醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  682号  唎酒 三月例会  白井一道

2018-03-26 12:23:19 | 日記


  唎酒を楽しむ

 昨日は発見があった。静岡県富士宮にある富士高砂酒造のお酒「高砂・山廃純米辛口」が気にいりました。楽しんだ酒は以下のお酒です。

二〇一八年三月 酒塾唎酒出品酒   於・野田市民会館  3/25

A、水芭蕉・純米吟醸・かすみ酒  720ml 1500円税抜  尾瀬の春を表現した。
 群馬県利根郡川場村 永井酒造株式会社
 酒造米:兵庫県産山田錦、   精米歩合:60%精米
 アルコール度数:15% 

B、出羽桜・桜花吟醸酒・さらさらにごり 本生酒 720ml 1480円  
 山形県天童市 出羽桜酒造株式会社
 酒造米:国産米、 精米歩合:50%精米  地酒人気銘柄ランキング十二年連続日本一
アルコール度数:16%   


C、三百年の掟やぶり・純米吟醸生酒・「無ろ過槽前原酒」  720ml 1300円
 山形県山形市  寿虎屋酒造株式会社
 酒造米:国産米  精米歩合:50%精米  日本酒度+1  咽越しに旨みの余韻を。
 アルコール度数:16%   季節商品  搾り出された酒に一切何も手を加えないそのままの酒。


D、谷川岳・純米大吟醸酒・一意専心     720ml 1200円
 群馬県利根郡川場村 永井酒造株式会社
 原料米:国産米   精米歩合:50%精米
アルコール度数:15      副杜氏が醸した季節商品のようです。


E、高砂・山廃純米辛口・  720ml 998円 (平成24年度名古屋国税局酒類鑑評会 純米酒の部 優等賞受賞)
 静岡県富士宮市  富士高砂造株式会社
 酒造米:五百万石  精米歩合:65%精米  アルコール度数:15%
 日本酒度:+7 仕込み水: 超軟水(富士山の伏流水) 柔らかな口当たりを味わってほしい。

酒塾のしをり  第二十四号
 今回は、純米酒が四本、アル添酒が一本です。アル添酒は山形の出羽桜だけです。アル添酒は純米酒に比べて幾分価格は安くなっている場合が多いのです。にも拘わらずに出羽桜酒造の酒は醸造用アルコール(甲類焼酎)で日本酒が薄められているのに幾分高めです。理由は「出羽桜」という銘柄だけで売れるという理由かもしれません。いや、本生のお酒なので流通経費が高いためかも、クール宅急便使用のためかもしれません。
 「三百年の掟やぶり」は、水や醸造用アルコールで日本酒を薄めていません。酒本来の味を楽しむことができます。「水芭蕉」より10パーセントも米を削ったお酒なのに値段は安くなっています。その理由は「水芭蕉」の酒造米は「山田錦」、値段の張るお米だからなのです。「三百年の」は山形県産美山錦のようです。「山田錦」より安い酒造米です。長野県を中心に栽培されている酒造米です。
 水芭蕉、谷川岳を醸す永井酒造は機械化が進んでいる酒蔵です。杜氏や蔵人の人柄が表現される酒ではなく、データ管理に基づいたお酒なのかなと思っています。
 「高砂」は、「水芭蕉」にも負けない美味しいお酒かもしれません。

醸楽庵だより  681号  いざよひのいづれか今朝に残る菊(芭蕉)  白井一道

2018-03-25 16:10:05 | 日記


 今朝に残る菊 いざよひのいづれか  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「いざよひのいづれか今朝に残る菊」。芭蕉45歳の時の句。『笈日記』。「素堂亭 十日の菊蓮池の主翁、また菊を愛す。昨日は龍山の宴をひらき、今日はその酒のあまりを勧めて狂吟の戯れとなす。なほ思ふ、明年誰か健かならん事を」と前詞がある。
華女 この句、さっぱり分からないわ。
句郎 旧暦に生きた人でなければ、月への思いが通じないということがあるんじゃないのかな。
華女 新月から新月までが一カ月というのが旧暦でいいのよね。
句郎 一カ月の真ん中というと十五日。十五夜に満月になる。
華女 でも新月から新月までは、二十九日から三十日ぐらいなんでしょ。
句郎 旧暦では、一年が三五四日から三五五日になったようだ。
華女 暦は農事暦と一体化していたんでしょ。
句郎 神社が毎年、暦を作り、庶民の家に配っていた。農家や商家は神社に感謝の気持ちを込めてお布施というか、そのようなものを上げていたんだろうな。
華女 満月が美しい月が八月の十五日、中秋の名月と言われるようになったのよね。
句郎 満月といっても少しづつ満ち欠けが月によって違ってきていたからね。
華女 当時の人々は月を今日は何日かを知ることができていたのかもしれないわね。
句郎 月の満ち欠け、月が見えるか、見えないか、月は暦、そのものだったからな。
華女 月に対する人々の関心も高かったということね。
句郎 十六夜と書いて「いざよい」と詠むようになったのは、「ためらう」「躊躇する」意味の動詞「いざよう」の連用形が名詞化した語といわれている。 旧暦16日の月の出は、15日の満月の月に比べてやや遅いところから、月がためらっていると見立てたようだ。
華女 だから十六夜を「いざよい」と読ませているのね。
句郎 十五夜が綺麗であればあるほど、十六夜の侘しさが思われたのだろう。
華女 十六夜とは、侘しさというか、寂しさがあるということなのね。
句郎 そうなんだ。十六夜と「今朝に残る菊」とを比べ、どちらが侘びしいのかなと、なげかけているのじゃないのかな。
華女 「今朝に残る月」とは、何を言っているのかしら。
句郎 「重陽の節句」と言えば、何日だったけ。
華女 「重陽の節句」は九月九日ね。
句郎 重陽の節句には何をしたのかな。
華女 中国伝来の慣習ね。菊の節句なんてもいわれているようよ。
句郎 そう、栗ご飯を食べたりして無病息災や長寿を願ったんだよね。菊の酒は不老長寿の酒だといわれていたようだからね。今でも「菊水」なんていう銘柄のお酒があるくらいだからね。
華女 
「今朝に残る月」とは、九月十日の菊の酒を言っているのかしらね。
句郎 そうだと思うよ。十六夜と九月十日の菊の酒とを比べてみたらどちらが侘びしく、寂しいかとよんでいるのが、この芭蕉の句なんじゃないのかな。

醸楽庵だより  680号  吹き飛ばす石は浅間の野分かな(芭蕉)  白井一道

2018-03-24 15:33:34 | 日記

 
 吹き飛ばす石は浅間の野分かな  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「吹き飛ばす石は浅間の野分かな」。芭蕉45歳の時の句。『更科紀行』。
華女 浅間山の噴火というといつごろあったのかしら。
句郎 芭蕉が訪ねた頃に見た噴火の後は、1582年 天正10年『多聞院日記』『晴豊公記』などが2月11日の浅間山の噴火を京都からでも観測できたと伝えているからね。
華女 芭蕉が生まれる60年ぐらい前に浅間山が噴火しているのね。鬼押し出しの溶岩はその時のものだったのかしら。
句郎 1783年の天明の大噴火のもののようだから、芭蕉が亡くなってからのものじゃないかな。
華女 芭蕉は浅間山の噴火の凄さを感じたのよね。
句郎 この浅間山の噴火の凄さをどのように表現したらいいのか、苦心したようだ。
華女 「吹き飛ばす石は浅間の野分かな」とは、浅間の噴火は石を吹き飛ばす野分のようなものだと詠んでいるのよね。
句郎 実際の噴火は野分とは比べ物にならない恐ろしいものだったんじゃないかと思うけど。
華女 大きな石を吹き飛ばす風のようなものと想像するのが芭蕉の限界だったんじゃないのかしら。
句郎 芭蕉は推敲の人だったようだから。『さらしな紀行』真蹟草稿によると「秋風や石吹颪(おろ)すあさま山」と詠み、棒線を引き消している。秋風が石を吹き下ろす。秋風が吹き下ろす石は小石だ。浅間の山麓で見た石は人の手では動かすことのできない大きさだ。「秋風」では浅間の山麓が表現できないと芭蕉は考えたのではないかと思う。
華女 そうよ。秋風じゃ、ダメね。
句郎 だから「吹落とす浅間は石の野分哉」とした。
華女 吹落としたんじゃないわよね。
句郎 そう、ごろごろと転がっている石は浅間山山中から吹き落されてきたものじゃないな。
華女 吹き飛ばされた石だということに気が付いたということなのね。
句郎 吹き飛ばされた石じゃ、句にならないな。吹き飛ばす石、この言葉を見出すにはきっと血を吐く思いを芭蕉はしたのじゃないかと思うな。
華女 「吹き飛ばす石」、この言葉には力があるわ。
句郎 言われてみれば、そうかと思うけれども、初めて言うのはなかなかできないものなんじゃないのかな。
華女 そうよ。そうなのよ。
句郎 「吹き落とす石をあさまの野分哉」と書き、芭蕉は「落とす」に棒線を引き、消す。そこに「飛ばす」と書き入れている。
華女 「吹き飛ばす石をあさまの野分哉」ね。
句郎 吹き飛ばす石「を」じゃないな。芭蕉はしばらく考えて吹き飛ばす石「は」とした。
華女 「吹き飛ばす石を」より「吹き飛ばす石は」とした方が力のある言葉になるわ。
句郎 そうだよね。「吹き飛ばす石はあさまの野分哉」。この表現に芭蕉は満足したんだろうと思う。
華女 吹き飛ばす石は野分なのよね。野分は石を吹き飛ばすということを倒置したのよね。このように倒置することによって、強い表現ができたと芭蕉は思ったのじゃないの。
句郎 巨大な野分が浅間山の噴火だったんだと芭蕉は理解したんだと思うな。

醸楽庵だより  679号  将棋観戦記   白井一道

2018-03-23 14:35:58 | 日記


   将棋王座戦二次予選、糸谷八段戦対藤井六段戦のテレビ観戦記

 藤井聡汰六段は2五桂と歩をとり、桂馬を差し出した。勿論、将棋界の怪物との異名を持つ、糸谷八段は桂馬で桂馬を取り返した。解説をしていたプロ棋士四段は全く別の手を予想し、我々将棋ファンを納得させていた。
 王座戦二次予選は糸谷八段対中学三年生プロ棋士の藤井聡汰六段との戦いであった。糸谷哲郎八段は将棋界トップのA級に今年度昇段を決めた強い棋士である。18世永世名人の資格を持つ竜王位にあった森内九段を破り、糸谷八段は竜王位に就いたことのあるトッププロの一人である。大方の将棋ファンはいくら何でもまだ15歳の少年が糸谷八段と戦い、勝つとは思いもしなかった。嫌、将棋ファンだけでなく、プロ棋士たちでさえ、藤井六段の勝利を予想した人は少なかったようだ。
 藤井六段は2五桂の手に一時間二十五分の時間をかけて指した。何をそんなに考えることがあるのか、アメーバテレビを見ている私は退屈な時間を持て余していた。十六世将棋名人の資格を持つ中原誠氏はアマチュア初段の人と駒落ち将棋を指し、アマチュアが十分考えて指したことを讃え、強いと言ったことがあった。将棋の手が読める。十分間いろいろな手が読めるということは強さの証なのだ。藤井六段は一時間二十五分間、手が読める。精神の集中力が持続できる。この将棋は互いの持ち時間五時間である。午前十時に開戦し、十時間かけて一局の将棋を戦う。藤井六段の師匠である杉本七段はテレビに出て、一局の将棋を指すと人によっては二、三キロ体重が減ると述べていた。まさにプロの将棋はマラソンと同じだ。マラソン選手も四十二キロを走ると体重が三、四キロ減ると聞いている。マラソンに匹敵するような過酷な戦い、将棋王座戦に挑んだ藤井六段は2五桂と指し、戦いの火ぶたを切った。
 藤井六段の将棋は切り合いの戦いだった。肉を切らせて骨を断つ戦いをした。桂馬を差し出すという肉を切らせた。誰だってわが肉を切らせることは痛いに違いない。肉を切られても骨を断つことができると判断した。これが勝負というものなのだろう。
 時間をかけ、手を読んでも限界がある。パソコンとは違うのだ。読みきれる手に限界があるから将棋は勝負なのだ。読んで指した手の局面についての判断を大局観というのだろう。
 藤井六段は歩を進め、桂馬を取り返した。2五歩、2四歩と一歩一歩、歩を進め、銀を取り、金を取った。攻める速度と攻められる速度の計算ができていた。藤井六段の王様を守る金が桂馬に取られる運命になっている。藤井六段の銀は歩に取られそう、飛車は角に睨まれている。銀や金、飛車にかまうことなく、肉を切らせて、骨を断つべく、と金になった歩を進め、敵玉に迫って行った。迫力満点である。
 糸谷八段は挽回すべく、角で藤井六段の飛車を奪い、藤井六段に間違った手を指したら王様を取りますよという手を指すと藤井六段は読んでいますとばかりに金を張って王様を守った。この一手で藤井六段の王様はなかなか詰まない囲いになった。糸谷八段は受けに回り、馬を自陣に引き上げ、攻める番が回って来るのを待った。
 私の王様を詰ましてみろと開き直った。藤井六段は飛車を敵陣に打ち下ろし、次の手で王様を取りますよと手は言っていた。本当に糸谷八段の王様は詰まされてしまうの。素人の将棋ファンには分からなかった。が解説者が言った。詰みです。糸谷八段は頭を下げ、参りましたと小声で言ったのが分かった。

醸楽庵だより  678号  月影や四門四宗もただ一つ(芭蕉)  白井一道 

2018-03-22 13:25:20 | 日記

 
 月影や四門四宗もただ一つ 芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「月影や四門四宗もただ一つ」。芭蕉45歳の時の句。『更科紀行』。「善光寺」との前詞がある。
華女 この句を読むと月明りにすべてが癒され阿弥陀様のところにいける。そんな気持ちになれる句なのかなと思うわ。
句郎 善光寺に参ったときの芭蕉の思いを詠んだ句なんだろうな。
華女 善光寺の境内に入ると芭蕉は霊感に撃たれたんじゃないのかしら。
句郎 仏の慈悲を体感したということかな。
華女 仏さまが私に寄り添ってくれているという体感ね。
句郎 私は安心して生きていけるという気持ちになったということ。
華女 そうよ。女は子供がいれば、生きていけるという話を聞いたことがあるわ。
句郎 それはどういうこと。
華女 愛するものがいれば、生きていけるということよ。女一人というのは弱いものよ。でもね、愛する子供がいれば生きていけるのよ。女の強さは愛する者がいるということなのよ。
句郎 月明りに仏を感じた芭蕉は一人でも生きていけると実感した句が「月影や四門四宗もただ一つ」だということなの。
華女 そうよ。自分に寄り添ってくれる者がいれば、生きていけるのよ。子供は母に常に寄り添ってくるでしょ。
句郎 夫婦喧嘩をするとたいていの場合、子供は母親の味方をするというからね。
華女 そうでしょ。母親というものは無条件で自分の子供を愛しているものなのよ。
句郎 なるほどね。男は区別することがあるのかもしれないな。長男と次男とか、長女と次女とかね。
華女 母親にとって子供は皆同じ、一つなのよ。無条件にね。
句郎 「四門四宗もただ一つ」とは、仏様はただ一つだということを芭蕉は言っているということかな。
華女 そうよ。芭蕉は仏様が自分に寄り添ってくれていると言うことを善光寺に参って体感したというなんでしょ。仏さまは一つだと実感したのよ。それは善光寺という寺が醸しだす霊的世界に芭蕉は包まれたからなのよ。
句郎 仏教は宗派によって仏様が違うということは本質的にはないんだろうからね。
華女 仏さまにも廬舎那仏とか、薬師如来、大日如来、阿弥陀如来と、たくさんいるでしょ。でも仏様は一つなんだと芭蕉は善光寺で実感したことを詠んだ句が「月影や四門四宗もただ一つ」だったのよ。
句郎 全宇宙を月が照らしているんだと芭蕉は感じたのかもしれないな。
華女 そうなのよ。死に際しても仏様が寄り添ってくれていると感じるとすべての人に優しく感謝することができるのよ。私には弟がいるのよ。母は弟を愛していたのよね。母と一緒に弟は生活した期間は二〇年間ぐらいじゃないかと思うのよ。それでも母が死ぬとき、弟に母は「生きていてよかったよ。永遠にさよなら」と言って死んでいったみたいよ。
句郎 そうなんだ。芭蕉は月明りに照らされていれば、生きていて良かったと周りの人に感謝して死んで生けるということな。