終の棲家でのんびり暮らす田舎暮らし

リタイア後山中に終の棲家を建て、夫婦二人で自然すぎる環境での田舎暮らしは、どこまで続けられるか。

時間をかけてつまらない記事

2018年05月08日 | 終わった人

フォント・サイズの変えワザの記事を作ったが、読者はいるのか

我が家にとって数少ない花を咲かす植物。少しずつ増えているシランとシロシランの群生が満開になっている。拡大画像になる。

タイトルの通り、時間をかけたわりにつまらない記事を作って遊んでいるわたし。

ブログにそこまで必要なのかと感じながらも、どんどんハマッテしまう特異性だ。

ブログデビューしたときの心躍る新鮮な気持ち、何の知識もなく書くだけで楽しい。

しかし、マンネリとネタ切れで疲れて、変な方向へとずれてHTMLを勉強しだした。

社会から期待されてはいないが、情報の必要な人に少しは役にたてたらという思い。なぜなら、わたしもネットで知りたい情報を貰って助けられたから。

ブログ表示スタイルの変化を少しづつ求めて進化したのかな

ブログに効くHTMLカテゴリーも徐々に集約整理していく考えだ。HTMLを勉強しながら書いてきた記事。中には誤った記載もあり恥ずかしい。

我が家のシロカビタンフジ(白花美短藤)花を咲かしてます。藤つるが徒長して暴れる。選定と棚の整理が必要だ。拡大画像になる。

このようなHTML記事は、勉強と同時にタグ式を書き込んで実験というか試してみないと作れないところがある。

増える知識とともに、過去記事の間違いに気づくことが多々あり簡単に全てを修正することは容易でない。半分あきらめ状態で放置するしかない。

今回のシリーズ「フォント・サイズの変えワザ」で、文字を大きくしたり、小さくしたり、フォントの種類(書体)を変えたりと文字を中心としたブログ記事に役にたつと期待している。次のシリーズは「フォントの色装飾の変えワザ」にハマッテみる予定だが時間はかかるだろう。



これって人生ストリップですか

2017年10月04日 | 終わった人

最後まで自分の生き方を見失うなかれ

お店の書籍コーナーで、PHPベストセレクション  『 生きるのがうまい人、へたな人 』 というタイトルの小冊子が目に留まった。

だれも『 うまい、へた 』 などと考えて生きている人などいないだろうと思いつつ。

まてよ、今のわたしには深刻な悩みはないが、心が揺れる迷いはある。何か一つでもヒントが得られるかなと思い一冊を手にした。

「ヨイトマケ」の歌で知られている『 美輪明宏 』 さんの「自慢しない、羨ましがる必要もない」という記事が先頭に掲載されていた。

記事のなかに 『 落差のない人生は幸せである 』 という見出しの一節に。

SNSが一気に広まったことで、皆が"人生ストリップ"状態。どこへいっただの、何を買っただの、いずれ排泄物になる自分が食べたものを、どうして自慢げに曝け出すのか、私にはわかりません。

PHP 『 生きるのがうまい人、へたな人 』 美輪明宏著10ページより引用

引用文にある「"人生ストリップ"状態」の文字列に、私の思考は混沌(カオス)状態に陥った。

自分としては、
「日記」、「政治評論」を避けて 「田舎暮らし」、「自然観察」、「好きに遊ぶ」、「体験記」的な(くく)りで自身のブログをまとめようと心がけてきたんですが。

「皆が"人生ストリップ"状態」 この言葉から思考が抜け出せない。

いつもの事ですが、
ブログ記事を書くとき、気恥ずかしさと迷いを抱えながらも、つたないブログを書いて世に曝し続けてしまっていることに戸惑いと常に葛藤しているのも事実。しかし、

 「ブログネタを考える、記事を編集する」が頭の活性にもなっている。

他の方のブログを拝読して、「勇気をもらったり」、「知恵をもらったり」、「心が和んだり」、ブログが『 情報の宝庫 』 であるといっても過言ではないと考える。

SNSの世の中には偽ニュースを流す輩もおり、SNSに接したり関わる我々は情報にいちいち惑わされることなく、書く者、見る者は、そのへんをきちんとわかって利用する。
そんなことを述べているのではと自分のなかに落とした。

この文章の締めくくりに 『 人生に落差がないことは幸せ 』 につづき。

人はそれぞれ。楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。何かを得れば何かを失う。だから、自慢してもいけないし、羨ましがる必要もない。

PHP 『 生きるのがうまい人、へたな人 』 美輪明宏著10ページより引用

『 美輪明宏 』 さんに始まり、他の著者の方々のステキな記事が数珠球(じゅずだま)のようにつづき、秋の空を見るような気持ちにさせてくれるでしょう。


自然の植物だって環境と手入れが必要だ

ホトトギス属(杜鵑草属)日陰のやや湿った 斜面や崖、岩場に見られるとある。ヤマユリ同様に生育環境が合っているのか、今年はたくさん増えました。拡大写真あり

我が家の斜面にある植物たち、
一見して半日陰で中高木が覆い被さり お日様サンサンとはいかない。

色とりどりのお花の庭を見ると羨ましく思いますが、派手ではないが落ち着いた色彩の山野草も魅力的で癒される。

これから秋冬に向かって、
ホトトギス・ヤブラン・キチジョウソウなどの小さな花が目を癒してくれることは幸せだ。

妻とふたりで腰をかがんで草取りするのも大変だが、そんな時を楽しめられるのも幸せなことなんだ。 写真のようなステキなご褒美が待っている。

我が家の入り口にある杉の大木、
初めは普通の杉の木だったが、17年経つた現在は御神木(ごしんぼく)のように太り、しめ縄を巻きたくなるほど威風堂々(いふうどうどう)に立っている。( 胸高直径68cm・胸周り215cm・根周り295cm )

通路のコンクリートを10cmほど電動削岩機で丸く壊していくとメッシュ筋が出てきた。番線切りで切断後に土で埋め戻した。
GIF画像の裏に木の静止写真あり

通路のコンクリートを打つ時に隙間を空けて造ったのだったが、八年前に塞がって一度コンクリートを壊した。

またもや根元がコンクリートにあたり、亀裂が出だした。10cmある通路のコンクリートを根元から10cm空けたところで壊すことにした。

わたしが健康で生きていることが前提の話だが、七~八年後には同じ作業が待っている。
なにやら三回目の作業が楽しみになってきた。

木はどこまで生長し太くなるのだろうか、わたしはだんだん老いていくのに。

こんな楽しみも幸せなことだ。


リタイア症候群に向き合う

2017年09月18日 | 終わった人

リタイアでしだいに症状がでてくる

半年かかって四~五年分の薪をつくりました。暑い中頑張って四つの薪棚は35㎥の薪で満杯になった。お金はないが、四年間は確実に暖かく暮らせる。

リタイアで仕事がらみの人間関係がいったんリセットされることだと思う。寂しいと思う人、清々した解放感に浸る人それぞれだ。どちらにしてもすぐに飽きと喪失感が覆い被さってくるのではないか。

リタイア(早期退職、定年退職、廃業引退など)した途端にやりがい生きがいを感じた仕事はなくなり、仕事上の人間関係も同時になくなる。

やることがなく忙しく感じていた日々が懐かしく感じ、行動スケジュールが空白になる人もいる。

これから毎日が日曜日になり、朝からやることがなくなる。

私の場合は一時の解放感に浸っていたが、毎日続く喪失感に仕事人間だった私は数ヶ月苦しんだ。だが街中での暮らしから緑豊かな田舎暮らしへの転換に救われた。

山の中に終の棲家を建てることで、喪失感による「うつ」は吹き飛んでしまった。敷地の木を伐採した木で薪を作ったりと忙しくなった。そば打ち教室に行ったりして気分転換にも成功した。

もう仕事したくないです。毎日遊びたいんです。

なにを言っているんだ!みんな働いているぞ!はじめは妻の加給年金がありがたかった。

政府は、人生100年時代。「65歳から70歳まで働けるだけ働けと」年金支給開始年齢の引き上げを画策している。少子超高齢社会に入って社会福祉の財源不足を喧伝している。小学生でも解ることを政治家は長年にわたって無為無策だったのに今さら。

わたしの車に積んでいる薪作りアイテム。チェンソー、燃料、チェーン油、研ぎ治具、引っ掛けフック、清掃工具、皮むき、鳶、チェーンブロック一式。休憩用椅子

政府はボロボロになるまで働けるだけ働いてください。本音は「運悪く死ぬのを待っているの」

70歳過ぎたら体力頭も劣れてきますよね。これから人生を謳歌しろって言われてもできますか。

国家的詐欺から「運よく年金をいただいている」私だが、手にした第二の人生を謳歌しよう。

何事もほどほどが大切だが。

そう、「リタイア症候群」からの脱出する妙案はないのか。人を頼りにせず、自分で考え自分で解決していく、実はほとんどできるんです。ネットから情報を得ればもう職人です。ありがたい世の中だ。

自分が住んでいる「終の棲家」が、将来的に『 負動産 』 にならないように、価値ある立派な『 不動産 』にグレードアップさせる趣味に無理やり抛りこんでしまう。

いやあ~やる事がいっぱいあるんです。

なけなしの金を使って、業者に頼むなんてもったいない。所詮、職人も自分に毛が生えた程度と思えばいいのだ。 ちょっとぐらいの失敗! 自分の家ですもの 『ノークレーム』 だよ。


ほどほどに生きる効用

2017年09月09日 | 終わった人

ほどほどに生きて、遊んで生活できれば

眉刷毛万年青(マユハケオモト)の花芽が開花しました。日の光を求めて窓際に長い首を伸ばしています。(拡大可能)

わたしは『 ほどほど 』 程々という言葉がすきだ。「広辞苑」には、それぞれの身分、身分相応、ちょうどよい程度とある。

仏教の世界では「中道」という考えがあり、釈尊曰く「八正道」の教えを説いているとか、宗教的には難しい教義解釈が色々あるようだ。

少し乱暴な解釈であるが簡単に言ってしまえば、「何事も両極端はいけない、ほどほどが良い」という解釈もあるようで、宗教学的にかなり深い意味があるようだ。「ほどほど」の効用をよく心得て生きよ。の教えか

少なくとも「曖昧・適当・中庸・中間・中立・中途」などの語句を意味しないことは確かだ。

家の前の道端に咲くハナニラ(花韮)はネギ亜科ハナニラ属に属する多年草。草刈機で刈ってしまうには惜しい花だ。

そもそも、人それぞれに生き方、境涯も違うし、生き様も多種多様なのだから、どれが「いい生き方」なのかと考えることに意味があるだろうか。

さて、「ほどほど」がいいからと言って、曖昧で適当な姿勢で生きるのがよいと捉えてもまずい。

本来、「本当に悩むべきことを悩まず、悩まなくてもよいことを悩んでいる自己に、智恵の眼を生じさせるべきだ。」という言葉をみつけました。

何か、難しいことばの語句を考えていたら、なにか首筋の肩が凝ってきました。

わたしが日ごろ心に留めていることは、この終の棲家に於いて自分自身で日常生活の始末がつけられなくなる前に、終わりにできれば幸せだなと考えている。

けがをしたパンダのような猫が時々やってきます。けがも大分よくなった。ほどほどの距離だが窓越しの関係もいいね。

妻共々に認知症や寝たきりにならずに、寿命まで生かされたいと願うばかり。

だが、自由に活動できない歳まで長生きしたいとは思わない。それに美味しい食事と酒が楽しめない生活も寂しいし望む気もない。

一年を通じて雨の日も風の日も雪の日も、一時間のウォーキングを台風以外は欠かさず毎日実行している。

己にとって、『ほどほど』に生きる人生を考える

我々シニアには、二度目の自由に生きなおす時間を手にしている。心配してもしょうがないことを心配しながら残り時間を数えながら無為に過ごしてはもったいない話だ。

法律に触れること以外、思いつくままやっても咎められることはないだろう。眉を顰められるか変わり者扱いされるだけだろう。よし、思いついたことはできるだけやってみようじゃないか。


精一杯、生きる

2016年09月16日 | 終わった人

台風の接近やら前線の影響なのか毎日朝から雨の日が続く。なにかスッキリとしない。こんな時は、TOHOシネマズの午前十時の映画祭7 デジタルで蘇る永遠の名作選の中から「生きる」を見に行くに限る。私のようなシニアにお勧めの作品ではないか。

ある市役所の市民課長渡邊勘治を演じる志村喬は、役人として喜びもやりがいも実感することなく死ぬほど退屈な三十年という歳月を無欠勤で奉職してきた。

そんな男が、初めて無断欠勤をして病院の診察を受けることに、医者から単なる胃潰瘍だと告げられるが胃ガンであること余命半年であることを悟るのである。

映画はここから始まり、回顧形式で展開されていく。内容は実に簡単な出来事なのだが志村喬の迫真の演技にはただただ脱帽である。黒澤映画はやはり面白いの一言だ。

上手な文章は書けないが思いつくままにあらすじを書いてみた。

生きる希望を失った男は真っ暗な家の中で絶望の淵にたたずんでいた。
そこへ、幼い一人息子を残し早くに逝ってしまった妻の後、後妻をもらわず男手一人で立派に育て上げた自慢の息子夫婦が帰って来た。

息子夫婦は、父親の退職金や貯金を当てにして家を新築して、父親とは別居を相談する夫婦の会話を耳にしてしまう。

生きる支えにしてきた息子への愛情は崩れ、さらなる絶望へと落とされる。

いたたまれず家を出た渡邊勘治は、とある居酒屋で知り合った小説家と語りあうことに、死ぬ前に金を使い果たしたいという言葉に、小説家はくそ真面目で実直な渡辺が知らないであろう女と情欲の混沌の世界を死ぬ前に案内してやろうと飲み歩くことに。

疲れ果てたふたりは、賑やかなとあるダンスホールにたどり着く。
渡邊勘治は、「ゴンドラの唄」をピアノで弾かせる。場の空気は静まりかえり、曲に合わせて歌う『 志村 喬 』の低くゆっくりと響く 『 ♪いのち短し 恋せよ少女 朱き唇 褪せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日の ないものを・・・♪ 』

心のそこに染み渡るような唄が、私の心を揺さぶった。

その翌朝、長年愛用した帽子を昨晩、通りすがりの街娼に取られてしまった。
新たに買いたした帽子を被って歩いていた渡辺は、自分の配下である小田切という若い女事務員と出会うことに。

彼女は上司である渡辺の自宅で、市役所での仕事は「死ぬほど退屈でつまらない」、「もっとやりがいのあることをしたい」と訴えて辞職願いに判を迫る。

その後、彼女はオモチャを作る町工場で働くことになる。

渡辺は欠勤したまま五日間、彼女を食事に誘いただ時が過ぎるのを楽しんでいたのだが、若い小田切はしだいにいやになってくる。「 私は必死でオモチャを作ることに生きているの 」と付きまとう渡辺に言い放ち突き放した。

その言葉にはっとした渡辺は、「 死ぬほどの退屈さをかみ殺して、事なかれ主義の盲目判を機械的に押してきた 」自分を恥じた。

渡辺勘治は残り少ない生命の限りを生きてみようと燃えた。

その翌日から市役所に出勤した渡辺は、周囲の目を気にすることなく尋常ならざる目つきである書類を探した。それは、下町の主婦達が家の周りでの低地に溜まる汚水対策を市民課の窓口へ陳情に来たときの書類だ。

今でこそ、「すぐやる課」などと「ワンストップ」でとかお役所仕事も改善されてきたようだが、舞台の市役所は何もしないことを目指しているような、窮状を訴える下町の主婦達を次から次へと課をたらい回しにし諦めるのを待つ。

市民の要望をたらい回しにして追い返す噴飯ものであった。

市民課長である渡辺勘治は、「 命の残り火と戦うがごとく 」、必死の努力が実って市民達を困らせてきた汚水問題は子供達が遊ぶことができる公園にと整備された。

完成した夜更けの雪降る公園のブランコで、一人渡辺はダンスホールで歌った低くゆっくりとした声で、やり遂げた満足感に満たされ歌いながら静かに息を引き取った。

エンディングは市の助役を筆頭に上級幹部、管理職、平職員が集う通夜に始まる。

ここでもよくある人間模様が笑える見どころであろう。