加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



伏見桃山城 別名:桃山城、木幡山城

 

秀吉が築き、家康が建てなおした名城

伏見城は3度にわたって築城され、1592年に指月山に築かれたものを指月山伏見城、後に木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に、徳川家康によって再建された徳川期とにわけられます。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が。
 
秀吉の死後豊臣秀頼が大阪城に移ると、代わって徳川家康がこの城に入り政務を行いました。関ヶ原の戦いの際には、家康の家臣である鳥居元忠らが伏見城を守っていましたが落城。建物の大半が焼失。
 
焼失した伏見城は1602年ごろ家康によって再建され、1619年に廃城とされ。この時、建物や部材は、二条城、淀城、福山城などに移築された。伏見城の後には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられ、桃山と呼ばれるようになり、やがて伏見城は桃山城、あるい伏見桃山城と呼ばれるように。

 

模擬天守

現在は天皇陵となっている伏見城本丸跡一帯の少し北側に、模擬天守。
伏見城の一部や武家屋敷などが建ち並んでいた桃山丘陵の一角に、かつて「伏見桃山城キャッスルランド」という遊園地がありました。模擬天守はその遊園地の中に建てられていたものなの。
1964年(昭和39年)にオープンした施設で、模擬天守の他に、ジェットコースターやプールなどがあり、大変人気がありましたが、2003年に閉園。模擬天守も解体される予定でしたが、地元の人々からの要望もあり、残されることになり、現在この一帯は、京都市管理の「伏見桃山城運動公園」という公園として整備。
遊園地時代には天守の上からあたりを一望できたのだそうですが、現在は、建物の耐震の関係で天守の中に入ることはできません。歴史的・文化的価値はありませんが、見応え・迫力は十分。

 

ここのところは家康ブーム、秀吉のことが忘れ、伏見城のことが忘れ去られたような気がするのは私だけだろうか。

現在の両天守付近はロープが張られ、立ち入りどころか近づくこともできない状態になったまま放置されている。この建物の管理は何処が行っているのだろう?

整備の計画でもあるのだろうか?

模擬大手門

大手門をくぐったところから見る模擬天守と小天守

模擬天守

小天守

1964年(昭和39年)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にして5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が6億円(当時の金額)をかけて鉄筋コンクリート構造で造られた建物。

 

城下町には、大手門から西に伸びる大手筋を基軸として碁盤の目に街路が整備されていた、その中には前田家の屋敷もあった。この地は加賀百万石ともかかわりのあった地のようだ。

出来れば太閤はんが建てた伏見城、家康が再建した伏見城、歴史の大舞台の中心にあった伏見城を再び見てみたい。

今回は木之元を過ぎ長浜にて車を駐車、JRにて長浜-米原-京都-桃山と普通列車での小旅行をしてみました。

なかなか電車に乗る機会がなく久しぶりの電車、京都駅も随分と変わってい近鉄京都線からの乗り換えにちょっと戸惑ったりして田舎者丸出しでした。

車と違って神経をすり減らすこともなく気楽な小旅行で年を痛感しました。

でも、帰路長浜からの高速道路では積雪、木之元サービスエリアでは一瞬に真っ白、事故情報も入りもしかして通行止めの文字が脳裏をよぎる。早くこの区間を抜けないと、休憩もそこそこに車を走らせる。

途中には事故車もあり、上り線がすでに通行止め、下り線も私が抜けた後に通行止め。サービスエリアでゆっくりしていたら約4時間の足止めをくうとこでした。

何とか無事に帰宅することが出来て一安心。

北陸の雪道は危険と隣り合わせ、皆さんの気を付けて・・・・・。

 

写真:2023.12.17(日)

 



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冬の日本海

どんよりとした空、吹き付ける北西の風、荒れ狂う海。これが冬の日本海。

ひとたび冬型の気圧配置になるとこのような風景が数日間続く。そこに湿った雪が降り積もる。

ここは敦賀港に近い大比田海岸

大きな波が来ればひとのみ飲み込まれてしまいそうな集落。

ここにも人々のいとなみがあり暖かいだんらんがある。

冬来りなば春遠からじ』と、こんな言葉を思いだす。

 

敦賀から山を越え木之元に出るとそこには青空が広がっていた。

写真:2023.12.17撮影



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温泉でのんびり、まったりした翌日遅めの出発

好天に恵まれ、冬日和

お土産屋さんの軒先に湧き出る温泉で温泉卵

温泉街のいたるところに温泉が流れ出ていて、道端の側溝からは湯気が立ち上る。

そんな温泉街を後にして近くの滝を見に、平湯温泉スキー場駐車場に車を止め滝まで900m程度。

夏場なら滝近くまで車で行けるのだが積雪時は徒歩にて。

 

程なく滝が見えてくる。

日差しが滝の上から降り注ぐ、逆光で滝が入らない。

滝見台から先は通行禁止となっているが、柵をくぐり滝の下まで

 

水量が多いのか、気温が高いのか、それともその両方なのか凍りついた冬滝にはなっていない。

滝谷上流砂防から流れ落ちる水、ここから流れ出た水は遥かに離れた遠山湾にと流れ出る

平湯キャンプ場にと続く吊橋

スキー場は雪不足か休業状態

スキー場を眺めながら平湯を後にする。

冬日和の冬野より

撮影:2023.12.10



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青空に誘われて山手へと車を走らせる。例年なら雪に覆われている道も今年は夏道と変わらない。道路わきの冬木立の間からは青空を覗かせている。

道の駅 奥飛騨 温泉郷上宝から見る焼岳

笠ヶ岳方向を見るがどの山が笠ヶ岳だろうか?


こちらは錫杖岳?

鍋平防災ヘリポートより撮影

ヘリポートより見る山々

外が谷の砂防と谷に架かる橋

この時期雪に覆われここまで入ることが出来ないのだろうが、鍋平園地駐車場には登山者の車だろうか多くの車が止められていた。

鍋平高原駅方面は登記通行止めのため川沿いに降りて新保高温泉駅へと

山を眺めていると飽きることがない。

時間が許すなら暮れてゆく山々を眺めていたかった。

 

12月吉日 山日和

 



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園内を染める落葉 その二

園内の木々を彩る紅葉(もみじ)。光、青空、水面が一層鮮やかにしてくれる。

撮影:2023.11.26 午前



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園内を染める落葉

園内の木々を彩る紅葉(もみじ)、枝から離れた紅葉(もみじ)は、また園路を木々の下を覆う苔を一層鮮やかにしてくれる。

撮影2023.11.26 午前



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朝から天候も快復した高岡市、気になっていた古城公園の紅葉を見に。

着いた頃には園内には大勢のカメラマン、散歩する人等々で賑わっていた。

中の島

朝暘橋を渡る

まだ青紅葉の残る射水神社裏付近

撮影2023.11.26 午前

 



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帰厚坂の紅葉

卯辰山の歴史散歩道です。天神橋を渡り、帰厚坂から花菖蒲園までの267メートルの坂道


帰厚坂に架かる帰厚橋越しの紅葉

帰厚坂の由来

加賀藩主、前田慶寧が慶応3年卯辰山を開拓したときの坂で、「藩主の厚き徳に帰する」の意味から名づけられた

 

卯辰山公園線の紅葉 金沢卯辰山工芸工房から望湖台

いつもは車で通りすぎる場所ゆっくり歩いてみました。

花木園入り口

撮影」2023.11.26

随分と日が経って紅葉も終わったころでしょう、次は雪景色かな???

 



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晴れた日の午後紅葉谷は赤く染まっていた。

11月が暖かな年は紅葉谷のもみじは赤くなる前に枯れて落葉する。と誰かが言っていた。その言葉をいい方向に裏切ってくれた。


紅葉谷の階段を登ると卯辰山公園線出る道路から見たもみじ


菖蒲園から見る紅葉谷(もみじだに)

 

玉兎ヶ丘の紅葉は終わりを告げている


もみじの絨毯を引き詰めた園内

卯辰山公園見晴らし台


「風の樹」新宮晋と紅葉のもみじ、

見晴らし台から右側を眺める

見晴らし台右側の遊歩道を下りていくと整備、植樹されたもみじが紅葉している。いつもは見晴らし台の上しか行かないのでこんなところがあるとは知らなかった。


もみじとブナの木だろうか足元にはたくさんのドングリが落ちていた。

 

見晴らし台横の駐車場からふれあい広場に降りるとそこにももみじが植林されている。

卯辰山公園には、まだまだ紅葉の綺麗な場所があるようだ。今シーズンの紅葉は終わりかもしれない。また、来シーズンに散策する楽しみをとっておこう。

撮影2023.11.26

 



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天空の城苗木城跡を訪ねて

岐阜、美濃のマチュピチュ日本の山城ランキングで一位に輝いた山城。標高432メートルの高森山の自然の地形、巨石をうまく利用した見事な城郭、石垣。

大門跡跡

大門を「だいもん」と読むのは、寺院のいちばん外側にある大きな門、ないし、禅寺などの正門の場合です。これに対して、城郭や邸宅の第一の表門は、「おおもん」と読むそうです。苗木城の場合は、「おおもん」と呼びます。

大門を入り、右にやや降りると二の丸、登ってゆけば本丸へたどり着くという要所にあります。現在は、跡しかありませんので、新田淳の「苗木明細記」で調べてみます。

「ここは足軽が門番役を担当する。城主が江戸へ出立の時、在着の時、あるいは規式や正月三ケ日は開門する。ただ一通りの出入りは潜り戸を使用する。城内で最も大きな門なので大門という。」

1600年、遠山友政が苗木城を奪還する以前は、大門が大手門にあたり、その前には深い空堀があり、木橋を架けて往来したようです。

御朱印蔵跡

大門を入った左手に土蔵があり、土台は、石を四角く削った切込接(きりこみはぎ)の石垣で、隙間なく整然と積まれています。

蔵の中には、刀剣や宝物も入れられましたが、最も大切に納められていたのは朱印状でした。


綿蔵門跡

大門を入り、左手に御朱印蔵、右手に勘定所門を見ながらまっすぐ進むと綿蔵門がありました。綿蔵門は2階建てで,2階部分は年貢の真綿を保管する部分になっていました。

江戸時代、綿は米に次いで重要な換金作物でした。苗木藩の場合、文化7年(1810年)には、村方(むらかた)(村政を担った百姓)から約47kg(30550センチメートル3)の真綿が納められました。

道を登りながら右下方向を見ると二の丸跡、そしてその先に城山大橋を見ることが出来る。

コースは180度反転する反転した所に坂下門。門の連続

坂下門

三の丸から大門、綿蔵門と進み、U字に折り返すように曲がると、さらに登り坂になっており、その手前に坂下門がありました。この門には久世門という別称があります。

3代藩主友貞は、正室に下総国関宿(せきやど)藩主久世広之の娘を迎えました。広之は、2代将軍秀忠の小姓、3代将軍家光の小姓、4代将軍家綱の御側をつとめ、さらに若年寄、老中を歴任し、下総国関宿5万石(はじめは兄から分与された下総国海上郡内の500石しかなかった)を拝領した人物です。

坂下門を過ぎて右手を見ると大きな天然石の石垣、一枚岩がそそり立っている。ここまで上がると先ほどの大矢倉を上から見ることが出来る

道は櫓門跡にと突き当たりここで再び反転する反転した所には千石井戸がある

菱櫓門(ひしやぐらもん)

享保3年(1718年)の苗木城絵図 菱櫓門跡
櫓門は、門の上に櫓を載せた二階建ての門です。

櫓は、矢倉とも書き、武家の屋敷や城郭の要所に設けられ、敵を監視するとともに戦闘に必要な武器庫となっていました。

櫓門は、ふつう、石垣と石垣の間を渡すように建てるか、独立して建てました。苗木城の場合、片方は柱の穴を掘った巨石で、他方は蔵になっています。

門を下から見ると菱形に掛け渡してあったので菱櫓門の名がついています。

千石井戸

苗木城内に4カ所以上あった井戸のうち、最も高所にありました。それにもかかわらず、どんな日照りでも水が涸れることがなかったと伝えられています。

千人の用を足すと言うことから、千石井戸と名付けられています。

ふと遠くを眺めると雪を頂いた峰々中央アルプスだろうか

これが岐阜のマチュピチュと言われる所以か

具足蔵跡・武器蔵

具足蔵(ぐそくぐら)は、本丸口門から見て右側の崖の上にありました。具足とは、甲冑(かっちゅう)のことです。ここに領主の甲冑や旗が保管されました。

武器蔵は、長さ八間(約16m)、幅三間(約6m)の土蔵でした。建物の長さから八間蔵とも呼ばれました。

ここには大名遠山家が所有していた鉄砲や弓などの武器類が所蔵されていました。現在でも礎石や縁石が当時のまま残されています。

武器蔵を上から眺める

玄関口門跡

の門を潜らなければ天守のある本丸のエリアには入れません。門の上には「本丸口」と書かれた札が懸かっていました。本丸口門は、総欅(そうけやき)造です。古来、神社仏閣などの建築には針葉樹の檜(ひのき)が使われてきました。

本丸玄関跡

丸玄関は、天守より一段低い位置にあります。玄関には玉石が敷かれていました。

現在はここから階段を使って天守台に登ります。城があった時には、玉石のある所から懸造(かけづくり)の通路を通り、東から回って天守に入るようになっていました。通路は広く、千(せん)畳敷(じょうじき)と呼ばれました。

ここまで登ってくると360度の眺望が開ける


木曽川に架かる城山大橋


正面中央に傘を伏せたような山が笠置山


玉蔵大橋と木曽川橋梁(きそがわきょうりょう)
木曽川に架かる旧北恵那鉄道の橋梁で現在は使用されていないようだ。

懸造りの天守

苗木城天守の他に類を見ない特徴は懸造りであったことです。巨石に穴を穿ち、長短の柱を立てて基盤を設け、三層の建物を支えています。

現在は土台部分を復元した展望台になっている。この上に天守が載っていた。

苗木遠山史料館 苗木城天守模型より
苗木遠山史料館 苗木城天守模型

馬洗い岩

天守の南に周辺約42mの巨岩があります。

昔、敵に攻められた水の手を断たれた時、米で馬を洗い、あたかも水があるように見せかけたという伝承があり、「馬洗い岩」と呼ばれています。

二の丸跡

二の丸には、城主の居住空間と苗木領を治める政庁機関が置かれ、これらは廊下でつながっており、一般には御殿と呼ばれました。

御殿は、饗応・政庁などの役割をもった表御殿と城主の私的空間である奥御殿で構成されます。


二の丸跡から本丸方面を見る。

二の丸模型(当館苗木城復元模型より)
二の丸模型(当館苗木城復元模型より)

二の丸を後にして登城してきた道を戻る。帰路はA1駐車場より資料館からB2駐車場へと向かう。

資料館付近にはまだ紅葉が残っていた

資料館は次回の楽しみに・・・・

本文中の説明文は苗木遠山史料館苗木城跡を歩くのサイトより引用詳しくは下記サイトをご覧ください。

中津川市苗木遠山史料館|中津川市

苗木遠山史料館は、中世・戦国時代から明治時代初期に至る、苗木領の歴史的な文化遺産を保存・公開する史料館です。 苗木遠山家の資料を中心に、苗木領と苗木...

想像していた以上に大きな城郭、石の山の上に設けられた天然の要塞、素晴らしい城跡でした。
次回はもっと下調べをして、今回見ることが出来なかったところ訪ねてみたい。



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