カメラを片手に

写真の変遷と奈良に関係する写真家は

深夜の20.2℃が最低気温、重い空気感で蒸し暑ささえ覚える朝の奈良、
明日にかけ、寒気が南下して不安定な天候となるようだ。
      11時半、25.5℃、68%

1963年のこの日、「小さな親切運動スタートの日」で運動本部創立60周年、
きっかけは1963年3月の東京大学卒業式、茅誠司総長が告辞の中の言葉
小さな親切を勇気をもってやってほしい」と述べたことから、6月13日に
茅氏を始めとする8名の提唱者が、「小さな親切」運動を発足させた。
スローガンは
できる親切はみんなでしよう それが社会の習慣となるように
人を信じ、人を愛し、人に尽くす
*Facebookに初代代表茅誠司語る「小さな親切」、動画がUPされている。

今年も5月から第48回になる「小さな親切」作文コンクールの募集を開始、
また実行賞累計受章者がついに610万人を超えていると・・・

殺伐とする昨今、地道な活動に敬意!。

先日、今年度前期奈良学セミナー第1回「写真で見る奈良の名所と入江泰吉」
講師は入江泰吉記念奈良市写真美術館、主任学芸員「説田晃大」さんです。
写真の始まり                        撮影時間
1826年:仏・ニエプス ヘリオグラフィ(アスファルト類似)  6~20時間
           現存最古の写真 
1839年:仏・ダケール ダゲレオタイプ(銀板写真)写真の始まり 10~20分
            コピー不可 
    感光材はハロゲン化銀を塗布した銅板を原板として撮影し、
    これを現像定着させ銅板上に美麗繊細な画像を作り出した            
1841年:英・ダルボットが紙ネガによるネガポジ法        1分程度
    1枚のネガから複数枚プリント可、世界初の写真集『太陽の鉛筆』
1851年:英・アーチャー ガラス板コロジオン湿板        数秒
            特許取得せず、急速に広まる
    ヨウ化物を分散させたコロジオンを塗布したガラス板を硝酸銀溶液に
    浸した感光材、感光剤が湿るうちに撮影し、これを現像定着。 
1871年:英・マドックス ゼラチン写真乾板 撮影で時間(感度)も優れ手持ち可   
    写真乳剤乾燥後も原板の使用を可能とし取扱性、利便性に優れた。
    1878年に工業生産開始、生産量の増大、湿板写真を短期間で駆逐。
1889年:米・ジョージ・イーストマン セルロイドベースのロールフィルム
            現在のカメラの原型
1925年:独・ライツ社が映画フィルムを使う小型カメラ「ライカ」を

日本では
1848年:長崎商人、オランダからダゲレオタイプ機材を輸入、薩摩藩へ
1853年:米・ペリー来航、同乗の写真師が風景や人物を撮影
1857年:島津斉彬の撮影に成功、日本人が日本人を初めて撮影
     1999年写真で初めて国の重要文化財に指定
      文化庁HPより

1862年:長崎の上野彦馬や横浜の下岡蓮杖が写真館を開業した 
     *日本最初の写真館は横浜で米人オリン・フリーマンが開業
1863年:英人写真家・フェリックス・ベアト来日、写真集『View of Japan』
1866年:内田九一(横浜)、富重利平(柳川)、田本研造(函館)ら開業
      東大HPより(内田九一)

1871年:横山松三郎が旧江戸城を撮影『旧江戸城写真帖』2000年重文指定
    太政官少史 蜷川式胤 「破壊ニ不相至内、写真ニテ其ノ形況ヲ留置
    「後世ニ至リ亦博覧ノ一種」 、文化財としての初めての記録64枚
      (湿板原板と淡彩を施し鶏卵紙写真
       文化庁HP

      東大寺・盧舎那仏(ガラス湿板ネガ) 
      文化庁HP

1877年:上野や富重らが西南戦争に従軍し撮影
1884年:小川一真が米・ボストンで写真術、乾板製造法、コロタイプ製板術を
    学びし帰国し、以後大きな功績を残す。
    フラッシュを用いた撮影術、「不変色写真(プラチノタイプ)」術、
    写真印刷術の開発等が挙げられる。
    1888年からの臨時全国宝物取調は、我が国ではじめての文化財保護の
    法律である古社寺保存法制定の前提となった調査で、全国の20万点を
    超える宝物類の調査と等級付けが行われ、撮影もされている。 
      興福寺・無著像(プラチノタイプ) 

さて奈良に移住し写場(写真館)を開いた人物
写真師としては
1884年三好玉映堂、川崎源太郎、大和名所案内記、10秒の露光時間が必要
    目の修正などが行われ器用な人=技術が上手とされたようだ。

北村太一、1885年に移住し、猿沢池畔に写場を開設、奈良の近代写真の草分け
     記念写真に分類され奈良大学に北村コレクションとして収蔵。
     明治の大修理前の東大寺大仏殿 (扉が外され、破風に屋根や傾き)   
      奈良大学図書館蔵 

     興福寺五重塔から三条通方面を望む、南円堂と三条通が生駒山へ
      奈良大学図書館蔵 

工藤利三郎、1893年徳島から猿沢池東畔、菩提町に工藤写真館を移す。
     仏像美術専門の写真家「精華」とて自費出版1-11輯『日本精華』
     奈良を愛した会津八一も写真を買っている。
     個人なのに仏像撮影できたのは、各寺の困窮を訴えたかったから。
     奈良市写真美術館に所蔵される。
     特に1025点のガラス原板は2008年国登録有形文化財に
     特に有名なのは、合掌手を欠損した興福寺の阿修羅像 
      工藤利三郎撮影

     *この頃は光量が不足することから外に出して撮影されている

小川晴暘(せいよう)、洋画を学び日展入選しお祝いに奈良を案内され、仏像
    美術に感動を受け、大阪の朝日新聞写真部に配属、勤務の傍ら撮った  
    石仏の写真を会津八一に認められ、八一の熱心な勧めで新聞社を退職
    1922年文化財写真専門店「飛鳥園」を開く。
    『仏教美術』後の『東洋美術』、『室生寺大観』などを刊行
    *仏像の表現の仕方、複数の鏡を用い絶妙なライティングで引き出す
   
    1918年(大正8年)、和辻哲郎の『古寺巡礼』にも用いられ
    志賀直哉の高畑サロンにも出入りし、対象を東アジアにまで広げる

入江泰吉:大阪で文楽写真家として「工藝社」、空襲で奈良へ引き揚げる。
    半世紀に渡り奈良・大和路の仏像、風景、伝統行事の撮影に専念。
    『大和路』『古色大和路』『萬葉大和路』『佛像大和路』  
    撮影法は昭和30年代は上から見下ろすや、下か見上げるなど混ざる
    昭和40年代に下から仰ぎ見る形に収斂している。 
    
  *1970年、国鉄のディスカバージャパンの奈良の仏像のポスターで
   永野太造と交互で仏像写真採用され、好評を博す。
   交通網の発達で女性の一人旅(アンノン族)でスナップ写真が隆盛に。

永野太造(たぞう):戦後に永野鹿鳴荘(国立奈良博物館開館時は茶店)を継ぎ
   独学で写真を学ぶ。奈良を代償する仏像写真家の一人。
   『奈良六大寺』『大和古寺大観』など、
   約7000枚のガラス乾板が手塚山大学に寄贈されている。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて下記の奈良の風景写真、明治28年以前の写真と考えられます。
というのも、1896年に猿沢池の石段が完成して現在の形になる。
それ以前は踊り場があことがわかりますね。      👇北村写真館か
     1896年以前

このように写真は昔を振り返ることができますね。
6月25日(日)まで、入江泰吉写真展「息づく、大和」展が開催中
明後日6月15日(木)~6月24日(土)までは
奈良を観る~写真で振り返る昭和時代~」展が開催されます。
      絵屋橋の半玉、昭和初期、絹谷晴美氏
      昭和初期

          輪タク、絹谷四郎氏
      昭和29年

      奈良市般若寺町 昭和32年 福川美佐男氏

      今辻子交差点付近
    奈良電気鉄道・奈良発京都行特急 昭和33年、大須賀一之助氏

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コメント一覧

mic8fuji
大変勉強になりました。奈良の写真文化を見ることができ、ありがとうございました。
juraku-album
こんにちは。
よくこれだけの情報を整理されたものだと感心しつつ、
そして興味深く拝見しました。
特に工藤利三郎の評伝を読んだことがあって
阿修羅像を外に運び出して撮ったくだりを思い出してもいました。
ご紹介ありがとうございました。
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