カメラを片手に

帯解寺より200mの龍象寺にも帯解子安地蔵様が

6時前から雨音が・・・本降りになったかと思うと
7時半頃には止むも、8時半頃再度降りだし、10時頃にはしばし雷鳴も聞こえたが、
お昼前には、雲を通して陽の光が射し込み、雨も上がりました。
8時

昨日「帯解寺」で秘仏御開帳等を観させて頂いた後、JR帯解駅へ。
時刻表が多分30分過ぎと勝手に思い込んでいたのが、4時代は6分と53分と。
25分も待たねばなりません。何もない無人駅ですので・・・
駅の南西側の広大池でも鳥をと南側を行くのですが、JR線を横切る道が見当たらない。


.google.mapsより

仕方なく帯解の町の中心、今はさびれた街道へ戻ります。古来この街道は「上ツ道」
奈良から藤原京へ通じる三つの道の一つ、時代が下り初瀬詣でや伊勢参りで賑わった。
丁度ゆるい坂道を上りきる手前に、翻る赤い旗に「安産祈願」と、あれっ!


日本第一 帯解子安地蔵尊」の石碑と
真言宗 龍象寺』、広大寺奥の院、開山行基菩薩とも
HPによれば天平2年(730年)に45代聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建したとされ、
光明皇后をはじめとする宮中から一般庶民の安産、子授けの「帯解子安地蔵尊」とされた。
奥の院と書かれていたので、帯解寺の奥の院と思ってしまっていましたが・・・
調べによると、伝承であるが、先ほど行こうとしていた広大寺池の東畔の高台に
あったとされる「広大寺(光台寺)」の奥の院で、当時は池の南畔にあったらしい。
地元では「帯解奥の院」と親しく呼ばれ、むかしむかしの子守唄に
ここはおびとけ おびをたばるは 子安の地蔵 奥の院」と。
境内にも木の板に墨書されていました。


なおこの山門は、藤堂藩の古市陣屋から帯解小学校の校門と移設され、昭和30年に
当山に移転されており、山門から小さな境内に入りますと、本堂と鐘楼があり、
本堂には寺紋の十六枚の菊紋が。


  

本堂の御本尊は『帯解子安地蔵菩薩』 藤原時代で重文級、帯びは蝶々結びです。
また天井には江戸時代の狩野派の狩野春甫の作の帯解龍王(九頭龍)が描かれ、
HPより
一話に、毎夜、主であった当寺の西方下に広がる広大寺池に遊び、
寺の天井に戻ると、そのしずくを床に滴らせ、信心が深ければ夢にも現れると。

門前にもう一つ旗が翻っていました。白地に赤く「七 五 三」と書かれ、
HPによれば、”当寺の帯解子安地蔵とは、子授・安産だけでなく、「帯解」二文字は
古くは宮中の「帯解(おびとき)の儀」が巷に広まり、9歳から後年、七・五・三へと発展し
それぞれの子供の成長期に、健康にして災いを払う地蔵さま、という意味”に。

しかし北の「帯解寺」と南の「龍象寺」とは直線で200mあまりしか離れておりませんが、
帯解寺のHPを閲覧するに、「ご注意下さい」というページ、
龍象寺のHPも宮内庁腹帯献納所の文字が強調されており、俗にいう本家争いなのか、
二寺並び立たず、あまり仲がよろしくないように感じられます。

駅までの帰り道、帯解の里の夕暮れ、思うことは一つ




帯解寺の行事、7月23日の「帯解寺子安地蔵大法要」で岩田帯の練供養行列がありますが、
現在は、JRまほろば線の西側の「隆興寺(融通念仏宗)」から帯解寺(近年に華厳宗へ)まで
練り歩かれておりますが・・・、
「龍象寺(高野山真言宗)」から「帯解寺(昔は真言宗)」、次の年は反対にと練り歩かれると
霊験あらたかなことこの上ないのでは・・・・・。

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コメント一覧

simohirata229
ご指摘ありがとうございます。
廃仏毀釈で帯解寺でも無住になられたのですね。
南部公民館主催の講座で訪れる機会があれば、
また時間を取り、帯解寺さんにお参りさせていただきます。
倉本堯慧
帯解子安地蔵は帯解寺御本尊様の名称で,龍象寺が帯解子安地蔵を詐称しております。
 江戸時代末期に龍象寺が帯解子安地蔵と名乗ったので、当時の寺社奉行より、使用を差し止められて、もし使用の場合は、閉門せよとの命令をうけています。(帯解寺に証文古文書あり)
 ところが、明治初期の廃仏毀釈時代に帯解寺が無住になった時に、龍象寺が帯解子安地蔵の石碑を建てたのが現在まで存在しているのです。
 そのようなことで、龍象寺は帯解寺と何ら関係ないのです。
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