
三日目の朝を迎えました。

白爺たちは7時に朝食を食べて、ホテルがチャーターしたタクシーで西ノ島の別府港に着きました。

「高速客船レインボー2」は8時にこの港を出港します。
白爺たちは早々に乗船して、最後の訪問島「隠岐の島」に向いました。

船内は全て座席になっていて、航行中は流木などに激突した時に怪我をしないように、シートベルト着用が義務付けられていました。
船内の案内では、航行速度は時速70㎞と伝えていました。

中ノ島の菱浦港に立ち寄ったレインボー2は、8:48Amに隠岐の島西郷港に入港しました。
桟橋を降りた待合室には、白爺が昔媒酌をした後輩のお父さんが経営している、お土産店がありました。

白爺は挨拶をした後、歩いて5分位のところに建つ「隠岐プラザホテル」に、荷物を置きに立ち寄りました。
そして、フロントのアドバイスを受け、タクシー観光を計画しました。


タクシーが一番先に案内してくれた名所は、「隠岐の国造・億岐家」でした。
隠岐の島は、奈良時代には中央政府から隠岐国府として国司が任じられていたのだそうです。
小さな島4つに、因幡・但馬・播磨・甲斐・武蔵などと同格の国司が任じられていたとは、白爺驚きました。

億岐家(この家の苗字は隠岐と書かない)は、隣の神社の神官もしていたようだと説明がありました。

この家には、国の重要文化財に指定されている「隠岐国駅鈴」「隠岐倉印」「光格天皇御下賜唐櫃」が保存されているそうです。
駅鈴が用いられたのは、今からおよそ千三百年前の奈良時代頃。

日本に現存する駅鈴は、ここ隠岐・玉若酢命神社にある二個だけだと言われています。

写真の駅鈴は、昨夜宿泊したホテルのフロントに飾ってあった模造品です。
昨夜の食事の時に、支配人の方が白爺のテーブルに来て、駅鈴の謂れを説明してくれました。
そのため億岐家での説明は、白爺上の空で聞いていました。

支配人から聞いた面白い話を紹介しましょう。
①諸国からの貢税運搬や官使の通行には馬が使われていた。
②馬は疲れるので20㎞程度ごとに駅をつくり馬の交代をした。
(馬に澤の水を飲ませることから、馬偏に澤の旁を書き 駅という字が出来たそうです。)
③駅に近ずくと使者側は駅の字を相手に向け、鈴を逆さにして鳴らした。
(逆さにしないと鳴らない)
④迎える側は、鈴の字を相手に向けて逆さに振り、引き継いだ。
⑤迎えた側は、引き継いだ運搬物を次の駅まで運び、おなじ事をしていた。

天皇陛下は、三種の神器のほかに駅鈴・印・唐櫃の鍵も伝国の御璽として引き継がれるそうですが、隠岐の国の駅鈴も大事に保管されているそうです。
各国の駅鈴は、戦争中に金属供出のため国に納められてしまい、残っていないのですが、隠岐だけは連絡不十分だったのか現在も残っているのだそうです。
なお、スポーツの駅伝競争はこれを真似て、駅鈴の変わりにタスキを引き継いで行われることになったのだそうです。

(これだけ覚えておくのは大変でした。サー忘れよう。)


億岐家の庭には、節が自然と捩れてしまう、「仏面竹」がありました。
説明を聞いている途中から、バス1台の団体さんが来たので、白爺たちは早々に隣の玉若酢命神社の参拝に向いました。
タクシーの運転手さんは、白爺が歩いていくからと言うのに義理硬く車に乗せてくれました。
隠岐のタクシー運転手さんは、皆観光ガイドの勉強をしているようで、詳しく説明をしてくれますし、希望のところにはどこにでも止めてくれるので、非常によい思い出をつくることが出来ました。
次回は、玉若酢命神社からの観光です。少しお待ちください。


白爺たちは7時に朝食を食べて、ホテルがチャーターしたタクシーで西ノ島の別府港に着きました。


「高速客船レインボー2」は8時にこの港を出港します。
白爺たちは早々に乗船して、最後の訪問島「隠岐の島」に向いました。


船内は全て座席になっていて、航行中は流木などに激突した時に怪我をしないように、シートベルト着用が義務付けられていました。

船内の案内では、航行速度は時速70㎞と伝えていました。

中ノ島の菱浦港に立ち寄ったレインボー2は、8:48Amに隠岐の島西郷港に入港しました。

桟橋を降りた待合室には、白爺が昔媒酌をした後輩のお父さんが経営している、お土産店がありました。


白爺は挨拶をした後、歩いて5分位のところに建つ「隠岐プラザホテル」に、荷物を置きに立ち寄りました。

そして、フロントのアドバイスを受け、タクシー観光を計画しました。



タクシーが一番先に案内してくれた名所は、「隠岐の国造・億岐家」でした。

隠岐の島は、奈良時代には中央政府から隠岐国府として国司が任じられていたのだそうです。

小さな島4つに、因幡・但馬・播磨・甲斐・武蔵などと同格の国司が任じられていたとは、白爺驚きました。


億岐家(この家の苗字は隠岐と書かない)は、隣の神社の神官もしていたようだと説明がありました。


この家には、国の重要文化財に指定されている「隠岐国駅鈴」「隠岐倉印」「光格天皇御下賜唐櫃」が保存されているそうです。
駅鈴が用いられたのは、今からおよそ千三百年前の奈良時代頃。



日本に現存する駅鈴は、ここ隠岐・玉若酢命神社にある二個だけだと言われています。


写真の駅鈴は、昨夜宿泊したホテルのフロントに飾ってあった模造品です。
昨夜の食事の時に、支配人の方が白爺のテーブルに来て、駅鈴の謂れを説明してくれました。

そのため億岐家での説明は、白爺上の空で聞いていました。


支配人から聞いた面白い話を紹介しましょう。

①諸国からの貢税運搬や官使の通行には馬が使われていた。
②馬は疲れるので20㎞程度ごとに駅をつくり馬の交代をした。

(馬に澤の水を飲ませることから、馬偏に澤の旁を書き 駅という字が出来たそうです。)
③駅に近ずくと使者側は駅の字を相手に向け、鈴を逆さにして鳴らした。
(逆さにしないと鳴らない)
④迎える側は、鈴の字を相手に向けて逆さに振り、引き継いだ。
⑤迎えた側は、引き継いだ運搬物を次の駅まで運び、おなじ事をしていた。

天皇陛下は、三種の神器のほかに駅鈴・印・唐櫃の鍵も伝国の御璽として引き継がれるそうですが、隠岐の国の駅鈴も大事に保管されているそうです。

各国の駅鈴は、戦争中に金属供出のため国に納められてしまい、残っていないのですが、隠岐だけは連絡不十分だったのか現在も残っているのだそうです。
なお、スポーツの駅伝競争はこれを真似て、駅鈴の変わりにタスキを引き継いで行われることになったのだそうです。


(これだけ覚えておくのは大変でした。サー忘れよう。)


億岐家の庭には、節が自然と捩れてしまう、「仏面竹」がありました。

説明を聞いている途中から、バス1台の団体さんが来たので、白爺たちは早々に隣の玉若酢命神社の参拝に向いました。

タクシーの運転手さんは、白爺が歩いていくからと言うのに義理硬く車に乗せてくれました。
隠岐のタクシー運転手さんは、皆観光ガイドの勉強をしているようで、詳しく説明をしてくれますし、希望のところにはどこにでも止めてくれるので、非常によい思い出をつくることが出来ました。

次回は、玉若酢命神社からの観光です。少しお待ちください。

お褒めを頂き有難うございます。
写真撮影のテクニックは一切考えていません。
全てカメラ任せです。
カメラも特別高価なものではありません?。
(年賀状の番号で当選してもらったカメラですから)
コリャ失礼!
写す時、カメラにある機能を①BS(ベストショット)②ホワイトバランス(マニュアルかオート)に指定するだけです。
カメラは頭がよいから、余計なこと考えないで任せきりにしています。
お役に立ちません。ゴメン!
BS(ベストショット) マニュアルかオート
そろそろ畑の収穫、いや畑の酒盛りが忙しいのでは?
隠岐で、志布志湾の小島を思い出してきました。
桟橋で釣っていた魚も同じような魚でした。
今後も宜しくお願いいたします。
隠岐のタクシーさんには、大変お世話になりました。
そして、歴史のある島だったとは、行って見て初めて知りました。
白爺が渡ったのは、8月27日~29日でした。
魔天崖を歩いても、風邪が吹いていて真夏のような暑さではありませんでした。
ホテルでは、少しエアコンを入れましたが、風がよく通る部屋だったので、窓を開けて出船・入船を見ている時間の方が多かったようです。
本土では、大雨が降りしんぱいしましたが、隠岐滞在中は、遠くに黒雲が沢山見られましたが、観光する場所は所を外れていたらしく、大きな雨には会いませんでした。
波は1.5mとテレビでは言っていましたから、穏やかな方でしょう。
又、行きたいと思っていますが、冬はダメですねー。