醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  662号  『芭蕉という修羅』を読む  白井一道

2018-03-05 12:35:22 | 日記


 『芭蕉という修羅』を読む ②


句郎 嵐山光三郎氏は『芭蕉という修羅』の中で「欲と色気と銭がうごめく地に俳諧は生きるのである。」と書いている。享楽の世俗が俳諧を生んだと私は理解したんだ。
華女 閑寂な世界、枯淡の美、そのようなものが芭蕉の俳句だと私は理解していたのよ。だって侘び、寂びの世界が芭蕉の世界だったんじゃないのかしらね。
句郎 そうそう、そんな風に高校生の頃、国語の授業で教わった記憶があるよね。しかし、私は嵐山光三郎氏の主張が理解できる。イタリアルネサンスについての本を読むと当時のイタリアカトリック教の世界は堕落し、市民たちは欲望を肯定し、金を儲け、華美な服装を競い、美食に満腹する贅沢を満喫していた。この中からルネサンス文化が誕生したということを知った。
華女 まさに「欲と色気と銭がうごめく地」イタリア、そこでルネサンス文化は生きたということなのね。
句郎 そのようなんだ。東方貿易で巨万の富を得たイタリア中世都市市民の中からルネサンス文化は生まれているからね。
華女 そう言えば、勤勉、倹約、正直を旨とした宗教改革のドイツ諸都市の中からはイタリアルネサンスのような文化は生まれなかったという話を聞いたことがあるわ。
句郎 芭蕉の俳諧は元禄文化を代表していると言えると思うんだ。元禄文化とは、経済力を持った町人たちが少しでも贅沢したいと気持ちから生まれたものなんじゃないのかな。
華女 「眉はきを俤にして紅粉(べに)の花」。芭蕉が尾花沢で詠んだ句よ。江戸時代に生きた農民や町人はお化粧したり、着飾ったりできなかったんでしょう。芭蕉はお化粧した女を思い浮かべているのよね。
句郎 紅の色。これは女にとっても、男にとっても憧れの色だったんじゃないのかな。紅のお化粧をすることが町人や農民は禁止されていたんだからね。唯一許されていた色というと藍色、藍で染めた布地の着物ぐらいだったようだからね。
華女 藍のグラデーションや藍色の江戸小紋柄が厳しい取り締まりを潜り抜ける技だったのよね。
句郎 お化粧し、紅を付け、着飾った廓の花魁は元禄文化そのものだったんじゃないのかな。「欲と色気と銭がうごめく地」とは、廓だったんじゃないのかな。廓はアジール、聖域、無縁。そこに元禄文化が生まれた。俳諧に芭蕉と遊女は遊んだ。その思いが「眉はきを俤にして紅粉(べに)の花」だったのではないかな。
華女 元禄文化は日本のルネサンスのようなものだったということを嵐山光三郎氏は言っているのかもしれないわね。
句郎 俳人の長谷川櫂氏は芭蕉を日本のシェイクスピアだというようなことを言っているからね。シェイクスピアはイギリスのルネサンスを代表する文学者だからね。
華女 確かに侘び、寂び、しおりの世界と欲と色気と銭の世界は大きく違っているように感じるけれども、芭蕉の本質は欲と色気と銭のうごめく社会を戦って生きた人だったのかもしれないなぁーという感じがしてきたわ。
句郎 それが正しいのかもしれない。




醸楽庵だより  661号  『芭蕉という修羅』を読む①  白井一道

2018-03-04 12:30:04 | 日記


  『芭蕉という修羅』を読む ①  嵐山光三郎著


句郎 嵐山光三郎氏の著した『芭蕉という修羅』を読んだ。知人が面白かったというもんだから、読んでみることにしたんだ。
華女 嵐山光三郎氏は以前『悪人芭蕉』を書いた人よね。
句郎 そうそう、『悪人芭蕉』も発売と同時くらいに読んだ記憶があるな。「悪人」とは、普通の人という意味で嵐山氏は用いていたような気がした。俳聖芭蕉じゃなく、ごく普通の俳人だったということを主張したいのかなというのが、読後感だったかな。
華女 芭蕉隠密説を唱えているのよね。
句郎 1970年代の中ごろだったかな。国学院大学の先生が芭蕉隠密説を主張する論文を発表したという話を聞いたのが初めてだったかな。
華女 もう半世紀前から芭蕉隠密説という話はあるのね。
句郎 最近始まった話じゃないよ。初めの頃、芭蕉は徳川幕府の隠密だったというと週刊誌的な興味で売れるという目論見で出てきた話なのかなと思っていたんだ。
華女 でも、実際はどうだったのかしらね。
句郎 今回の嵐山光三郎氏の著作を読み、それなりに説得力のある話なんだなぁーという印象を受けた。
華女 書名の『芭蕉という修羅』とは、どんな意味なのかしら。
句郎 仏教が言うところの六道輪廻という教えがあるじゃない。
華女 地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天を輪廻するという思想でよかったかしら。
句郎 古代社会に生きた人々の中には地獄に生きているような人や餓鬼のごとくに苦しむ人々、畜生のように生きざるを得ない人々がいたんだろうね。さらに阿修羅のごとくに戦いに生きる人々がいた。平和に生きる人間、人々に平和をもたらす天界に生きる人がいたんじゃないかと考えているんだ。
華女 六道とは古代インド社会を反映した教えだったということなの。
句郎 そうなんじゃないのかな。いつの時代も人間は平和を求めてきた。なぜなら、戦争が絶えないかったからね。
華女 人と人とが争い合う中を生き抜いた人として嵐山氏は芭蕉を理解したということなのね。
句郎 それが書名の『芭蕉という修羅』という意味なんじゃないかと理解しているんだ。
華女 江戸時代のどちらかというと下層社会に生きた芭蕉は生きるために戦い抜いたということね。
句郎 江戸時代の被支配階級に生きる者にとって生きるということは、厳しい厳しい日常生活に耐え抜くということだからね。
華女 江戸時代、農家の次男に生まれたものは嫁を貰うこともできなかったという話を聞いたことがあるわ。
句郎 芭蕉は農家の次男だったからね。一家を持つことが許されるような経済状況になかったことは事実だったんだろうな。
華女 当時の農家は大家族だったのね。祖父母、父母、長男夫婦を中心に叔父、叔母が同居する家族だったということね。
句郎 芭蕉は武家屋敷に近接する農地に居住する無足人と身分の農民だった。伊賀上野の藤堂藩主に仕えることのできる農民だった。続く

醸楽庵だより  660号  城跡や古井の清水先(まづ)訪はん(芭蕉)  白井一道

2018-03-03 11:31:58 | 日記


 城跡や古井の清水先(まづ)訪はん  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「城跡や古井の清水先(まづ)訪はん」。芭蕉45歳の時の句。『笈日記』にある。「喜三郎何某は稲葉山の麓に閑居を占めて、納涼のためにたびたび招かれ侍りしかば」と前詞がある。
華女 「喜三郎」とは、誰なのかしら。
句郎 貞亨五年夏、『笈の小文』の旅の復路。岐阜富茂登の松橋喜三郎宅に寄る。当地の庄屋で稲葉山山麓に別邸を持っていた。ここを訪れた。稲葉山は稲葉山城の跡地で斎藤道三によって築城された。
後に織田信長がこれを受け、全国制覇の拠点とした。山城であるため水の確保が難しく、それゆえ深い井戸が掘られた。
華女 戦国時代に築城された山城の跡を訪ね、今も清水を汲み出すことのできる古井戸を見て、戦国武将を偲んだということなのかしらね。
句郎 古人を偲ぶ。これが芭蕉の俳諧の主なテーマなのかもしれないな。
華女 昔の人を思うということが、芭蕉に句を詠ませているのね。
句郎 「すむ人の心くまるるいずみかな昔をいかに思ひいづらむ」と芭蕉が尊崇する西行が詠んでいる。『山家集』にある歌に芭蕉は刺激されたのかもしれないな。
華女 井戸の水を汲むことは、この井戸の水を飲んだ昔の人の気持ちを推し量ることになると芭蕉は思ったということなのよね。
句郎 芭蕉もまた山城に残る古井戸の水を汲み、喉を潤したとき、昔の武将たちはどんな気持ちでこの水を飲んだのかなと感慨にふけったのかもしれないな。
華女 水がなければ人は生きていくことできないでしょ。だから井戸には昔の人の思いがこびり付いているのよ。
句郎 今は昔、井戸端会議なんていう女将さんたちのダべリングがあったからな。
華女 そのような日常会話が当時の女の人たちの心を癒し、豊かにしていたんだと思うわ。男の人たちにとっても足軽のような武士にとって井戸端は足を洗い、体を洗い、喉を潤し、日常会話を交わした場所だったんじゃないのかしら。
句郎 今は日常会話が無くなってきている時代だからな。人間にとって、なんでもないような日常会話が無くなると精神を病むようだからな。
華女 あらっ、日常会話とは、そんなに大事なものなの。
句郎 どうもそのようだよ。極悪犯罪人が独房に入れられると日常会話がすべてなくなってしまう。すると月日の観念がなくなり、時間の観念が無くなって来ると心を病み始めることがあるようだよ。
華女 人は人と繋がっていないと人であるという意識が薄れてくるということがあると言うことなのかもしれないわ。
句郎 芭蕉は昔の人との繋がりを求めて山城の跡に残る古井戸を訪ねたのかもしれないな。
華女 昔の人を偲ぶことによって今の自分を知るというか、今を知ろうとしていたのかもしれないわ。
句郎 だから芭蕉の俳句は文学になっているということがいえるのかもしれないな。
華女 文学とは、人間を知るというか、心を知るためのものが文学というものなのね。

醸楽庵だより  659号  夏来てもただひとつ葉の一葉かな(芭蕉)  白井一道

2018-03-02 12:19:41 | 日記


 夏来てもただひとつ葉の一葉かな  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「夏来てもただひとつ葉の一葉かな」。芭蕉45歳の時の句。『笈日記』にある。(曠野)に載せてある句には「山路にて」と前詞が付いている。
華女 「一葉」とは、花なの、草なの、木なの。
句郎 花の咲かない植物のようだ。
華女 松浦寿輝氏が芭蕉100句にこの句を選んでいるのよ。「ただ」という言葉が効いている。そこがいいというようなことを述べているのよ。
句郎 一葉とは、里山に生える野草の一つのようだよ。
華女 私、芭蕉のこの句を読んで初めて一葉という植物を知ったわ。
句郎 里山を歩き、普段目にすることがあっても気に留めることのない草なんだろうな。
華女 雑草の一つとして見捨ててしまう草なのかもしれないわ。
句郎 芭蕉の句を読むことによって身の回りの草や出来事の来歴のようなものを知る機会があるね。
華女 芭蕉は我々が雑草としてひとくくりにしてしまうような草の特徴を観察し、句に詠んでいるのよね。
句郎 芭蕉は野山の雑草を観察し、植物の名前を知り、その草の特徴を発見する。その発見が芭蕉の感動となり、句になっているのかもしれないな。
華女 私たちの身の回りの人や草、道具、家、家族の在り方などに自分と違っていることに気付き、時には感動することがあったのよね。そのことを句にしていたのよね。
句郎 里山の草は夏になると葉をたくさん付け、伸びて来るのが、普通の草なのに一葉は春に芽吹き、夏になっても葉は一つ、その一枚の葉が大きくなるだけだ。そのことを芭蕉は発見し、感動したんだろうな。その感動を句にしたのが、「夏来てもただひとつ葉の一葉かな」だったということなんじゃないのかな。
華女 今、気付いたんだけれど、「一葉かな」は「ひとつばかな」じゃ、六音になるわね。この句、破調なのかしら。
句郎 「一葉かな」は「ひとはかな」と読めば五音になる。
華女 なるほど、「ひとはかな」ね。
句郎 芭蕉は一葉を見て、自分の人生を思ったのかもね。自分は生涯、もう妻を娶ることはないだろうな。夏になっても、冬になっても、春が来ても自分は独り者、独り者の人生なんだという感慨を夏の一葉を見て覚えたのかもしれないな。
華女 アレゴリーね。アレゴリカルな句は読者にいろいろなことを想像させるのよね。
句郎 山本健吉は俳句は象徴詩ではなく寓意詩だということを「純粋俳句」という評論文で述べているからね。
華女 寓意性のある句が読者をひきつける魅力なんじゃないかしら。
句郎 そうなのかもしれない。松浦寿輝氏が言うように「夏来てもただひとつ葉の一葉かな」の「ただ」という言葉が読者の想像力を喚起する力を発揮しているのかもしれないな。
華女 きっと、そうなのよ。私もだんだんこの句が名句なのかもしれないなと思い始めたわ。
句郎 華女さんの想像力を刺激する力がこの句にあるのかもしれないな。きっとそうなんだろう。

醸楽庵だより  658号  宿りせん藜(あかざ)の杖になる日まで(芭蕉)  白井一道

2018-03-01 13:06:22 | 日記


 宿りせん藜(あかざ)の杖になる日まで  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「宿りせん藜(あかざ)の杖になる日まで」。芭蕉45歳の時の句。「其草庵に日比ありて」と前詞がある。『笈日記』にある。
華女 「あかざの杖」とは、有名な杖なのかしら。
句郎 テレビ時代劇ドラマ『水戸黄門』の黄門様が持っている頭がゴツゴツした杖が藜(あかざ)の杖のようだ。
華女 黄門様が持つ背丈ぐらい大きな杖ね。
句郎 とても軽く、硬くて丈夫なもののようだよ。
華女 藜とは、花の咲くひまわりのような芯をもった植物なのよね。それが杖になっているのね。
句郎 花が終わると刈り取り乾燥させ、手を加えて杖にするんじゃないかと考えているんだけどね。
華女 じゃー「藜の杖になる日まで」とは、死ぬまでということなのかしら。
句郎 死ぬまでじゃなく、藜が枯れて杖になる秋までここで世話になりたいなぁーとよばれた亭主への挨拶吟だったんじゃないかな。
華女 「其草庵」の亭主とは、誰だったの。
句郎 岐阜の日蓮宗妙照寺住職日賢和尚のようだ。後に『笈の小文』として
出版された旅の途中、京都で芭蕉に入門し、弟子になった。俳号は己百(きはく)。己百がその折に「しるべして見せばや美濃の田植え歌」と句を詠み、芭蕉を岐阜に誘った。手厚いもてなしに芭蕉は己百さんへ挨拶した句が「宿りせん藜(あかざ)の杖になる日まで」だった。「おもひかねその里たける野猫哉」という己百の句が『續猿蓑』に載っている。
華女 芭蕉は俳諧師として人気があったのね。門人が増えると言うことは、芭蕉にとっては、生活が安定するということよね。
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』によるとこの句を芭蕉は貞享五年に詠んでいると解釈している。貞享四年に「古池や蛙飛びこむ水の音」を詠み、蕉風に開眼したと言われている。この句は『蛙合』として出版された対抗句の巻頭を飾った句であった。この『蛙合』が売れ、芭蕉の人気が出た頃だったのかもしれないな。
華女 芭蕉は旅に生き旅に死んだ漂泊の俳人のように思っていたけれど、旅の生活は楽しく、豊かな食べ物にも恵まれていたのね。
句郎 江戸深川芭蕉庵での生活はほとんど収入のない生活だったようだから苦しく、食べ物にも事欠く生活だったんじゃないのかな。
華女 「艪(ろ)の声波を打って腸(はらわた)凍る夜や涙」という句があったわよね。
句郎 芭蕉が深川芭蕉庵に引っ越したころの句かな。何一つ暖房設備のない冬、芭蕉庵での極貧生活を詠んだものなんだろうな。
華女 深川芭蕉庵での生活より、旅の生活の方が夜は暖かく、食べ物に事欠くことは少なかったのかもしれないわね。
句郎 旅に生きることによって生活が成り立っていたということなんだろう。俳句にも迫力が出たということなんじゃないのかな。
華女 俳諧を楽しむ人がいたということなのよね。
句郎 当時、俳諧は余暇を楽しむ遊びだったからね。まさに芭蕉は余暇を楽しむ人々を満足させる話術と芸をもった遊び人だったのかもしれないな。