加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



木曽坂・宝円寺裏門坂・みどり坂(金沢市東兼六町17先)

 木曽の山中のような幽すいな所なのでこの名がついた。その一部は宝円寺の裏門の坂なので裏門坂ともいわれていた。

 前回の投稿でみどり坂、裏門坂と区別して記載したが、古い地図を見ると木曽坂と書いた道はみどり坂を通り裏門坂を抜けている。みどり坂から先の源太郎川沿いの道は新たにつけられた道のようだ。

 昭和初期の地図には記載されていることから大正後期もしくは昭和初期に新設されたものだろう。

 みどり坂、裏門坂はもともとは木曽坂だった。つまり「一坂二名」なのかもしれない。



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小尻谷坂(金沢市東兼六町1-11先)

藩政期の中ごろ尻谷坂(汁谷坂・尻垂坂等)より小さいところから、この名がついたといわれている。(標柱より)

 
旧小尻谷坂


明治期に設けられた小尻谷坂

 俗に言う男坂・女坂で言うと真っすぐ階段で登るほうが男坂、なだらかな坂道で登るほうが女坂とでもいおうか?

 何方の坂を登っても兼六坂に出る。坂道の標柱はなだらかな坂の中間あたりに雑草に埋もれひっそりと立っていた。

  

観光名所兼六園のすぐ横にあるが、坂道を通る人もほとんどいない。

 

 階段の小尻谷坂を登り兼六坂を横断すると兼六坂に並行する「上坂」に登る階段がある。その先には兼六園の上坂口に登る階段と続く。

【兼六坂】その昔は「尻垂坂」と呼ばれていた時期があるそうだ。どうして尻垂なのか?あまり良いネーミングではないようにも思うが。1924年4月出版の金澤市外電車略図にも公園下の次の停留所に「尻垂坂」の名前が記されている。その後の1956年(昭和31年)金沢市街地図も尻垂の名が残っているがその後の地図には兼六に代わっている。正確には昭和33年に「兼六坂」と改名されたとのことだ(サカジローより)

 また、この道を市電が走っていたという。この坂を登り石引まで市電が走る、もし可能ならそんな風景を見てみたいものだ。

 富山市内を走る市電・ポートラムのように。



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八坂(金沢市東兼六町2-37先)

昔、付近に木こりが通う八つの坂があったのでこの名がついた。のち、一つが残り、宝憧寺坂、伊予殿坂とも呼ばれた。(標柱より)

前回の木曽坂より安藤坂を上ったところに旧百々女木町の旧町名標柱があり、ここから道を右に進むと小立野通りへと出る。

小立野通りに突き当たったところで再び道を右に真っすぐ進むと歩道右に辰巳用水が暗渠からオープンになり現れてくる。

 

 辰巳用水のせせらぎ(この時は水がほとんどなくせせらぎとはいきませんでした)を聞きながら進むと旧奥村家(宗家)上屋敷土塀が連なる。奥村家については別の機会に、ここは現在、国立病院機構 金沢医療センターが建つ。

 道は兼六園にと突き当り右が兼六坂、左は石川県立能楽堂、石川県立美術館、最近移転(2020年10月)した国立工芸館、石川県歴史博物館等々が建つ、芸術・歴史・文化のエリアだ。

 今回は道を右手に進み兼六坂を下る。兼六坂はすぐに左に直角に曲がる。右に曲がらず真っすぐ進むとそこが八坂だ、この道は車両進入禁止となっていて徒歩、もしくは自転車しか手段はない。でも自転車で降りるには少し抵抗がある。やはり徒歩で石段を下りるのが一番安全だ。ちなみにこの坂道は斜度13度、約22%くらいの勾配(数字で言われてもピンとこないが)らしい。

 

 八坂を下りたところに曹洞宗松山(しょうさん)寺があり寺院の参道と八坂が並びとても広い坂道となっている。


松山寺境内

 ここまで降りると兼六坂の車の騒音も届かず、また訪れる人も少なく静かだ。

 八坂からそれてしまった、兼六坂から入ると道はくの字に曲がっていて曲がったあたりから眺望が開け正面には卯辰山を見ることができる。また、坂の途中にはベンチもあり一休みしながら浅野川沿いの街並み、卯辰山を眺めるのも……。

 



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