醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  503号  白井一道

2017-09-02 16:03:38 | 日記

「石枯れて水しぼめるや冬もなし」。延宝8年、芭蕉37歳

侘輔 「石枯れて水しぼめるや冬もなし」。延宝8年、芭蕉37歳。池西言水が編んだ俳諧撰集『東日記』に載っている句だ。
呑助 何を詠んでいるのか、分からない句ですね。
侘助 上五の「石枯れて」が分かりづらいよね。だって石が枯れるはずがないもの。
呑助 そうですよね。「閑さや岩にしみ入蝉の声」。この句にもあり得ないことが詠まれていますがね。蝉の声が岩にしみいることは絶対にありませんから。この句と何か共通するものがあるんじゃないですか。
侘助 川の水がなくなり、今まで川底にあった石がむき出しになったことを「石枯れて」と表現したんだとは思うんだ。
呑助 あぁー、そうですか。「石枯れて水しぼめる」とはそうゆうことですか。でもそういうことが川原の冬景色なんじゃないですか。
侘助 そうだよね。冬景色に行く前に気が付いたことがあるんだ。「石枯れて」の上五の言葉についてなんだ。人によっては石が枯れることなんてない。だから石が乾くことを「石枯れて」と言うことは、言葉をいじっていると言う人がいるような気がする。
呑助 ごく普通の言い方をした方がいいと言う意見ですね。
侘助 また「石枯れて水しぼめる」という表現も理屈だと言う人がいるようにも感じるな。
呑助 言われてみるとそんな気がしないでもないですね。
侘助 鑑賞は人それぞれ、皆勝手なことを言う。それでいいと思うんだ。
呑助 下五の「冬もなし」とは、どういうことなんですか。
侘助 ここが鑑賞のポイントなんだと思う。冬景色が極まり、冬を通り越した存在そのものといったことを詠んでいるのでは思っているんだ。
呑助 あぁー、「閑さや岩にしみ入蝉の声」。この句が静かさを通り越した絶対的な静かさのような存在を表現しているということと同じですか。
侘助 そうなんだと思う。これが冬景色だと思う。このことは観念というか、人間の意識のことだと思う。この意識は存在するものの人間の心に反映したものだ。
呑助 人に冬だと感じさせるもの、その存在そのものを芭蕉のこの句は表現しているということですか。
侘助 「冬もなし」と言うことによって芭蕉は「存在」というものを認識しんたじゃないかと考えているんだけれどね。
呑助 「存在」とはなんですか。
侘助 これは難しい問題だな。芭蕉は「石枯れて水しぼめるや冬もなし」と詠んでいる。「石枯れて水しぼめる」冬があるにもかかわらず「冬もなし」と詠んでいる。存在を無として芭蕉は認識した。「無」として「存在」を認識したものが「存在」ということなのかな。
呑助 ますます抽象的な議論で困ります。全然わかりませんよ。
侘助 そうかもしれない。芭蕉は寂莫たる川原の冬景色の中にいる自分の存在に気が付いた。ただ私はこの川原の風に吹かれている自分に気が付いた。「石枯れて水しぼめるや冬もなし」の景色に包まれている自分を芭蕉は発見した。