今日は冷えた朝と思いきや5.3℃止まり、晩秋の日差しが居間にまで入り、
温めてくれ、東を見れば若草山の一重目のススキが白銀色に光っている。
11時
一昨日の水上池、時計回りに周遊路を巡り、ウワナベ古墳まで行くつもりが
午後4時を過ぎると風が非常に冷たくなり、半分も行かないうちに、磐之媛命平城坂上陵・陪塚い号を回り込み、コナベ古墳を見てヒシアゲ古墳(仁徳天皇
皇后・磐之媛命平城坂上陵)へと戻った。
Google mapより
20日に陵墓参考地「ウワナベ古墳(前方後円墳 5世紀前半 墳丘長255m)」の
後円部北東側周濠部分での宮内庁、奈良県、奈良市三者による共同範囲での
確認調査が発表された。
調査区は東北側と東側の陵墓地外側の墳丘に近い市共有地の4箇所だった。
共同通信より
その成果、築造当初の墳丘裾部つまり先端部が10m先で見つかり、後円部は
150mにもなり、当初は空堀で全長が270~280mと推定され、全国第12位の
規模になった。
また宮内庁の調査でも、3段築成の墳丘の1段目テラスなどで埴輪列と葺石が
確認され、墳丘の1段目は地盤を削って造り、2、3段目は盛り土であったと
推定される構造と判明した。
なお21日~23日にかけ現地見学会も催されていた。(知らず、残念)
今までの調査で「ウワナベ古墳」は陪塚(ばいちょう)から872点もの鉄製品が
出土し、仁徳天皇の皇后・八田(やた)皇女の墓という説もある
えぇ、コナベ古墳(磐之媛命陵墓参考地)204mを挿んで西北にも
『仁徳天皇皇后・磐之媛命平城坂上陵』のヒシアゲ古墳219mがあり、
立派にも周囲は2重の濠と堤に囲まれている。
仁徳天皇は4人の皇后を持ったとされ、「磐之媛命・いわのひめのみこと」は
そのうちの一人で万葉集最古の作者はとされる。
仁徳天皇即位2年に武内宿禰の孫娘この「葛城磐之媛」を皇后とされた。
「記紀」に皇后は嫉妬深い人物で、好色な天皇の女性関係に悩まれていたと。
「古事記」でも宮中に妃として召された黒日売も、皇后の嫉妬を受け実家の
吉備に逃げ帰ったと。
『日本書紀』には仁徳天皇即位16年、女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入ったが、皇后の嫉妬が強くて召し上げられず嘆いている。
即位22年、今度は異母妹の八田皇女を妃にしようとするも皇后の反対で叶わずそして即位30年9月、皇后が熊野へ出かけた隙をつき天皇は八田皇女と関係を持ったが、帰路に知り、木津川(山代川)で詠んだ歌が古事記に
「つぎねふや 山代川はを 川上のぼり 我わが上れば 川の辺へに
生おひ立だてる 烏草樹さしぶを 烏草樹さしぶの木 其しが下に
生おひ立だてる 葉広はびろ 五百箇ゆつ真椿 其しが花の
照り坐いまし 其しが葉の 広り坐いますは 大君ろかも (古事記) 」
激怒が収まらず山背の筒城岡に別居するに至る。
仁徳天皇は皇后を迎えにと山背に行幸して詠んだ歌がある
「山背に いしけ鳥山 いしけいしけ 我が思う妻に いしき会はむかも 」
皇后の怒りは融けず、5年後の即位35年に皇后は崩御されたと。
その後即位38年に天皇は八田皇女を皇后にされている。
こんな近くに仁徳天皇の二人の皇后のお墓があるなんて不思議ですね。
*宮内庁が比定されているだけで、実際は???
夕暮れが近くなり、ヒシアゲ古墳の堤を西に歩く。
磐之媛命平城坂上陵・陪塚い号と水上池の畔の境に万葉歌碑が立っている。
大伴家持に贈った五首の恋歌の一首 。
万葉集 巻四 六七五 中臣女郎(なかとみのいらつめ)
「女郎花 佐紀澤に生ふる 花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも」
原文「娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺可聞」
原文「娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺可聞」
意味:おみなえしが咲き、佐紀沢に咲いている花かつみ、
かつて経験したこともない恋をするものですね。
おとことおんな、向井も今もそして今後も
いろんなできごとが生まれるのでしょうね。
ススキが夕日を浴びて、光っていました。