宝島のチュー太郎

酒屋なのだが、迷バーテンダーでもある、
燗酒大好きオヤジの妄想的随想録

新聞配達員時代その1

2022年05月12日 21時03分29秒 | 昔のこと




 朝日新聞中村橋販売店、これが、私の生涯初めての職場となった。
最初に、その年に入った関東圏の朝日新聞奨学生全員が或る所に集められた。
それが何処だったかは覚えていない。
そこで、いわゆるオリエンテーションを受ける。
そして、それが終了すると、各販売店のオーナーが自店に配属された奨学生を迎えに来るといった段取り。

 私を迎えに来たのは、中村橋店の所長ではなく、照井金次郎というおじさん。
実は彼が、中村橋店と、その隣の富士見台店のオーナーだということを知る。
そして、富士見台店に配属されたもう一人の同僚とご対面。
帰途、その3人でレストランに寄り、夕食をご馳走になる。
そこで、照井オーナー曰く、「儂は秋田の出なので、主に秋田の子を取るが、河端くんは佐藤くんと同じ明治大学なので揃えたんだ」と。
そう、富士見台店の同僚は、佐藤という秋田県湯沢出身とのこと。
私が法学部で、佐藤は経営学部ではなかったか。
以来、中村橋店と富士見台店の、姉妹店としての交流を通して、佐藤とも次第に親しくなっていった。



 中村橋店の建物は、古くて細い4階建てのビル。
1階が作業場と、その奥に食堂。
2階が所長家族の自宅。
3階と4階が従業員の部屋。
そして、屋上に共同の洗濯機と物干しがあった。
いや、厳密には、屋上からの見晴らしの記憶がない。
なので、もしかすると、開かずのドアまでで、その踊り場に洗濯機があった?
一つ覚えているのは、その踊り場の椅子に腰かけて吉本隆明を読んでる時に、心地よい風が吹いたことだ。
てことは、やはりドアは開いた?
これらは、過去という霧の中で、ぼやけてしまっている。

従業員の部屋の配置は、階段を上がってすぐ右手が三畳間、その奥にやや広めの部屋が一つ?二つ?
すぐ左手が共同トイレで、その奥に広めの部屋、間にもう一部屋あった?
そして、廊下の反対側に洗面台があって、その先は窓になってたんじゃないかな?
このように、もううろ覚えだが、そうした配置の部屋が三階と四階の二層になっている。


 文字通り『同じ釜の飯を食う仲間』は、確か私を含めて6人。
共に、拓大4年生で秋田出身の首藤さんと川上さん。
武蔵大3年生で鹿児島出身の吉田さん。
東京音大2年生で北海道は留萌出身の加藤さん。
池袋の予備校一年生で、秋田出身の・・・名前は忘れた。
他に、専業の方とバイトの高校生、どちらも名前は覚えてない。

 要するに同じ仕事をする人が集まった寮生活の様なもの。
当然、触れ合う時間が長い分、思い出も多い。



 一日のルーティンはこう。
3時起床 折り込みを本紙にセット。
担当区分およそ300軒余りを自転車で配達。
6時 配達完了。
朝食。
自由時間。
寝てもいいが、学生なので、それぞれの学校へ出向く。
15時 夕刊の配達。
18時 配達完了。
夕食。
19時 翌日の折り込みをセット。
これは、今の様に機械に任せるのではなく、全て手作業。
円形に広げたそれらを、サックを入れた人差し指と親指で一部ずつ繰っていって、まとめる。
週末には、それが一度ならず二度になることもしばしばあった。
20~21時 業務終了。

その他に、大きな仕事として集金作業があるので、日曜日は大抵それに費やされる。
独身のアパート暮らしの顧客は在宅率が低く、夜討ち朝駆けも必要。

配達着はいつもインクで真っ黒。
そして、四六時中配達の事が頭から離れない。


 私は、半年過ぎる頃にこう思った。
『これじゃあ花の東京に出てきた意味がない』と。
そして、所長に「丸一年勤めたら辞めさせてください」と告げる。
すると所長は「そうか、長いことこの商売してるけど、半年も前からちゃんと断りを言いに来たのはおまえが初めてだ。いいだろう、わかった」と快諾してくれた。

 そんな訳で、私の住み込み新聞配達員としての暮らしはきっちり一年で終わる。
ただ、短くとも、濃密な関係の仲間との一年なのだから、様々な記憶が残っている。

 次は、そんなところから書いていこうと思う・・・


続く







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