写真:七尾城本丸石垣から城山展望台を望む 2007.04.16撮影
霜は軍営に満ちて秋気(しゅうき)清し
数行の過雁(かがん)月三更(さんこう)
越山(えつざん)併(あわ)せ得たり能州(のうしゅう)の景
遮莫(さもあらば)あれ家郷(かきょう)遠征(えんせい)をおも憶う
七尾市街と富山湾側を隔てるように連なる石動宝達丘陵。その北端に位置する七尾山に築城された典型的な山岳城だ。
七尾の歴史と文化より
七尾城の城砦
七尾城は、戦国大名であった畠山氏が築いた山城で、戦国時代、能登の政治・文化の拠点として機能した。その特徴は、天然の要害地形を巧みに利用した設計(縄張)と、山上に築かれた大規模な石垣である。
本丸は標高約三〇〇㍍の山上にあり城主や重臣の屋敷や兵糧倉や武器庫など、城の重要施設が置かれた場所である。この本丸からは、山麓の城下町をはじめ七尾湾の浦々が一望され、周囲には、野面積みの石垣で築かれた桜馬場や調度丸、深い空堀で区切られた二の丸、三の丸などの郭群が並び、樋ノ水などの水場も位置する。
さらに城下町へと広がる尾根は「七つ尾」と総称され、七尾の地名の由来となり、家臣の侍や兵が守りに就いた砦が、幾重にも配置されている砦の構えは、大小の平坦地に防塁や堀切を設けたものである。
天正五年(一五七七)、七尾城を攻略した上杉謙信は、本丸に立ち、「聞きしに及び候より名地、賀・越・能の金目(かなめ)の地形といい、要害山海に相応し海頬島々の休までも、絵像に写し難き景勝までに候」 (「上杉謙信書状写」歴代古案)と書き伝えている。
天正九年一〇月、織田信長から能登一国を与えられた前田利家は、翌年一月から府中の港に隣接した小丸山に築城を始め、山城である七尾城を廃城とした。それは能登に戦国時代の終わりを告げる出来事であった。(垣内光次郎)