醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  522号  白井一道

2017-09-21 16:32:19 | 日記

 世に盛る花にも念仏申しけり  芭蕉

侘輔 「世に盛る花にも念仏申しけり」。この句は貞享元年、芭蕉41歳の時の句のようだ。
呑助 17世紀の後半になると江戸庶民の間に花見という行事が一般化していたんですかね。
侘助 貞享の時代になるとすでに花見に代表される江戸庶民の元禄文化はもう始まっていたのかもしれないな。
呑助 貞享の次の時代が元禄時代ですか。貞享時代は何年続いたんですか。
侘助 たったの四年間だった。この四年間の間に芭蕉は「蕉風」という新しい俳諧を創造していったようだ。
呑助 「世に盛る花にも念仏申しけり」。この句はまだ蕉風の成立前の句なんですかね。
侘助 そうなんじゃないかと考えているんだけどね。
呑助 芭蕉は花見の宴をしている際に満開の桜に念仏を唱えている老人を見かけたんでしょうね。
侘助 この句は嘱目吟だな。
呑助 桜の花に念仏をする人を見て芭蕉は奇特な人もいるなぁーと、面白がったんでしようね。
侘助 私はそうじゃないと考えているんだけどね。
呑助 じゃー、桜の花に念仏を唱える何か、特別な意味でもあるんですか。
侘助 満開の桜の花の下には美少女の死体が。満開の桜の花に美少女の死を幻想した詩人がいたでしょ。「汚れっちまった哀しみ」なんて詠った詩人がいたでしょ。
呑助 中原中也ですか。
侘助 散る桜に美を西行は発見しているでしょ。桜の花は死を美化する働きがあるように思うんだ。
呑助 靖国神社は桜の花に囲まれていますね。
侘助 そうでしょ。だから芭蕉は桜の花に念仏を唱えている人を見て、あぅー、あの人の大事な人が身罷っているんだなと想像したんじゃないのかな。
呑助 なるほど、それで桜の花に囲まれた極楽に往生してほしいと念仏をあげているんだなと芭蕉は想像したということですか。
侘助 そんな風にも解釈できるかもしれないなと思ってね。単に桜に念仏唱える人を笑ったんじゃないと思ったということなんだけど。
呑助 酒を飲み、歌を歌って楽しむ花見が湿っぽくなってしまうような句になりますね。
侘助 花見という行事はそもそも湿っぽいものなんじゃないかと思っているんだ。この湿っぽさを払いのけるのが花見なんだと思う。だから土台には湿っぽさがあるんだ。
呑助 そうですよね。
侘助 「死支度(しにじたく)致せ致せと桜哉」と一茶も詠んでいるからね。陽気な花見の席で笑い転げていても心の中ではそろそ死支度する年になってきたなと感じたりすることがあったんじゃないのかな。満開の桜に念仏唱える老人を見て、どうか、桜の花に囲まれた極楽に応じようさせて下さいと願っているのかもしれないなあーと、芭蕉は感じたのかもしれないよ。
呑助 上島鬼貫という俳人は芭蕉とほぼ同世代じゃないですか。鬼貫の句に「骸骨の上を粧うて花見かな」という句があるそうですよ。やせ衰えた鬼貫はどうか今日の桜のような花に囲まれた極楽に往生したいものだと詠んでいるんですね。
侘助 鬼貫は芭蕉より十数歳年下かな。でも確かに同じ時代を生きていた。

醸楽庵だより  522号  白井一道

2017-09-21 16:32:19 | 日記

 奈良七重七堂伽藍八重ざくら  芭蕉

侘輔 「奈良七重七堂伽藍八重ざくら」。この句を天和4年、芭蕉41歳の時の句として岩波文庫は『芭蕉俳句集』に載せている。
呑助 この句の「七堂伽藍八重ざくら」は分かりますが、「奈良七重」とは何を言っているんですか。
侘助 口調がいいから、何も考えないで「奈良七重七堂伽藍」と読んでしまっていたな。ノミちゃんに言われて初めて「奈良七重」とは、何を表現しているのか、考えてしまった。
呑助 そうでしょ。私は、口調を整える意図が芭蕉にはあったのかなと思ったんですけどね。
侘助 特に「奈良七重」には意味がないということかな。
呑助 母音だけで読んでみると「narananae、aaaae」になるでしよう。
侘助 意図的にしたのではなく、偶然そうなったと私は考えたいんだけどね。奈良と言えば、今も昔も東大寺でしよう。南大門の前に立った芭蕉は身震いをしたことでしよう。仁王像の恐ろしさに心身が引き締まったんじゃないかと思うんだ。こんな凄い寺を建立したのは誰なんだ。話に聞くと聖武天皇とは凄いことをした天皇だったんだな。古代の天皇とは凄いことをしたんだと物思いに耽った。
奈良の都には七人の天皇が君臨したという。凄い天皇が七代も君臨したのかと思いを深めたんじゃないのかな。そのことがもしかしたら「奈良七重」という言葉で表現したことだったのかもしれないと想像したんだけど。嫌、奈良に出てみると、東大寺の他にも興福寺や薬師寺、法隆寺、西大寺、大安寺、元興寺など南都七大寺といわれる大寺院があるじゃないか。その他にも唐招提寺のような立派な寺があるじゃないか。「奈良七重」とは、南都七大寺の「七」だったのかもしれないな。奈良は京都と比べると狭い地域に犇めくように立派な寺院が重なるように立っていると芭蕉は感じたのかもしれない。
呑助 なるほどね。私は南
都七大寺の「七」が「奈良七重」の「七」じゃないかなぁーと思いました。
侘助 確かにそうかもしれないな。奈良は南都七大寺、それらの寺には「七堂伽藍」が揃っていると芭蕉は詠んでいるからね。
呑助 「七堂伽藍」とは、金堂とか講堂、鐘楼とかのことですかね。
侘助 奈良時代の寺の配置は金堂を中心に僧侶が学ぶ講堂、僧侶が生活する僧房、僧侶が食事をする食堂(じきどう)、僧侶の生活を規律する鐘楼、お釈迦様の教えを書いたお経を仕舞う経蔵、お釈迦様を祭る塔を具えていた。これを「七堂伽藍」と言っているんだ。奈良時代の大学がまさに「七堂伽藍」だった。
呑助 「奈良七重七堂伽藍八重ざくら」。奈良には七堂伽藍を具えた立派なお寺に圧倒されましたと、いうことですか。
侘助 奈良という街を称えた句なんだろうね。
呑助 その奈良には今、八重桜が咲き誇っているということですか。
侘助 百人一首にある「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほいぬるかな」(伊勢大輔)の歌を芭蕉は下敷きにしてこの句を詠んでいるのかもしれないなぁー。奈良の古の都を称える気持ちを芭蕉を継承したのかもね。