醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  667号 旅にあきてけふ幾日(いくか)やら秋の風(芭蕉) 白井一道

2018-03-10 06:58:49 | 日記


 旅にあきてけふ幾日(いくか)やら秋の風 芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「旅にあきてけふ幾日(いくか)やら秋の風」。芭蕉45歳の時の句。『真蹟集覧』「秋立日」と前詞がある。
華女 「旅にあきて」上五が六の字余りの句ね。
句郎 「旅にあき」とした方がすっきりするにもかかわらず、「旅にあきて」と字余りにしている。旅にあきての「て」に芭蕉の気持ちが籠っているのじゃないのかな。
華女 私がこのような句を詠んだら、先生に「て」抜きにしなさいと指導されそうな気がするわ。
句郎 確かに「て」という言葉は生き生きしていないというか、だらっとした気持ちが出ているようにも感じられるからね。
華女 この句場合、「て」が輝いているようも感じるわ。「て」があってこそこの句が生きて来るようにも感じられるわ。
句郎 旅に生き、旅に死んだ芭蕉にも旅に飽き、辟易する日々があったということなんじゃないのかな。
華女 こんな旅をして何になるんだということよね。
句郎 旅に飽きたということは、句を詠むことに飽きたということなんだと思うよ。
華女 俳句商人(あきんど)に嫌気がさしたということなのかしら。
句郎 俳句商人だから旅を続けることができる。俳諧を取り仕切ることができるから、お客さんが付く。有難いことに違いないが、下手な客との付き合いに嫌気がするということがあるんじゃないのかな。
華女 わかるような気がするわ。
句郎 昔、テニスクラブでアルバイトをしていたことがあるんだ。そのとき、ベテランのコートキーパーがよく言っていた言葉を思い出すよ。テニス芸者は辛いもんだよとね。
華女 テニス芸者とは、どんなことを言っているの。
句郎 テニスを楽しみたいというお客さんとゲームする人を言うんだ。テニスの下手な客を楽しませる術を持っている人をテニス芸者と言っていたよ。
華女 なるほど分かったわ。ダンスホールにもいるわよ。ダンスしたがる下手な男とダンスして楽しませるダンサーがいるわよ。
句郎 俳諧の席にもそのような初心者が来る。そのような人を相手に句を詠み合うことに嫌気がさすということが芭蕉にもあったんじゃないのかな。
華女 江戸時代の俳諧師は一種の芸者だったということなのね。
句郎 俳諧師とは、俳諧の座に参加する人々を楽しませる芸を持っていた人なんじゃないのかな。
華女 そうよね。楽しくなくちゃ、人は集まって来ないものね。強制的に人を集め、お金を取るのが学校ね。俳諧は学校とは違っているわ。
句郎 俳諧とは、笑い、遊びだからね。笑いがあるから人が集まる。娯楽として楽しむことができるから人が集まる。お金が師匠に集まる。俳諧師の生活が成り立つ。
華女 元禄文化とは、町人の文化だと昔、教わったわ。落語なんていうものもその頃に生まれてきてものなのかしらね、
句郎 そうなんじゃないのかな。俳諧も落語も歌舞伎・浄瑠璃、浮世絵も。そうした人々の気持ちの一端をかいま見せてくれている句が「旅にあきてけふ幾日(いくか)やら秋の風」なのかもね。

醸楽庵だより  666号  おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな(芭蕉)  白井一道

2018-03-09 11:46:28 | 日記

  おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな」。芭蕉45歳の時の句。『曠野』にある。「岐阜の庄長柄川の鵜飼とて、世にことごとしう言ひののしる。まことや、その興の人の語り伝ふるにたがはず、淺智短才の筆にも言葉にも尽すべきにあらず。「こころ知れらん人に見せばや」など言ひて、闇路に帰る、この身の名残惜しさをいかにせむ。」と前詞がある。
華女 長良川の鵜飼いは三百年も前から有名な観光産業になっていたのね。「岐阜の庄長柄川の鵜飼とて、世にことごとしう言ひののしる。」とは、そういうことなのよね。その面白さは言葉では言い表せられない。実際に見物しないと分からない。そんな思いをもって帰る名残惜しさと哀しみは尽きないと、いうことなのよね。
句郎 1970年代、ビジネスで東京に来たアメリカ人が日曜日の東京は何もないと退屈に辟易していたとき、長良川の鵜飼いを知り、見に行ったら、病みつきになったという話を読んだことがあるよ。
華女 蒸し蒸しする日本の夏の夜の鵜飼いは涼しい思い出になるショウのようなものでしよう。
句郎 私はヘミングウェーの『日はまた昇る』を思い出した。スペインの闘牛見物に出かけるところかな。
華女 闘牛も「おもしろうとやがてかなしき鵜舟かな」なんじゃないかしら。
句郎 そうだと思うな。殺された牛の肉に群がる貧しい民衆がいることは、あまり知られていないようだからね。
華女 スキーのジャンプ競技なんかもそうなんじゃないのかしら。だって、大空に飛びあがり100メートル近く飛ぶんでしょ。見ている者は軽業のような芸当に歓声を上げるけれども、もし突風にあおられたらどうなるのかしら。
句郎 プロの将棋指しも同じようなものなんじゃないのかな。15歳の少年に国民栄誉賞を受賞した永世名人の資格を持つ40代後半の棋士が頭を下げて敗北を認める。羽生竜王もまた30年前、まだ少年の面影を残し、40代のタイトル保持者を次々と破り、NHK杯選手権者なったことがあったからね。「おもしろうとやがてかなしき鵜舟かな」だよ。
華女 人の人生って、ごく平凡な人にとっても「おもしろうとやがてかなしき鵜舟かな」という面があるのじゃないかしらね。私だって若かった頃は毎日が楽しかったことがあったような気がするわ。それが歳をとって来るに従って腰が痛い。肩が痛い。足が痛い。出かけるのも大変になって来るなんて思いもしなかったことが起きて来るのよね。
句郎 人生の一面を的確な言葉で表現した句だということができると思っているんだけれどね。
華女 この句は名句よ。人生とは「おもしろうてやがてかなしき鵜舟」なのよね。そう思うわ。
句郎 僕もそんなふうに感じているんだ。しかし、人それぞれ山本健吉はこの句を失敗句だということを述べている。その理由が何なのか、さっぱり分からないが山本健吉はこの句を評価していない。
華女 いろいろな解釈があっていいんじゃないのかしらね。

醸楽庵だより  665号  このあたり目に見ゆるものは皆涼し(芭蕉)  白井一道

2018-03-08 13:27:33 | 日記


 このあたり目に見ゆるものは皆涼し  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「このあたり目に見ゆるものは皆涼し」。芭蕉45歳の時の句。『笈日記』にある。「十八楼ノ記 美濃の国長良川にのぞんで水楼あり。あるじを賀島氏といふ。稲葉山うしろに高く、乱山西にかさなりて、近からず遠からず。田中の寺は杉のひとむらに隠れ、岸にそふ民家は竹の囲みの緑も深し。さらし布ところどころに引きはへて、右に渡し舟うかぶ。里人の行きかひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるるおのがさまざまも、ただこの楼をもてなすに似たり。暮れがたき夏の日も忘るるばかり、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるるかがり火の影もやや近く、高欄のもとに鵜飼するなど、まことに目ざましき見ものなりけらし。かの瀟湘の八つの眺め、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひこめたり。もしこの楼に名を言はむとならば、「十八楼」とも言はまほしや。」と前詞がある。
華女 長良川の眺めは中国の瀟湘や西湖の眺めに匹敵すると讃えたのね。
句郎 招かれた賀島氏への挨拶だったんだろうな。
華女 中七が八になっているわね。「このあたり目に見ゆるもの」と七にした方が口調がいいのに、何故芭蕉は中八の字余りにしたのかしら。
句郎 字余りについて芭蕉は『三冊子・あかそうし』の中で次のように述べている。
「朝顔や晝は錠おろす門の垣」
「碪うちて我に聞せよや坊が妻」
「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」
「此句ども字餘り也。字餘りの句作の味ひは、その境にいらざればいひがたしと也。かの、人は初瀬の山おろしよと有、字餘りの事など云出て、なくてなりがたき所を工夫して味ふべしと也」。百人一首に「うかりける人を初瀬(はつせ)の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを」という歌があるでしょ。「山おろし」は五音で口調がいい。それを「山おろしよ」と六音の字余りにしている。この字余りに作者の思いが籠っていると言うことを芭蕉は述べている。
華女 「目に見ゆるものは」に作者芭蕉の思いが籠っているということね。
句郎 「目に見ゆるもの」では、芭蕉の思いが伝わらない。「目に見ゆるものは」と表現することによって読者に思いを伝えようとしたということなんじゃないのかな。
華女 本当にお招きにあずかってありがとうございましたと宿の主人、賀島氏に挨拶したということなのね。
句郎 「涼し」という言葉がどんなにか気持ちがいいということを表現しているしね。
華女 むしむしする日本の夏の御馳走は涼しさよね。
句郎 なんとも平明でこんなごくごく普通のことを普通に表現するものが俳句というものなんだと述べているような句なのかもしれない。
華女 ほんとにそうね。
句郎 なんでもないことに気付く、驚くということが俳句になるということかもしれないな。
華女 もう既に三百年も前に表現されてしまっていることだから、今はもう何も残っていないような気持にもなってしまいそうね。
句郎 でもまだまだあるよ。

醸楽庵だより  664号  『芭蕉という修羅』を読む④  白井一道

2018-03-07 11:35:42 | 日記


  『芭蕉という修羅』を読む ④


句郎 芭蕉の句の中で一番有名な句というと言わずと知れた「古池や蛙飛びこむ水の音」だよね。嵐山光三郎氏は『芭蕉という修羅』の中で「古池や」の句を寂びの句ではなく、修羅の句だと主張している。
華女 「古池や」の句は蕉風開眼の句だと言われているのよね。その句を修羅の句とはどのような意味なのかしら。
句郎 修羅とは、生存競争のため、闘っている人間を言う。「古池や」の句は生存競争のため闘っている句だと言うことだと思う。
華女 「古池や」の句をどうしてそんな風に解釈できるのかしら。
句郎 天和二年(1682)八百屋お七の火事があった。駒込大円寺に発した大火によって芭蕉庵は類焼した。芭蕉は小名木川にとび込んで難を逃れることができた。芭蕉庵に接してあった池は生け簀だった。その古池には泥水入り、火事の難を逃れる人々が入り込んだ池だ。火事後五年、貞享四年(1687)その池に蛙が飛びこむ音を芭蕉は聞いた。火事の難を逃れる人々が古池にとび込む姿が脳裏に蘇った。まさに人々は自分の生存をかけて闘う姿だった。
華女 古池に蛙が飛びこむ音を聞いた芭蕉は八百屋お七の火事を思い出し、必死に逃げ惑う人々を詠んだ句が「古池や」の句だということなのね。
句郎 そういうことのようだよ。
華女 侘び、寂びとは全く違う世界ね。蕉風と言われているものとも大きく違っているように思うわ。
句郎 私もそう思うな。
華女 こんな解釈があるのかという気持ちだわ。私は長谷川櫂氏の解釈がいいなぁーと思っているのよ。
句郎 長谷川氏はどのように「古池や」の句を解釈しているの。
華女 芭蕉の弟子の各務支考が著した『葛の松原』を長谷川氏は研究し、「古池や」の句を解釈しているのよ。長谷川櫂氏は著書『古池に蛙は飛びこんだか』という著書を著したわ。
句郎 『古池に蛙は飛びこんだか』という書名から想像すると蛙は古池にとびこんではいないということなの。
華女 そうなのよ。貞享四年、芭蕉は一人草庵にいると蛙が水に飛びこむ音を聞いた。「蛙飛びこむ水の音」という中七と下五ができた。上五を何とおこうかと考えていると一緒にいた其角が先生、「山吹や」では、いかがでしょうと言うと芭蕉はそれを拒否して「古池や」と置いた。このようなことが『葛の松原』に書いてあるそうよ。
句郎 なるほどね。蛙には山吹。和歌の世界なのかな。山吹に鳴く蛙。この蛙は河鹿蛙(かじかかえる)。まるで鶯の鳴き声のような美しい声で鳴く蛙がいるんだ。「色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花」小野小町の河鹿蛙と山吹の花を詠んだ歌がある。さらに「音にきく井手の山吹見つれども蛙の声は変らざりけり」と紀貫之も山吹と蛙の鳴き声を詠んでいるからね。
華女 芭蕉は蛙の鳴き声ではなく、蛙が水に飛びこむ音を詠んだところに俳諧を発見しているのよ。蛙の飛びこむ水の音を聞き、芭蕉は古池を思い浮かべたという句なのよ。

醸楽庵だより  663号  『芭蕉という修羅』を読む ③  白井一道

2018-03-06 11:51:46 | 日記


  『芭蕉という修羅』を読む ③

句郎 嵐山光三郎氏は『芭蕉という修羅』の中で芭蕉はやむなく延宝8年(1680)日本橋から深川の草庵に移ったということを述べている。通常述べられている点取り俳諧に嫌気がさし、純粋に文学的な理由から大都会の日本橋から片田舎の深川に居を移したと言われている主張を否定している。
華女 なぜ芭蕉は日本橋から深川に移らなければならなかった理由とは、何なのかしら。
句郎 延宝8年(1680)、徳川将軍、四代家綱が没し、五代将軍に綱吉が就任した。このことと深く関係があるということなんだ。三代将軍家光が亡くなる僅か十一歳の家綱が四代将軍に就任する。実際の幕府を支配したのは老中といった人々だった。その中にあって最終的に権力を握った者が大老酒井忠清だった。五代将軍に就任した綱吉は大老酒井忠清を免職し、酒井忠清に繋がる者たちに対する粛清を進め始めた。芭蕉の後ろ盾となり、芭蕉の江戸での安全を保障していた伊賀上野藩主藤堂高久は大老酒井忠清の娘婿であった。このことを恐れた芭蕉は俳諧師として派手な行いを慎んだ方が身のためになると判断し、人の目に立つ日本橋から片田舎の深川に居を移したのではないかというのが嵐山光三郎氏の主張のようなんだ。
華女 江戸時代は、恐ろしい社会だったのね。
句郎 派閥の争いというのは熾烈な戦いなんじゃないのかな。
華女 そうね。前回の衆議院選挙だったかしら。民主党の大阪府の候補者たちは一人も希望の党から立候補できなかったみたいよ。これ派閥の争いよね。
句郎 今は殺されることはないだろうけれどね。政治の世界は恐ろしい世界であることに変わりはないのかもしれない。
華女 芭蕉は、政治の世界とはかけ離れたところにいたにもかかわらず、綱吉の粛清を恐れた理由は何だったのかしら。
句郎 嵐山光三郎氏がはっきり述べているわけではないが、芭蕉は上水道工事の責任者を三年間していたようだからね。
華女 上水道工事の責任者だったことを恐れる理由があるの。
句郎 江戸市中の上水道網を知っているということは、恐ろしいことだったのかもしれない。なぜなら、上水道網は秘密、人に知られてはならないことだったみたい。戦争、戦いを前提としている社会にあっては、天気とか、地形、交通網などは秘密だ。それらの情報を知られるとダメージを受ける危険性があるからね。上水道に毒を入れられるとひとたまりもないからね。
華女 あぁー、思い出したわ。お城の設計をした人はお城が完成した後、殺されたという話を聞いたことがあるわ。
句郎 四代将軍徳川家綱の大老酒井忠清の娘婿として藤堂高久は間違いなく莫大な利権を得ていたようだからね。その利権の一つが上水道工事だったのかもしれないな。だから日本橋の旦那衆、日本橋小田原町の町名主、小沢卜尺や川魚問屋幕府御用達の杉山杉風などと芭蕉は話し合い、深川へ隠れたと嵐山氏は述べている。また芭蕉は剃髪し、出家を装い、墨染の衣を身に纏い始めたということらしい。