ郭 東から 右上にⅠ郭
Ⅰ郭の南側下部にはⅡ郭とⅢ郭が設けられていました。Ⅱ郭は小屋掛けが可能と思われる面積がありました。
黍生城 Ⅲ郭 西から 左上にⅡ郭
Ⅲ郭は小規模な平場で、今見ると傾斜がありますが、風化によるもののように見えました。往時は水平面でⅡ郭の切岸を削り出していたようにも見えました。小さな小屋なら建ちそうな面積でした。
黍生城 竪堀E 下から
Ⅱ郭、Ⅲ郭の西側には資料(1)で描かれている浅くて長い竪堀Eが見られました。資料(2)では描かれていませんでしたが竪堀と見ても良さそうに思いました。
黍生城 堀切B 東から 左上にⅠ郭
堀切BはⅠ郭の北側尾根を断ち切っていました。風化によりかなり埋まっている印象でした。往時はもっと深い堀切だったのではないでしょうか。
黍生城 堀切C 東から 自然地形か?
堀切Cは幅広で浅い地形でした。資料(1)、(2)のいずれにも描かれていますがヒョットすると自然地形かもしれないと思える堀切でした。
黍生城 堀切A 南から
堀切Aは東側の尾根を断ち切る役割だったと思われますが、堀切の中央部に土橋状の地形があり、道エが通っていました。
黍生城 道 エ はハイク道?城道?
道 エは図2のように山下の林道ウに登山口がありました。この道を登ると一旦林道ウに出て東口から登ると堀切Aに出ます。この道はハイク道として黍生山登山のメインとなっているようですので後世のハイク道と考えましたがどうでしょう。
黍生城 堀切A越しに道 エ を見る
堀切Aの中央部に土橋状の地形があり、道 エ が通っていました。道 エ は近年の黍生山登山のハイク道のメインですので土橋状地形はハイク道で整備されもので、城道ではないと思いました・・・が
黍生城の歴史は長いので山下の状況の変化で城道が エ だった時もあった可能性は否定しきれないと思い直しました。
黍生城は初代足助重長の居城とされますが、居住したかどうかは?でした。山下に居館があった可能性もありますが伝承もなく地形からの確認はできませんでした。
黍生城は比高が250m近くある山城ですが、人気の黍生山登山のハイク道が整備され登りやすく、冬場の見学では雪をかぶった御嶽山も拝めて良かったです。
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