今朝は2.2℃と平年並みの冷え込みだが、吹く風は冷たく一級の寒波の襲来で
気温の上昇は少なく寒ーい。
11時の春日奥山の上空、東から北は冬の雪雲が連なり、
11時
南東方では、太陽が冬の雲と追いかけっこされている状態で、
晴れ間が持続しない。
さらに南方だけ青空が見えていたのに、
小一時間もすると西から雲に覆われ、奈良と大阪の府県境の金剛山でも今朝初冠雪をもたらした雪雲が流れてきたのかも知れない。
今日は1280年前の天平12年(740年)12月15日に聖武天皇の勅命により、
平城京から恭仁京へ遷都された日で、空白の5年間の始まりです。
12月第一次大極殿
恭仁京は奈良の『平城京』から約5km程離れた京都・山城の木津川沿いの
京都・山城の『恭仁京』へと遷都された日です。
その折平城京の大極殿も恭仁京へと移築された。
だが恭仁(くに)京、正式には「大養徳恭仁大宮」744年2月までの3年3か月、744年に飛鳥時代の難波長柄豊碕宮跡に『難波京』として再度遷都された。
残された大極殿は、山城国分寺の金堂に使われたが、平安時代には焼失した。
現在は史跡名勝天然記念物 ・恭仁京跡(山城国分寺跡)として発掘整備中です。
2018.4恭仁京跡
その『難波(なにわ)宮』も744年から1年弱、745年に三度目の遷都に。
その遷都の地は、恭仁京の離宮として740年から整備が始められた『紫香楽宮
(しがらきのみや)』で、743年に「毘盧遮那仏」、後の奈良の大仏造立も発願されている。なお744年遷都前から『甲賀宮』と名を代えられた。
745年1月には新京と呼ばれているが、山火事や天平地震などの天災が続き、
無理な遷都で財政がひっ迫し、人臣の賛同も得られず、この5月には4度目の
遷都で奈良・平城京へ戻っている。
聖武天皇の治世(729-749)、空白の5年間の前を見てみれば、地震などの天災
や飢饉が相次ぎ、737年には天然痘の流行で多くの民のみならず藤原四兄弟も
全員死亡し、さらに741年10月には九州太宰府での「藤原広嗣の乱」が発生す
るなど国難が相次いでいた。
このような災いを遷都で浄める意味とともに天皇の力を誇示し、さらに各地に
国分寺の建立や毘盧遮那仏の造立など、国家を仏教によって守ろうと天皇の強
い意志の表れだったかも。
今日は12時前の6.4℃が最高気温で、寒さで外に買い物に出る気力もない。
文章を思い浮かべながら・・・COVID-19の第三波での感染拡大という国難で、遅きに失したと思われるGoToの一時停止等、国の意思はどのように反映
するのでしょうか。