「世の人の見付けぬ花や軒の栗」。元禄二年芭蕉四十六歳
句郎 「世の人の見付けぬ花や軒の栗」。元禄二年芭蕉四十六歳『おくのほそ道』須賀川で詠んだ句として知られている。
華女 『おくのほそ道』本文の須賀川の一節に「世をいとふ僧あり」とあって「世の人の」の句があるからそのお坊さんへの挨拶吟じゃないのかしら。
句郎 そうなんだろうね。「世をいとふ僧」とは、「可伸」という芭蕉の門弟になっている僧侶への挨拶だったんだろうと思う。
華女 曾良の『俳諧書留』には、「世の人の」とはちょっと異形の句が載っているわよ。
句郎 「隠れ家や目だたぬ花を軒の栗」という句だよね。
華女 そうね。『俳諧書留』にある句と比べると『おくのほそ道』に載っている句の方が良いと思うわ。
句郎 「隠れ家や」の句を推敲し「世の人の」を得たのだろうね。
華女 「世の人の」には前詞があるでしょ。同じように「隠れ家や」の句の前にも前詞があるわね。
句郎 「桑門可伸は栗の木のもとに庵を結べり。伝へ聞く、行基菩薩の古は西に縁ある木なりと、杖にも柱にも用ひ給ひけるとかや。隠棲も心あるありさまに覚て、弥陀の誓ひもいとたのもし」とあるね。
華女 その前詞を推敲したものが「世の人の」の前詞になったのかしらね。
句郎 「栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや」とあるからそうなのかもしれないな。
華女 栗の木と西方浄土とはどんな関係にあるのかしらね。
句郎 浄土教の開祖法然が念仏を唱え、栗の木の杖をついて極楽浄土に逝きなされと言ったという説話があったのかな。
華女 栗の木は西の木と書くから栗の杖をついて逝くと極楽浄土に往生するという話のなのね。
句郎 阿弥陀様は西方の極楽浄土におられると信じられていたから。
華女 「南無阿弥陀仏」と唱えながら栗の木の杖をついて、逝くと仏さまになれるという信仰ね。
句郎 そう、この念仏を唱えたら誰でも極楽に往生できるという教えのようだ。どんな悪人であってもね。
華女 行基という人は実際にいた人なんでしよう。
句郎 奈良東大寺の大仏製造に力を発揮した僧侶のようだ。その人は死んで後、菩薩として人々から拝まれるような仏さまになった。
華女 仏教では人が死ぬと仏さまになるのよね。
句郎 そこがキリスト教やイスラム教と決定的に違っているところかもしれない。
華女 「世の人の見付けぬ花や軒の栗」とは、可伸のことを述べているのじゃないかと思ってきたわ。
句郎 きっとそうなんだと思う。栗という木は大木になる落葉広葉樹だから、家の軒下に生えるような木じゃないよ。須賀川の駅長だった等躬の屋敷内に可伸は草庵をかまえていたというから、「軒の栗」とは可伸の草庵のことなのだろう。「世の人の見付けぬ花や」とは、世間には知られてはいないが、ここに立派な僧侶がいますよと述べているのじゃないかと思う。
華女 芭蕉の可伸さんへのご挨拶の句だということがよく分かるわ。