小江戸・佐原を訪ねる
カンヌ国際映画祭で最優秀作品賞を受賞した映画『うなぎ』は、数年前に話題になった映画である。この映画の舞台になったところが千葉県佐原である。佐原の街見物に出かけようとする主人公に地元の人人が言う。「サ
ワラ砂漠っていうぐらいですからね、何も見るところなんか、ありやしねぇぜ」。
だが、地酒ファンにとって佐原は「サハラ砂漠」ではない。名酒の誉れ高い『束薫』を醸す蔵がある。美味しい味醂を醸す知る人ぞ知る馬場酒造がある。利根川の舟運が栄えた江戸時代、佐原は商人文化が栄え。「小江戸」の名称を誇った。
佐原の酒造りの歴史は古く江戸初期にまでさかのぽる。日本全国を三角測量し、「大日本沿海輿地全図」を作成した伊能忠敬の先祖、伊能三郎右衛門が江戸初期の寛文年間に始めたと伝えられている。利根川の舟運が栄えるにしたがって、酒蔵も増え、江戸中期には35軒を数えるまでになった。当時の佐原村の人口は推定、およそ7.000人前後。その頃にあっては、大きな村であった。しかし一つの村に35軒の酒蔵は多い。当時、一つの蔵が1年に醸す酒の量は平均、2、3百石であった。1.000石を醸す蔵は大酒造メーカーである。当時、佐原は「関東灘」といわれた所以がここにある。利根川舟運沿いの村々に佐原の酒が行き渡り、香取神宮に参る人々が佐
原の酒を味わった。
香取神宮に通ずる香取街道沿いに酒蔵が並んでひた。酒蔵は同時に今の居酒屋でもあった。造って小売する酒屋だから「造り酒屋」という。夕暮れ時ともなると、仕事の終わった男たちは杉玉の下がった軒下に集まり、升になみなみとつがれた酒を飲んだことだろう。
当時の町屋を今に伝えている店がある。蕎麦屋の「小堀屋本店」である。この蕎麦屋はその当時、醤油醸造をしていたという。
私が東薫酒造さんを訪ねた時もまず「小堀屋本店」で蕎麦をいただき、腹ごしらえをして酒蔵に伺った。十人も入ればいっぱいになってしまう小さな蕎麦屋である。決して綺麗な店ではないが、軒の下をくぐると歴史の風格を感じる。「小堀屋本店」も「東薫酒造、「馬場酒造」と同じ通りにある。
明治31年(1898年)今からおよそ120年前、成田鉄道が開通した。この頃から徐々に物流の中心が舟運
から陸上輸送へと取って代わって行く。利根川の上流地域と東京が鉄道網で結ばれた1930年代になるとほとんど佐原を経由する高瀬舟は見られなくなる。それに伴って佐原の凋落が始まる。最高35軒を数えた酒蔵は減り続け、現在も酒を醸す蔵は2軒を残すのみとなった。厳しい時代を乗り越えたこの2軒の酒蔵はこれからも旨い酒を醸し、いつまでも残っていってくれることを願うのみだ。
束薫酒造、馬場酒造、小堀屋本店が軒を並べる香取街道を歩くと、江戸時代を偲ぶことができる。火事の類
焼を避けるために外壁をすべて黒い漆喰で塗り固めた正大堂書店がある。蕎麦屋の小堀屋本店の隣には福新呉服
店が並んでいる。小野川にかかる忠敬橋からは小野川沿いの昔の町並みが望める。今は営業をしていない正上醤油店の店舗と土蔵、旧油惣商店の店構えと土蔵、それらの町屋の後ろに伊能忠敬の旧居がある。それらの町屋の中にルネッサンス様式をもつた東京三菱銀行佐原支店の建物がある。佐原には古き日本が息づいている。