石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

「湊の知人」さんからのお便り

2022年06月05日 | お便り

              写真は木の屋水産の金華さばの缶詰です。

 

久しぶりに湊の知人さんからお便りが届きました。

紹介いたします。

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 私は木の屋石巻水産の缶詰、小女子の佃煮が好きで良く食べていたものでした。が、この3年間は手に入りませんでした。

 小女子の不漁により今年の春も製造中止になり、製造中止が今年で3年も続いています。

 

 昨年の秋の秋刀魚も不漁でしたね。スーパーに並ぶ秋刀魚が小ぶりでした。

 木の屋の秋刀魚の缶詰も製造中止になりました。

 

 これは一体どうしてなのでしょう?

 日本近海の魚の生態はどうなっているのでしょう。

 地球温暖化や異常気象のせいもあるのでしょうか。

 他国の漁獲量の変化のせいでもあるのでしょうか。

 又は、北朝鮮のミサイルが日本海に着弾するせいでもあるのかもわかりません。

 日本海側では日本の湊に水揚げされるはずの魚達がたくさん殺されている。人間が食べる前に、北朝鮮のミサイルにやられているのです。もったいない。        ある人がミサイルを使って海の魚を大量に殺して、手を叩いて喜んでいるようにも見えます。

 それとも世界を脅して喜んでいるのかな?

 他に何か理由があるのでしょうか?

 

 日本人の私はミサイルが海に落ちて、ひとまず安心してホッとします。魚よりも日本人の命のほうが絶対に大切だから。

 その次の瞬間にはミサイルが海の中で爆発することを心配します。大量の魚が死んでしまうのだから。もったいない。

無駄死にだ。

 

 今の時代になってもこういうことが起きている。

 戦争でさえも起きている。

 

 木の屋の缶詰小女子の佃煮はいつ製造出来るようになるのでしょう。ちょっと食べたいな。

 

 他の缶詰は、まだたくさんあるそうです。鯖缶各種、鰯缶各種、マグロ缶各種、あなご醤油煮缶、鯨缶各種、みがきにしん甘露煮缶、わかさぎ甘露煮缶、鮭の中骨缶、カレイの縁側缶は例年通り製造されているので、今のところはまだあるそうです。

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「湊の知人」さんお便りありがとうございます。

そうなんですね。

木の屋さんでは様々な缶詰を出していてもその時の漁獲量などで生産が影響されるのですね。(当たり前のことながら缶詰はいつもあるような錯覚をしていた私...)

そして、お気に入りの缶詰がない寂しさがなかなか解消されない現状が「湊の知人」さんに世界規模の想像までさせるのですね。なにしろ海は世界的なつながりがありますものね。

小女子(こうなご)は昔しょっちゅう聞いていた名前ですが、今どんな魚だったか思い浮かびません。

(随分魚離れしててしまっているのかな? )

 

余談ながら

私は、石巻を離れてからは   特に最近はあまり様々な魚介類を食べなくなりました。

石巻にいる時や実家に帰った時は、いつも母が、近所の魚屋さんで水揚げしたばかりの生きの良い魚介を買ってきて食べさせてくれていました。

本当に新鮮でおいしい様々な魚介を食べていたと思います。(ナマコやホヤなども)

その時の美味しさが潜在意識にあるせいか。本当に新鮮なものを手に入れ、すぐに調理する時間が保証?できない時は敬遠してしまっているのかもしれません?(それとも手間暇や調理法の不足にもよるものか?・・・)

 

魚貝類は海の幸!!海を汚さず荒らさずいつまでも美味しいものをいただきたいものです。

木の屋さんがいつまも美味しい缶詰をたくさん製造できる海であってほしいです。

 

 


サンファンバウテスタ号の夢~~その3

2021年12月11日 | お便り

 

 

前回は次のところまででしたね。

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 常長がメキシコのアカプルコに着く頃には、日本では全国にキリスト教禁止令が出ていたのです。

 

 でも、常長は政宗公の命令に忠実でした。

 

 そのまま命令の遂行を続けるのです。

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では、その続きをどうぞ!

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 常長は次にスペイン艦隊に便乗して大西洋を渡り、スペインに上陸します。

 この頃、乗組員は30人で残りはメキシコに留まりました。

 

 ソテロの出身地セビリアでは大歓迎を受けて、その後マドリードに行きました。

 スペイン国王フィリペ3世に会い、政宗の手紙を渡します。

 

 そして常長はキリスト教の洗礼を受けます。フィリペ3世やのちのフランス王妃たちの列席のもとに、洗礼名は国王と聖人の名を冠した「ドン・フィリポ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモン」でした。

 しかし、国王から華やかな歓迎を受けたにも関わらず、政宗の手紙への良い返事はもらえずにマドリードに8ヶ月も滞在しました。

 

 良い返事をいただきたいと頑張りましたが、ダメでした。

 

 原因は、ソテロに対立するビスカイノやイエズス会側から、日本国内の禁教と弾圧や政宗公が地方の一大名に過ぎないという常長にとって不利な情報がもたらされた為でした。

 

 しかたなく常長は、ローマ教皇への手紙を持ちローマへ向かう、その途中、フランスのサン・トロペに上陸します。

 

 その様子がヨーロッパ側の記録として「伊達政宗遣欧使節記」に残っています。

 

 ローマに着いた常長はローマ市入市式の行進を行いました。

 

 日本人が鼻をかんで捨てた鼻紙がローマ市民にとっては珍しくて、拾われたそうです。チリ紙がとても人気だったそうです。

 西欧では、鼻をかむ時はハンカチを使うからなのです。

 

 そうして、バチカンのパウロ5(キリスト教首長)に会い政宗公の手紙を渡しました。

 

 常長はローマで貴族の位を与えられ、他の8名と共にローマ市民権を授与されました。

 ローマ教皇から宣教師派遣の許しを得て、再びスペインのマドリードに戻りましたが、セビリアへ移されてしまいます。

 

 使節団の多くを帰国させてから、常長はソテロと共にフィリペ3世に交渉を続けましたが良いお返事は得られず、追われるようにヨーロッパを離れました。

 

 その時、ソテロから政宗へ要望が伝えられて、浦賀にいた僕はアカプルコまで常長さんを迎えに行きました。

 そして引き返して、フィリピンのマニラに行きました。

前回と今回とで僕は2回太平洋を往復しました。

 

 マニラに着いた僕はスペインに買い取られて軍艦になりました。

 スペインがフィリピンの領有をめぐってオランダと戦争をしていたからです。

 

僕はその後の自分のことが分かりません。 いくら考えても思い出せません。

 どうしてなのだろう?

 

 常長はとうとう目的を達することが出来ずに、失意の心で仙台に帰ることになります。

 

 政宗は常長が無事に戻ったことを喜び、労をねぎらいました。 そして、海外経験7年間の報告書をつくり幕府に提出しました。

 

 ただ一つ困ったことがありました。

 

 政宗はキリスト教禁止令から常長をかくまい助ける為に、その信仰を捨てることをそっとすすめたこともありました。

 が、常長はどうにもなりませんでした。

 

 残念ながら、その12年後に病気で亡くなります。

享年51歳でした。

 

一方、按針さんも妻も子も既に他界して1人になっていました。

 そうして、生まれ故郷のイギリスに帰りたいと思い長崎に向かいました。

 

 イギリスには前妻とその子がいたのでした。

 

 ところが長崎まではたどり着くのですが、そこで病気になり亡くなってしまうのです。 享年56歳でした。

 

按針さんは日本の恩人です。 良い人です。

 今でも長崎の人々は按針さんの歌を唄い続けているそうです。

 そして、按針さんのお墓を守ってくださっているそうです。

 

 常長さんも優秀で気品のあるりっぱな人でした。

 

 僕の夢は按針さんの魂と常長さんの魂を乗せて大海へと漕ぎ出すことです。

 

 400年の時を超えて、叶わなかった2人の夢を乗せて、前へ前へとグングンと進んで行きたい!

 

 太平洋に帆をあげて!

 

 それが僕の夢だから。

 

      終わり

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あとがき

 

 人は誰もが叶わない夢を持っているものだと思います。

 サンファンの夢も初めから叶わぬ夢なのでしょう。

 

 石巻の浜辺で解体工事が始まりました。

 

 ヨーロッパへ夢を馳せて使節団を派遣した政宗公でさえ、その後はキリスト教弾圧へと変わってゆくのです。

 

 同じ時代を生きた按針と常長の2人の有名人は、お互いの存在を知っていたに違いありません。しかし、面識があったかどうかはハッキリ分かりません。

 もしかして、若かりし頃に共に名君の家来として、身近ですれ違っていた可能性があります。

 

 大航海時代、1613年の石巻には外国人が大勢いたことが分かります。石巻はグローバルだったのですね。

 

 現代のコロナ禍で、鎖国制度がありがたいと思いましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      ひつじあかねさん夢のあるお話をありがとうございます。

参考文献や関係する年表も添付していただいているのですが、それを紹介する前に、ちょっとサンファンさんに、お知らせしたいことがあります。

それは、支倉常長さんのお墓についてです。

常長さんのお墓ははっきりしているだけでも三つの説があります。

一つは、仙台市北山にある東光寺説、もう一つは彼の生まれ故郷ともいえる川崎町支倉地区の円福寺説、そしてもう一つは黒川郡の大郷町説です。

特に、大郷町では「支倉常長メモリアルパーク」として東成田に美しく整備されています。

鬱蒼とした木々が立ち並ぶ道を進んでいくと、急に整然とデザインされた公園が現れる。そんな場所です。

入口には常長の銅像が立ち、この公園が支倉常長の墓へとアクセスする道を中心に公演整備されたものです。

様々な憶測のもと、歴史上の史実から大郷町の隠遁説が有力視されているとのことです。

現在「梅安清公禅定門 支倉氏」と書かれ、全国から参拝者が訪れるるそうです。この墓によると84歳まで生きたことが分かります。

常長の偉業と当時のキリスト教禁止のはざまでのやむなき事情の中で...・あなたはどう考えますか?調べてロマンに夢を馳せるのも素敵ですね。

サンファンさん、あなたたちは本当に素晴らしいことを成し遂げましたね。石巻のサンファンバウテスタ号は解体されてしまいますけど、歴史は残ります。ロマンをのせて。

夢は人々の心の中で実現されるかもしれません。

それにしても、石巻の昔からのグローバル化、やはり海は世界と繋がっている、その意味を改めて感じさせられるサンファンさんのお話でした。

 

年表や参考文献は次回に回します。

 

※ イラスト・写真はフリー素材使用