前回は次のところまででしたね。
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常長がメキシコのアカプルコに着く頃には、日本では全国にキリスト教禁止令が出ていたのです。
でも、常長は政宗公の命令に忠実でした。
そのまま命令の遂行を続けるのです。
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では、その続きをどうぞ!
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常長は次にスペイン艦隊に便乗して大西洋を渡り、スペインに上陸します。
この頃、乗組員は30人で残りはメキシコに留まりました。
ソテロの出身地セビリアでは大歓迎を受けて、その後マドリードに行きました。
スペイン国王フィリペ3世に会い、政宗の手紙を渡します。
そして常長はキリスト教の洗礼を受けます。フィリペ3世やのちのフランス王妃たちの列席のもとに、洗礼名は国王と聖人の名を冠した「ドン・フィリポ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモン」でした。
しかし、国王から華やかな歓迎を受けたにも関わらず、政宗の手紙への良い返事はもらえずにマドリードに8ヶ月も滞在しました。
良い返事をいただきたいと頑張りましたが、ダメでした。
原因は、ソテロに対立するビスカイノやイエズス会側から、日本国内の禁教と弾圧や政宗公が地方の一大名に過ぎないという常長にとって不利な情報がもたらされた為でした。
しかたなく常長は、ローマ教皇への手紙を持ちローマへ向かう、その途中、フランスのサン・トロペに上陸します。
その様子がヨーロッパ側の記録として「伊達政宗遣欧使節記」に残っています。
ローマに着いた常長はローマ市入市式の行進を行いました。
日本人が鼻をかんで捨てた鼻紙がローマ市民にとっては珍しくて、拾われたそうです。チリ紙がとても人気だったそうです。
西欧では、鼻をかむ時はハンカチを使うからなのです。
そうして、バチカンのパウロ5世(キリスト教首長)に会い政宗公の手紙を渡しました。
常長はローマで貴族の位を与えられ、他の8名と共にローマ市民権を授与されました。
ローマ教皇から宣教師派遣の許しを得て、再びスペインのマドリードに戻りましたが、セビリアへ移されてしまいます。
使節団の多くを帰国させてから、常長はソテロと共にフィリペ3世に交渉を続けましたが良いお返事は得られず、追われるようにヨーロッパを離れました。
その時、ソテロから政宗へ要望が伝えられて、浦賀にいた僕はアカプルコまで常長さんを迎えに行きました。
そして引き返して、フィリピンのマニラに行きました。
前回と今回とで僕は2回太平洋を往復しました。
マニラに着いた僕はスペインに買い取られて軍艦になりました。
スペインがフィリピンの領有をめぐってオランダと戦争をしていたからです。
僕はその後の自分のことが分かりません。 いくら考えても思い出せません。
どうしてなのだろう?
常長はとうとう目的を達することが出来ずに、失意の心で仙台に帰ることになります。
政宗は常長が無事に戻ったことを喜び、労をねぎらいました。 そして、海外経験7年間の報告書をつくり幕府に提出しました。
ただ一つ困ったことがありました。
政宗はキリスト教禁止令から常長をかくまい助ける為に、その信仰を捨てることをそっとすすめたこともありました。
が、常長はどうにもなりませんでした。
残念ながら、その1〜2年後に病気で亡くなります。
享年51歳でした。
一方、按針さんも妻も子も既に他界して1人になっていました。
そうして、生まれ故郷のイギリスに帰りたいと思い長崎に向かいました。
イギリスには前妻とその子がいたのでした。
ところが長崎まではたどり着くのですが、そこで病気になり亡くなってしまうのです。 享年56歳でした。
按針さんは日本の恩人です。 良い人です。
今でも長崎の人々は按針さんの歌を唄い続けているそうです。
そして、按針さんのお墓を守ってくださっているそうです。
常長さんも優秀で気品のあるりっぱな人でした。
僕の夢は按針さんの魂と常長さんの魂を乗せて大海へと漕ぎ出すことです。
400年の時を超えて、叶わなかった2人の夢を乗せて、前へ前へとグングンと進んで行きたい!
太平洋に帆をあげて!
それが僕の夢だから。
終わり
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あとがき
人は誰もが叶わない夢を持っているものだと思います。
サンファンの夢も初めから叶わぬ夢なのでしょう。
石巻の浜辺で解体工事が始まりました。
ヨーロッパへ夢を馳せて使節団を派遣した政宗公でさえ、その後はキリスト教弾圧へと変わってゆくのです。
同じ時代を生きた按針と常長の2人の有名人は、お互いの存在を知っていたに違いありません。しかし、面識があったかどうかはハッキリ分かりません。
もしかして、若かりし頃に共に名君の家来として、身近ですれ違っていた可能性があります。
大航海時代、1613年の石巻には外国人が大勢いたことが分かります。石巻はグローバルだったのですね。
現代のコロナ禍で、鎖国制度がありがたいと思いましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ひつじあかねさん夢のあるお話をありがとうございます。
参考文献や関係する年表も添付していただいているのですが、それを紹介する前に、ちょっとサンファンさんに、お知らせしたいことがあります。
それは、支倉常長さんのお墓についてです。
常長さんのお墓ははっきりしているだけでも三つの説があります。
一つは、仙台市北山にある東光寺説、もう一つは彼の生まれ故郷ともいえる川崎町支倉地区の円福寺説、そしてもう一つは黒川郡の大郷町説です。
特に、大郷町では「支倉常長メモリアルパーク」として東成田に美しく整備されています。
鬱蒼とした木々が立ち並ぶ道を進んでいくと、急に整然とデザインされた公園が現れる。そんな場所です。
入口には常長の銅像が立ち、この公園が支倉常長の墓へとアクセスする道を中心に公演整備されたものです。
様々な憶測のもと、歴史上の史実から大郷町の隠遁説が有力視されているとのことです。
現在「梅安清公禅定門 支倉氏」と書かれ、全国から参拝者が訪れるるそうです。この墓によると84歳まで生きたことが分かります。
常長の偉業と当時のキリスト教禁止のはざまでのやむなき事情の中で...・あなたはどう考えますか?調べてロマンに夢を馳せるのも素敵ですね。
サンファンさん、あなたたちは本当に素晴らしいことを成し遂げましたね。石巻のサンファンバウテスタ号は解体されてしまいますけど、歴史は残ります。ロマンをのせて。
夢は人々の心の中で実現されるかもしれません。
それにしても、石巻の昔からのグローバル化、やはり海は世界と繋がっている、その意味を改めて感じさせられるサンファンさんのお話でした。
年表や参考文献は次回に回します。
※ イラスト・写真はフリー素材使用