カメラを片手に

松阪城下の御城番屋敷と原田二郎旧邸を

-1.7℃と氷点下の奈良、7時半前に春日奥山の稜線から太陽の光が台所にも
差し込んできて、太陽の動きは春に向かっていることを示している。
でもこれから立春までが冬本番、もうしばらくガマンガマン!ですね。
今日の最高気温は、午後2時前10.9℃まで上がり穏やかな冬日に。
      12時、8.5℃、58%

松阪日帰りの旅は武家屋敷の街並みを散策で、9⃣御城番屋敷の旧同心町の
「原田二郎旧邸」を訪れ江戸時代の街並みを味わいました。
      

松阪城跡の東側に下りれば、石畳の道の両側に生け垣が連なる平屋の長屋が
百メートルほど続き、城を警護する武士集団の「御城番屋敷」で重要文化財に
指定されている。
御定番の祖先は徳川家康の先鋭隊で数々の功名をあげた「蜂須賀党」が元で
1863年に赴任し、40石取り紀州藩士20人の組屋敷です。明治維新という激動
の時代を「苗秀社」創設して潜り抜け、現在も維持管理されている。


主屋2棟(東棟・西棟)・前庭・畑・南龍神社・土蔵から成り周囲に生け垣を巡らしている。
土蔵は、松坂城内の米蔵が移築されている。

南龍神社も祀られる

長屋の一棟は無料で公開され、表札のかかる家もあり、子孫の方だそうです。
一戸あたり、正面五間、裏に一間の角屋が付く広さを持ち、右手に通り土間、左手に田の字型に八畳二間、六畳二間を配置し、式台を構える。

    前に八畳二間             後ろに六畳二間
 

土間の部分の上方、竈からの煙で

反対側の端からお城を望む。江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気です

松阪神社の参道

赤壁校舎は「赤壁(せきへき)」の愛称で知られる松阪工業高校の資料館棟
(旧三重県立工業学校製図室)の建物で、明治35年(1902)に開校した県内
初の工業学校の製図室として建てられた。 
      

旧同心町へ来ると一区画200坪ほどの生け垣に囲まれた武家屋敷が所々に残る
      

その一つ「原田二郎邸」は19世紀中頃の建物で、二郎は松阪奉行所の同心の子
として生まれ、31歳で第74国立銀行の頭取になり、体調を崩し松阪へ戻る。
その後大阪の鴻池銀行の再建をし、全財産(現在で150億)で1920年に財団法
人「原田積善会」を設立し、全国の社会公益事業に助成活動をされている。

前庭です。

 

後ろの庭は、元松阪城のお濠に接していた。

二階は書斎になる。

原田二郎の歌を自身が書く。嘉朝とは嘉永10年10月10日の誕生日に因む
和歌は佐々木弘綱・信綱親子に師事し、強志力行の歌が多いとされる。
ますらをの真心こめて一筋に おもひいる矢のとほらざらめや
      

松阪商人の息遣いを知れるたびになりました。

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